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黒猫勇者と怠惰の宰相 〜引きこもりの俺、安眠のためにリモートワークで異世界を改革する〜 膝の上の愛猫が最強勇者であることを俺は知らない  作者: 香箱
第四章:怠惰の共生

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第97話:盤上の屈辱

 ダリルは広間の片隅へと視線を向けた。そこには小さな円卓が並び、その上には白と黒の彫刻が施された駒が整然と並ぶ板――グスタフが「知の遊戯」と呼んだものが置かれていた。


「ふん。……子供騙しを」


 ダリルは鼻で笑い、その卓の一つに歩み寄った。近くで見れば、駒の造形は見事だった。深い艶を放つ黒檀と、滑らかな白磁。だが、ダリルにとってそれは、子供たちが路地裏で石ころを並べて遊ぶ「騎士ごっこ」を豪華にしただけにしか見えなかった。


「グスタフ殿。演出としては上出来だが、少しばかり退屈ですな。我々を招いたのは、この立派な『おもちゃ』を見せびらかすためですか?」


「公爵閣下。そう仰るのも無理はありません。……ですが、まずは一手、動かしてみることをお勧めいたします。これは運を排除した、純粋な論理の戦いですから」


 運を排除した戦い。その言葉に、軍略家としての矜持がわずかに反応した。ダリルは促されるまま椅子に腰掛け、駒の動きの説明を受けた。一通りのルールを理解するのに、そう時間はかからなかった。


「……なるほど。一手動かせば、それに対して相手が返す。それを予測して罠を張るわけか。面白い、一つ付き合おう」


 最初の一局。ダリルは余裕を持っていた。彼は数多の戦場を経験してきた男だ。歩兵を前進させ、騎士を遊撃に出す。実戦で培った定石をそのまま盤上に持ち込んだ。

 だが、十分もしないうちに、ダリルのキングは行き場を失い、グスタフのクイーンの前に膝をついた。


「……詰み、です。公爵閣下」


「……何? ああ、なるほど。この『ビショップ』の動きを見落としていた。駒の動きに慣れていなかっただけだ。もう一度頼む」


 ダリルは苦笑いをして盤面をリセットした。二局目。ダリルは本気になった。自領の守備を固めつつ、中央を制圧する「三方包囲」の構えを盤上で再現しようとした。

 しかし、ダリルが思うように駒を置く前に、予見していたかのような一手が打たれている。ダリルが攻めに転じようとした瞬間、すでにグスタフの伏兵が背後に回っていた。


「……チェックメイト。詰みですね」


 ダリルの指が、空中で止まった。盤面を見れば、先ほどよりもさらに無残な形で包囲されている。


「……おかしい。今の動き、貴殿は私の狙いを知っていたのか?いや、もう一度だ!次こそは勝たせてもらうぞ!」


 三局目。ダリルの額には、じわりと汗が浮かんでいた。

 周囲の貴族たちも、食事の手を止め、固唾を呑んで盤上を見守っている。ダリルは慎重に、一手打つごとに時間をかけて考え込んだ。あらゆる可能性を検討し、実戦ならば勝利を確信できる布陣を敷いたはずだった。

 だが、グスタフが涼しい顔で駒を動かすたび、ダリルが必死に築き上げた防壁に、目に見えない穴が開いていく。

 まるで、こちらの思考の終着点に、相手が先に立って待っているかのような絶望感。


「……チェックメイト」


 静かな宣告が、広間に響いた。ダリルは、震える手でキングを握った。三度やって、三度とも完敗。それも、回を重ねるごとにグスタフの勝利速度が上がっている。


「……なぜだ。なぜ勝てん……!私は西の山岳戦でも、数倍の敵を相手に勝利を収めてきたのだぞ!それがなぜ、こんな小瓶の蓋のような駒の動かし合いで、若造の貴殿に一度も通用せんのだ!」


 ダリルの声は、怒りよりも悲鳴に近かった。

 これまで培ってきた、経験や勘、そして「貴族としての自尊心」が、この白と黒の盤面の上で、無残にもゴミのように処理されていく感覚。


「公爵閣下。戦場には霧がありますが、この盤上には全てが曝け出されています。ここにあるのは、純粋な演算と定跡……いわば『正解』の積み重ねなのです」


 グスタフの言葉は、冷徹な刃となってダリルの誇りを切り裂いた。ダリルは理解してしまった。

 自分たちは、霧の中での運や勘に頼って生きてきた。だが、フェルゼンの主は、最初から「正解」が見えている世界を運営しているのだ。


 物理的な騎士団の規律。文化的なチーズの衝撃。そして、この圧倒的な知性の格差。


 ダリルは、椅子の背もたれに力なく体を預けた。もう、フェルゼンを「泥臭い辺境」だなどと嘲笑える者は、この場に一人もいなかった。


「公爵閣下。……この戦盤、ぜひお持ち帰りください。そして……もし宜しければ、次回の晩餐会までに練習してきて頂けますでしょうか?」


 グスタフが差し出したのは、敗者への慈悲などではない。

 「次こそは勝てる」という渇望を植え付け、ダリルの思考の全てをフェルゼンというプラットフォームに依存させるための、とびきり甘い呪いだった。


「あ……ああ、持って帰らせてもらおう」


 ダリルは、震える手で黒檀の騎士を握りしめた。

 彼の心の中にあったフェルゼンへの侮蔑は、今や、底知れぬ「敗北感」と、そしてこの遊戯を攻略したいという「異常な執着」へと書き換えられていた。


 グスタフは広間に控えていた従者たちに目配せをした。すると、招待された全ての貴族たちの前に、重厚な木箱が次々と運び込まれた。


「公爵閣下、そして皆様。……本日の感謝の印として、その戦盤を皆様にお贈りいたします」


 会場に驚きの声が広がる。これほどの工芸品だ、王都で買い求めればどれほどの値がつくか知れない。それを、この場にいる全員に配るというフェルゼンの財力。貴族たちは恐る恐る、だが好奇心に抗えず木箱を開き、中にある黒檀と白磁の駒を愛おしむように撫でた。


「領主室に飾り、その造形を眺めるだけでも十分価値はあるかもしれません。……ですが」


 グスタフは一度言葉を切り、挑戦的な光を宿した瞳で貴族たちを見渡した。


「私は、皆様と再びこの盤上で戦いたいと願っております。……もし次回の晩餐会までに、私の『定跡』を打ち破る方が現れるなら、これ以上の喜びはありません」


(……次こそは。次こそは、この若造の鼻を明かしてやる!)


 ダリル公爵をはじめ、多くの貴族たちの脳裏に同じ思いがよぎった。敗北を与えられたままではいられない。彼らは今、グスタフに手渡された「定跡」という名の迷宮に、自ら足を踏み入れようとしていた。


 だが、グスタフの「贈り物」はそれだけでは終わらなかった。


「ああ、それともう一点。皆様の領地で、このチェスという遊戯は、自由に広めていただいて構いません。この盤と駒を模し、皆様の領内で自由に製造し、販売していただいて結構です」


 広間が、先ほど以上の静寂に包まれた。


「……正気か、グスタフ殿」


 一人の貴族が、信じられないといった様子で声を上げた。


「これほどまでに素晴らしい遊戯、そして利権を、無償で開放すると仰るのか?フェルゼンで独占すれば、富を独り占めできるというのに!」


「富など、他にいくらでも稼ぎようがあります。……それよりも私は、この『チェス』という共通の言語が、我々の領地を繋ぐ架け橋になることを望んでいるのです」


 グスタフの言葉は、一見すれば平和を愛する若き領主の理想論に聞こえた。だが、その裏側にあるゼクトの冷徹な計算に、気づく者はまだいない。


「……太っ腹なことだ。ならば遠慮なく、我が領でも流行らせるとしよう」


「ええ、是非。……楽しみにしておりますよ、公爵閣下」


 グスタフは優雅に一礼し、踵を返した。


 物理的な暴力(騎士団)で恐怖を植え付け、文化的な衝撃チーズで依存を促し、そして知的なチェスでシステムそのものを上書きする。


 フェルゼンという怪物が放った「体験版」は、周辺領地の統治者である貴族たちを、一晩にしてその支配下に置いてしまったのだ。


 宴が終わり、貴族たちが「宝物」を抱えて馬車へと乗り込んでいく様子を、グスタフは高台から静かに見つめていた。彼の隣には、いつの間にか現れたアルゴが立っている。


「……アルゴ。これで、種を蒔く作業は終わった」


「はい。あとは、彼らがその実を育て上げ、私たちのもとへ運んでくるのを待つだけですね。……ゼクト様の仰った通り、欲と誇りは、どんな魔法よりも強力です」


 月光に照らされたフェルゼンの街並みは、今夜も整然と、そして不気味なほど完璧に輝き続けていた。

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