第93話:規律という名のファイアウォール
リビングの空気は、すっかり溶けたチーズと下味に使った大蒜の芳醇な香りに占拠されていた。
ガラム親方は「たまらねぇな、これ!」と次々にパンを放り込み、エリシュアも「わたくし、これなら一生食べ続けられますわ」と顔を上気させている。だが、その喧騒から一歩引いたところで、騎士団長のバルトスだけが、彫像のように直立不動のまま固まっていた。
(……なんだ。バグでも起きたのか、このおじさん。あんなに美味そうに食ってたのに、急に思考停止してるぞ)
俺が不思議に思って視線を投げると、バルトスは俺と目が合った瞬間に、何とも言えない複雑な表情で頭を下げた。
「……ゼクト様。恐縮ながら、一つお伺いしてもよろしいでしょうか」
「ん、何? そのチーズ、嫌いだった?」
「いえ、滅相もございません!これほど美味なものは、王都の晩餐会でも口にしたことがありません。……ただ、それを食するほどに、己の不甲斐なさが身に染みるのです」
バルトスは、力強く握りしめた拳を見つめ、声を落とした。
「ガラム殿は、周辺の貴族を黙らせるほどの至宝を打ち出し、エリシュア殿は、この素晴らしい『黄金の滝』を実現するための術式を刻む。……ですが、私はどうでしょう。私には、ガラム殿のように形あるものを作る才も、エリシュア殿のように繊細な術を操る技もありません。……今回の晩餐会において、騎士団はただ、門を警備するだけの壁でしかないのではないか。そう思うと、情けなくて……」
ガラム親方がチーズを頬張りながら「何言ってんだ、バルトス。あんたの剣は一級品だろ」と茶化したが、バルトスの表情は晴れない。
(なるほどな。クリエイターたちが活躍してる横で、自分だけ運用保守の警備員をやってる気分なわけか。……バルトスさん、それは大きな認識違いだよ)
俺は「怠惰の玉座」のリクライニングを少し起こし、わざとらしく大きくため息をついた。
「バルトスさん。何を言ってるんだい。今回の晩餐会において、フェルゼンの『格』を示すために最も重要なのは、間違いなくあんたたち騎士団だよ」
バルトスが、弾かれたように顔を上げた。
「……騎士団が、最も重要、ですか?」
「当たり前だろ。チェスは知性の証明、チーズは文化の象徴。だが、それらを支える土台は何か?……暴力という名の『ハードウェア』だよ。どんなに優れたソフトウェアが走っていても、基盤となるハードが貧弱なら、外部からの物理攻撃一発で全システムがシャットダウンする。あんたたちは、フェルゼンというシステムの生存保証そのものなんだよ」
俺はテーブルの上のチーズタワーの設計図を指差した。
「ガラムさんの技術も、エリシュアさんの魔法も、周辺領主たちは『金と時間さえあれば真似できる』と『錯覚』するかもしれない。……だが、バルトスさん。あんたにやってもらいたいのは、彼らが『錯覚』することすら出来ない、圧倒的な『力の質』を見せつけることだ」
「……『力の質』、ですか」
「そう。一人の英雄が千人をなぎ倒すのは、ただの例外処理……いわばバグに過ぎない。だが、百人、千人の人間が、呼吸一つ、歩幅一センチの狂いもなく同時に動く。これは、個人の武勇を超えた『完璧なシステム』だ」
俺はスマホを操作し、「セレモニアル・ドリル」――一糸乱れぬ儀仗兵の行進と動作の映像を呼び出し、彼らに見せた。
「バルトスさんたちはこれをやるんだよ。晩餐会の冒頭、整列した騎士たちが一斉に行進し、同時に止まる。その靴音一つで、地響きを立てる。そして静寂の中、全員同時に剣を抜き放ち、『剣の礼』を捧げるんだ。鍔を鼻の高さまで上げ、垂直に立てる。刃を自分に向け、柄を相手に差し出す。……『私の命は、貴方の手の中にあります』。その盲目的なまでの忠誠と規律を、一糸乱れぬ動きで突きつけるのさ」
映像を見つめるバルトスの目が、次第に驚愕から、鋭い武人の光へと変わっていく。
「……全員が、完全に同期する。個の意志を殺し、一つの巨大な意志として動く……。これは、魔法や剣技以上に、兵の練度と統率を突きつけることになりますな」
「その通り。それを見た隣領の領主たちはこう思うはずだよ。『こいつらは一人の命令で、正確に死地へ飛び込む』とね。……それは、どんな城壁よりも強固な心理的ファイアウォールになる。バルトスさん。あんたの役割は、フェルゼンを攻めるという選択肢そのものを、彼らの脳内からデリートすることだ」
バルトスからは、先ほどまでの迷いが完全に消え失せ、代わりに鋼のような覇気が立ち昇っている。
「……承知いたしました。このバルトス、命に代えてもフェルゼン騎士団を最強の『壁』へと鍛え上げてみせましょう。一糸乱れぬ規律の美、目に焼き付けてやります!」
「ああ、期待してるよ。……さて、方針は決まったね」
ーーーー
三人が嵐のように去っていった後のリビングには、心地好い静寂と、冷めかけたチーズの香りだけが残されていた。
(よし。これで全員にやるべきことをアサインした。あとは本番まで、俺はログを眺めるだけの静かな生活に戻れる……)
「ナォン(……あんた、またそうやって人をその気にさせて。結局、全員の作業を増やしたわね。……でも、あの生真面目おじさん、嬉しそうだったわ)」
俺は満足げに目を閉じた。最高のソフト、最高の演出、そして最強のハードウェア。あとはこれらを組み合わせて、周辺領地という名の旧式システムを、一気に最新版へと強制アップデートしてやるだけだ。
……と、格好良く思考を締めようとした、その時だった。
「シャァァァーッ!(な、何これ!?臭い、臭すぎるわよ!あんた、こんな腐敗物の塊を人様に食べさせる気!?)」
たまが全身の毛を逆立て、見たこともない速度で部屋の隅へと退避した。窓際の棚の上から、親の仇でも見るような目で俺を睨みつけている。
「お、おい、たま? そんなに嫌か? これは発酵っていう、高度な化学的プロセスを経てだな……」
「ミャウッ!(近寄らないで!その指で私を触るのも禁止よ!今すぐその毒物を消去しなさい!)」
どうやら、うちの相棒には、最高級チーズの芳醇な香りは「致命的な異臭」として検知されたらしい。俺は、クッションの裏に隠れたたまを眺めながら、深いため息をついた。
(……外交戦略を立てるより、たまの機嫌をリストアする方が、遥かに難易度が高そうだ)




