第98話:軍略家の休息
晩餐会の喧騒が心地よい余韻へと変わり、招待客たちは新都市の一角に設けられた最高級の宿泊施設へと案内された。
夜の帳が下りたフェルゼンの街は、無数の魔石灯が放つ柔らかな光に包まれている。舗装された道を行く貴族たちは、伝わってくる石畳の滑らかさに驚いていた。
ダリルは、案内された迎賓館のバルコニーで、独り夜風に吹かれていた。
彼の目線の先には、整然と区画整理された街並みと、その中心で宝石のように輝くカジノの灯りが見える。かつて「死にかけの領地」と蔑んでいた場所が、今、周辺で最も眩い輝きを放っている。その事実に、彼は否定しがたい敬意を抱き始めていた。
「公爵閣下。お部屋の設えには、ご満足いただけたでしょうか」
背後からかけられた声に、ダリルは振り返ることなく口を開いた。
「……グスタフ殿か。ああ、非の打ち所がない。この歳になって、他人の領地でこれほど安らげるとは思わなんだ」
グスタフが隣に並び、同じ夜景を見つめる。ダリルは、先ほど贈られた木箱から黒檀のナイトを取り出し、指先でその精緻な彫刻をなぞった。
「……この『チェス』という遊戯、先ほどは熱くなってしまったが、実に素晴らしいものだな。実際の戦場とは違う。あまりに清潔で、残酷なまでに論理的だ。だが、不思議と通じる部分もあった」
「軍略家として名高い公爵閣下にそう言っていただけると、準備した甲斐があります」
「ふん。……この遊戯、突き詰めれば一つの境地に辿り着くのではないか?互いに最善の手を読み、一切の隙を排して戦えば……結局のところ、勝敗はつかず、『引き分け』に終わる。そうだろう?」
グスタフは僅かに目を見開いた。ゼクトが戦術書を渡した際、余談として口にしていた「完全な最適化の果て」を、ダリルはたった数局の対局だけで見抜いたのだ。
「……仰る通りです。上級者同士が全力を尽くせば、盤上は膠着し、引き分けが多くなると聞いております」
「戦も同じだ。互いに退けぬ事情があり、互いに無策でなければ、待っているのは際限のない消耗と、共倒れという名の引き分けだ。……三年前の灰色の冬も、結局は誰も勝たぬ、悲惨な引き分けだったな」
ダリルは少しだけ目を細め、静かに騎士の駒を握りしめた。そこには、ただの強欲な領主ではない、民を背負う者としての深い悔恨が滲んでいた。
「だからこそ、だ。戦場を盤上に移し、こうして美食と美酒を楽しみながら知を競い合える。……グスタフ殿、貴殿が作ろうとしているのは、ただの便利な街ではないのだな。戦わずして勝る、あるいは戦わずして並び立つための『舞台』か」
「……過分なお言葉です」
「だが、勘違いするなよ」
ダリルはニヤリと、若き将軍のような不敵な笑みを浮かべてグスタフを見た。
「次は今回のようにはいかん。我が領には知恵の回る学者が大勢いる。彼らと共にこの駒を徹底的に研究し、次の機会では、貴殿が築き上げたその『定跡』を根底から叩き潰してやるつもりだ。……これほどの屈辱、黙って飲み込むほど私は丸くなってはいないぞ」
それは、隠しきれない親愛が混じった、最高の賛辞としての挑戦状だった。グスタフはそれを受け取り、どこか誇らしげで、それでいて確信に満ちた微笑を浮かべた。
「……ええ、そうかもしれません。……おそらく次は、『私』では閣下に勝つことはできないでしょう」
「なに? ……謙遜か? それとも、早くも逃げ口上を用意したのか?」
ダリルが不審げに眉を寄せたが、グスタフは首を横に振った。
「いえ。ただ、フェルゼンには私などよりも遥かに深く、この盤上の深淵を理解している者がいるのです。……次回、閣下の対局相手を務めるのは、その者になるかもしれません」
「……ほう。貴殿以上の軍略家が、このフェルゼンに隠れているというのか」
ダリルは面白そうに鼻を鳴らした。自分を負かしたグスタフが「自分より上だ」と断言する存在。それは一体、どのような英傑なのか。
「面白い。ならば、その知性の化け物を連れてくるがいい。そいつもまとめて、私の執念で捻り潰してやる。……楽しみにしているぞ、グスタフ殿」
「ええ。私も楽しみにしております。……それでは公爵閣下。明日は新都市のインフラをご案内いたします。今夜は、どうぞ安らかな眠りを」
グスタフは慇懃に一礼し、バルコニーを後にした。 一人残されたダリルは、再び夜景に目を向けた。手の中にある騎士の駒は、月の光を受けて黒々と輝いている。
「……フェルゼン、か。面白い時代になりそうだ」
彼は小さく独り言ちると、満足げに笑い、用意された極上の寝床へと向かった。




