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黒猫勇者と怠惰の宰相 〜引きこもりの俺、安眠のためにリモートワークで異世界を改革する〜 膝の上の愛猫が最強勇者であることを俺は知らない  作者: 香箱
第四章:怠惰の共生

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第96話:黄金の泉

 中庭で戦慄を刻み込まれた貴族たちは、案内されるがままに邸内へと足を進めた。

 大広間に一歩踏み入れた瞬間、彼らは足を止め、戸惑うように周囲を見渡した。外の夜気を一瞬で忘れさせるような、適度な涼しさ。そして何より、邸内が驚くほど「清潔」なのだ。かつてのフェルゼン邸に漂っていたカビ臭さや埃っぽさは微塵もなく、磨き上げられた床は魔石灯の光を鏡のように反射していた。


「……な、なんだ、この香りは」


 一人の貴族が鼻をひくつかせ、困惑と期待の混じった声を上げた。

 広間の空気を支配していたのは、食欲を直接揺さぶるような、芳醇で濃厚な「未知の香り」だった。香草と仄かな大蒜、そしてそれらを包み込むような、熱を帯びたミルクの柔らかな芳香。


 招待客たちの視線は、広間の中央に鎮座する「それ」へと吸い寄せられた。


「……噴水、か? いや、しかし……」


 そこにそびえ立っていたのは、巨大な黄金の多段装置だった。

 最上部には、優雅な仕草で壺を傾ける乙女の像が据えられている。驚くべきは、その壺から溢れ出している液体だった。それは水でもなければ、酒でもない。とろとろとした粘り気を持つ、艶やかな黄金の液体が、絶え間なく、滑らかに段を伝って流れ落ちていた。


 流れ落ちる液体は、魔石灯の光を受けて真珠のような光沢を放ち、幾重にも連なる滝となって下の受け皿へと循環していく。その視覚的なインパクトと、立ち昇る暴力的なまでの香りに、貴族たちは言葉を失って立ち尽くした。


「皆様、驚かれたでしょうか」


 人だかりの向こうから、グスタフが悠然と現れた。彼は自ら銀のフォークを手に取り、そこに刺した焼きたてのパンを黄金の滝へと潜らせた。


「これは、我が領で新たに生み出した『チーズファウンテン』という名の祝福です」


「……ちーず?」


 ダリルが、不審げにその言葉を繰り返した。この世界において、これほどまでに美しく、液体のように流れるものが食べ物であるなど、誰一人として想像すらしていなかった。


「領内の牧場を徹底的に整備し、鮮度と温度を極限まで追求することで、この『流動する美味』は完成いたします。……ダリル公爵、まずは貴方からいかがかな?」

 グスタフが、祝福を通り抜けたパンを差し出す。


 公爵は躊躇した。先ほどの騎士団による威圧が脳裏をよぎる。これは毒ではないか。あるいは、自分を屈服させるための呪いか。

 だが、鼻先をかすめた香りが、彼の理性を容赦なく削り取った。


 公爵は意を決し、それを口に運んだ。


「……っ!?」

 公爵の瞳が、これ以上ないほどに見開かれた。


 咀嚼した瞬間、口の中でミルクの鮮烈な甘みと、濃厚なコクが爆発した。

 とろとろの液体は、絹のような滑らかさで舌を包み込み、鼻から抜ける香草の香りが脳を心地よく麻痺させる。これまで食べてきたどんな贅沢な料理とも違う、全く新しい次元の快楽。


「な、なんだこれは……!とろける……味が、脳を直接摑んでいるのではないのか!?」


 公爵の叫びを合図に、我慢の限界に達していた貴族たちが一斉に装置へと群がった。パンを、温野菜を、そして瑞々しい果物を。

 黄金の滝に潜らせ、口に運ぶたびに、会場のあちこちで悲鳴に近い歓声が上がる。

 彼らは貴族だ。王都で最高級の晩餐を何度も経験してきたという自負がある。だが、今、目の前にあるのは、既存の美食の延長線上にはない「概念そのものの書き換え」だった。


 グスタフは、貪るように食べ続ける貴族たちの間を、静かな笑みを浮かべて歩く。

 圧倒的な武力(規律)で恐怖を植え付け、見たこともない美食(文化)で胃袋を支配する。その緩急自在な揺さぶりに、周辺領主たちのプライドは、もはや見る影もなく崩れ去ろうとしていた。


「フェルゼンには、まだまだ皆様の知らない『理』が眠っておりますよ」


 グスタフの言葉に、ダリルは戦慄した。

 この豊かさは、偶然手に入れたものではない。騎士団の規律、この邸宅の清潔さ、そしてこの未知の美味。全てが、緻密に計算された「強固な意志」によって構築されている。


 ふと、ダリルは広間の隅に目を向けた。そこには、まだ誰にも触れられていない、白と黒の駒が並ぶ『チェス盤』が、不気味なほどの静寂を湛えて置かれていた。


 物理的な恐怖。文化的な衝撃。そして、次に来るのは――底知れぬ「知性」への挑戦。


 フェルゼンという怪物が仕掛けた晩餐は、まだ始まったばかりだった。

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