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黒猫勇者と怠惰の宰相 〜引きこもりの俺、安眠のためにリモートワークで異世界を改革する〜 膝の上の愛猫が最強勇者であることを俺は知らない  作者: 香箱
第四章:怠惰の共生

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第94話:定跡と演算の乖離

 フェルゼン領主邸、執務室。

 深夜、デスクに置かれた魔石灯の淡い光が、グスタフの端正な横顔を照らしていた。


「……よし。これで全てだな」


 グスタフは、特製の羊皮紙に記された招待状の最後の一枚に、領主の印章を重々しく捺した。

 宛先はダリル公爵やバラン伯爵などの有力領主を中心に、思いつく限りの周辺貴族たち。


 ゼクトの助言に従い、回りくどい挨拶や先祖の武勇伝を語る冗長な前口上は一切省いた。代わりに記したのは、新都市の『体験版』としての招待状。カジノの特別優待、見たこともない料理、そして領主自らが主催する「知の遊戯」への誘い。

 これを受け取った彼らが、困惑し、そして抗いがたい好奇心を持ってフェルゼンの門を叩く姿が、グスタフには容易に想像できた。


「これを読めば、彼らは来ざるを得ない。……不気味なほどの合理性だが、確かに効果的だ」


 控えていた伝令に招待状を預けると、グスタフは深く椅子に背を預けた。

 外交という名の戦いの幕は、ついに上がったのだ。


 だが、彼にはまだ、もう一つの重要な『任務』が残っていた。

 彼はデスクの引き出しから、一冊の冊子を取り出した。ゼクトが「戦術書」だと言って渡してくれた、見たこともないほど白く滑らかな紙に印字された書物。そこには『チェス定跡全集:序盤の優位を確立するために』という、この世界には存在しない概念が記されている。


(……凄まじい。一手一手に意味があり、数手先、数十手先の盤面を逆算して組まれた論理の結晶だ。ゼクトさんの中では、遊びですらこれほどまでに徹底して最適化されているのか)


 グスタフは数日間、睡眠時間を削ってその書物を読み耽った。

 領主である彼にとって、チェスの定跡は驚くほど腑に落ち、同時に戦慄を覚えるものだった。これさえあれば、自分は無敵になれる……そう確信した彼は、ある日の夜、アルゴを呼び出した。


「アルゴ。夜分に済まないが、手合わせを願いたい」


「ええ、喜んで。グスタフ様」


 アルゴはいつものように丁寧な仕草で、黒檀の盤の前に座った。

 対局が始まると、グスタフは戦術書で学んだ最も鋭い攻めの定跡を繰り出した。ポーンを展開し、中央を支配し、ナイトとビショップの連携でアルゴのキングを射程に捉える。


(よし、ここまでは完璧に定跡通りだ。……アルゴ、君ならどう受ける?)


 しかし、アルゴは数秒も考え込むことなく、静かに駒を動かした。

 その一手は、戦術書には載っていない「野生的」でありながら、グスタフの構築した論理を根底から瓦解させる、凄まじい最適解だった。


「……チェックメイト、ですね。グスタフ様」


 気づけば、アルゴのナイトがグスタフの喉元に刃を突き立てるように、キングの逃げ道を塞いでいた。

 グスタフは呆然と盤面を見つめる。戦術書にある「回避不能な勝ち筋」を辿っていたはずの自分が、気づけば完敗していた。


「……アルゴ。失礼だが、君もあの戦術書を読んだのか?」


「いえ? 私は領内の『流通と物価推移の予測』をしておりましたので、まだ拝見していませんが。……何か、問題がありましたでしょうか?」


 眼鏡を直し、申し訳なさそうに首を傾げるアルゴ。彼はただ、その場で最善の「演算」を行い、最適解を選び続けていただけだった。


(……勝てない。どれだけ優れた『定跡』を読み込んでも、『処理能力』そのものが違いすぎる……!)


 戦慄に近い確信がグスタフの脳を走る。アルゴは、間違いなく絶対王者として君臨する。この男が盤面の前に座っているだけで、他領の貴族たちは、自分たちがこれまで培ってきた知性そのものを否定されるような、圧倒的な敗北感を味わうことになるだろう。


 だが、同時にグスタフは気を引き締め直した。


(しかし、最初の晩餐会ではアルゴは出せない。まずは領主である私自身が、彼らを圧倒しなければならないのだ)


 周辺領主の中には、戦場を生き抜いてきた歴戦の将や、老獪な智将も多い。彼ら相手に油断をするわけにはいかない。この外交戦略を一分の隙もない成功に導くためには、万に一つの負けも許されない。


(フェルゼンの領主は、武力だけでなく知性においても、他領を遥か高みから見下ろす存在である……。その『フェルゼン・ブランド』の第一印象を決定づけるのが、自分の役割だ。)


「アルゴ、もう一局。……次はもっと粘ってみせる」


「ええ、喜んで。……グスタフ様、今の一手ですが、もう少し右翼の連携を意識されると、より盤石になりますよ」


 師範のように静かに微笑むアルゴ。その指導を受けながら、グスタフは自身の「戦術眼」を、異世界の論理で研ぎ澄ませていく。


 ふと、彼は執務室の窓から、遠く離れた騎士団の練兵場やガラムの工房の方角を見やった。

 

「……ゼクトさん。貴方は私にチェスを授け、彼らには一体何を授けたのですか」


 主である自分でさえ全貌を把握しきれていない、完璧な「舞台」が整いつつある。恐怖にも似た高揚感が、グスタフの胸を叩いていた。


 フェルゼン新都市、初の公式外交。周辺領地の常識を根底から覆す日は、もう目前に迫っていた。

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