第100話:銅貨の革命
俺は晩餐会の興奮冷めやらぬ様子で報告に来た、昨晩のグスタフの顔を思い出していた。
『大成功ですよ、ゼクトさん!ダリル公爵は、悔しさも忘れてチェス盤を抱え、まるで宝物でも手に入れた子供のように帰っていきました!』
聞きながら齧ったポテチの味と一緒に反芻し、俺は満足して目を細めた。
(よし。晩餐会で蒔いた「チェス」という名の種は、期待以上の速度で発芽している。ダリル公爵の領地では、すでに軍師たちが定跡の研究に明け暮れているだろう。これで連中の思考リソースを『盤上』という隔離された環境に固定できたな。しばらくは外部からの攻撃の心配もないだろう)
そう確信し、リクライニングを倒して目を閉じようとした、その時だった。
「ピンポーン!ピンポン!ピンポン!ピンポーン!」
(……またか。この、物理的な圧力を伴うチャイムの連打には覚えがある)
「ゼクトさんよ!上がらせてもらうぜ!」
怒声と共にリビングへなだれ込んできたのは、ガラム親方だった。ガラムの顔は、鍛冶場の熱気とは違う、どす黒い不満で上気していた。
「あ、ああ、親方。晩餐会はお疲れ様。……で、何だい。せっかくのスリープモードを邪魔しに来たってことは、何か重大な不具合でもあったの?」
「不具合なんてもんじゃねぇ!あんた、正気か!?あのチェスセットの販売権を、他領の連中にタダで配りやがって!」
ガラムはテーブルを拳で叩き、身を乗り出した。
「うちの若い奴らはな、もう次の新作を考えてたんだぜ!『エルフ風の透かし彫り』とか『宝石を埋め込んだ豪華版』とかよ。独占販売すればフェルゼンに金が唸るほど入るってのに、なんでわざわざ利権を捨てちまうんだ!」
(……ああ。ハードウェアのスペック向上にこだわりすぎて、プラットフォーム戦略が見えてないな。職人のサガってやつか)
俺は「怠惰の玉座」から動かず、ぬるくなったコーラを一口飲んでから、冷静にロジックを展開した。
「親方。チェスを独占販売したところで、そんなのすぐに『頭打ち』になるよ」
「あぁ!?売れるだろうが!あれほどの至宝なんだぞ!」
「いいかい。チェスの本質的な価値は、駒の造形にあるんじゃない。六十四のマスの上で動く『ルール』にあるんだ。……造形にこだわらなければ、チェスなんて板と石ころ、なんなら地面に線を引くだけでも遊べる。百均……あー、銅貨一枚で売ってるレベルのものでも十分に楽しめるんだよ」
ガラムが「銅貨一枚……?」と首を傾げるのを無視して、俺は続けた。
「GNUって概念があってね。簡単に言えば、『このルールや仕様はみんなの共有財産だから、誰がどこで複製して使ってもいいですよ』っていう宣言だ。このやり方で世界中の基幹システムを支配した無料のプログラムがある。タダだからこそ皆が使い、それが世界の『当たり前』になった。そうなれば、その仕様を決めている元締めは、世界中の基準そのものになれるんだよ」
まだ納得がいかない様子のガラムを見ながら、更に説明を加える。
「もしも厳しく取り締まって、フェルゼンだけで独占販売すれば、それはただの高価な工芸品で終わる。金持ちの棚に飾られて、文化としてはそこで死ぬんだよ。俺がやりたいのは、チェスをこの世界の『共通言語』にすることだ。他領の職人に勝手に作らせれば、チェスは爆発的に普及する。そして皆が対局に明け暮れるようになれば、そのルールの元締め……フェルゼンの権威は、誰にも覆せなくなるんだ」
「……利権を捨てることで、もっとデカい場所を支配するってのか?」
「そう。目先のキャッシュより、デファクトスタンダード(事実上の標準)を取るのが正解だ」
(……とはいえ、いつまでもカジノの外貨プールだけで食っていくわけにもいかないな。そろそろ、貿易収支も安定させなきゃいけない頃合いか。何か、世界中のユーザーが日常的に使う共通の基準になるような道具はないかな……)
俺は、気持ちが空回りして肩を落とし始めたガラムに視線を戻した。
「……それよりもさ、親方。創作意欲の行き場を失った職人たちがいるなら、もっと別の、フェルゼンを世界一の供給元にするためのプロジェクトがあるんだけど、興味ない?」
ガラムの眉がピクリと動いた。
「……ほう、フェルゼンの名物作りか。だがよ、チェス以上の至宝なんてそうそうねぇぜ?」
「ターゲットを変えるんだよ。一人の貴族に白金貨一枚の宝飾品を売るんじゃなくて、一万人の平民に銅貨数枚で買える便利な道具を売る。例えば……」
俺はキッチンから二つの道具を持ってきてガラムに渡した。
「全く狂いのない『定規』。それから、正確な分量が量れる『計量カップ』。……親方、あんたの弟子たちは、そうだね……とりあえず百個、これと『全く同じ規格』で作れるかな?」
「定規だと?そんなもん、木っ端に線を引けば誰でも作れるじゃねぇか。職人の仕事じゃねぇぜ」
ガラムが鼻で笑ったが、俺はわざとらしく口角を上げた。
「……本当にできるかな?一個ならできるだろう。だが、百個全て、全く狂いもなく『同じ精度』で作り出す。……それは一個の芸術品を作るより、遥かに高度な技術と工程管理が要求される、究極の職人課題だよ?」
ガラムの顔から、不満が消えた。代わりに、熟練の職人特有の、獲物を狙うような鋭い目が戻ってきた。
「……百個、全く同じ寸法か。……ふん、面白いじゃねぇか。よしっ……一週間だ。一週間後にその目をひん剥いてやるぜ」
ガラムは嵐のように去っていった。これでしばらくは、弟子たちと一緒に「量産」という名の高難度ミッションに没頭してくれるだろう。静寂が戻ったリビングで、俺は再びリクライニングを倒した。
「ナォン(……この世界中の『長さ』をあんたの物差しで上書きしようとしてるわけね)」
(全ての家庭にフェルゼン製の定規が普及すれば、建築も、商売も、全てが俺の提供した規格に依存することになる。……ボトムアップの市場掌握。これが、本当の『強制アップデート』だよ)
ガラムの鼻息とともに、フェルゼン産業革命が騒々しく始まった。




