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すっかり夕焼け色に染まった校舎に人気はない。私は嫌な予感が脳に走るのを感じながら、廊下を小走りで駆けて行く。
「……ぁっ、はぁっ、はぁっ」
四階までの教室は遠い。階段を全て上り切った時には息切れが激しくて、ダンス練習のために走り込みを始めたとは言えまだまだ体力不足なんだと痛感する。やっとの思いで一年五組の戸を開けた時には、肩で息をするのに一生懸命でまともに声が出なかった。
「はぁ、はぁ……お、遅れて、申し訳ございま……」
言いながら、顔を上げる。私、顔赤くなってないかな。なってるだろうな、恥ずかしい。赤い顔の私ってあんまり可愛くないから、見られたくないんだけど……なんてことを考えていた頭の中が、目の前の光景を認識すると同時に空洞になった。
「……せん」
呟いた言葉が、誰もいない教室内に寂しく残る。少しだけ埃っぽい、誰かがいた形跡のある香りのするガランとした教室は、夕陽の移動に相まって半分が黒い。
ただ茫然としていると、私の背後で声がした。
「あ、瑠琉。来たんだ」
私の、高校生になって初めてできた友達、十架さんと春さん。二人とも顔を見合わせると、眉を下げて笑った。
「来てるなら言ってくれれば良かったのに。一緒にステージ見たかったなぁ。それとも、李珠ちゃん達と観てたの?」
春さんの問いに、私は首を小さく横に振る。
「え、いえ……今来たばかりで……。あの、前夜祭は?」
「あ、そうなんだ。前夜祭ならもう終わったよ。でも、瑠琉のために私と春で協力して、ステージの映像はちゃーんと収めてあるんだ。後で送るね」
十架さんが早速スマホを触り始める。動画を送ってくれようとしているのだろうが、それよりもまず先に、訊きたいことがあった。
「それはありがとうざいます……ですけど、そっちじゃなくて。その、放課後に準備とか諸々あるんですよね? 明日のために、お店の準備を──」
今日は十月十日。文化祭の前夜祭だ。前夜祭は部活や任意の参加者によるフリーステージが体育館で行われ、その後に明日のため最後の文化祭準備が行われる。模擬店を行う私のクラスは、本格的な店構えをするため人手が必要なはずだったけど。
「ああ、それももう終わったから、今日はもう皆帰ったよ」
「え……」
十架さんからの通告に、私は心臓がキュッと小さくなるのを感じた。前夜祭の今日、私は高校生限定アカペラ歌唱大会に向けての最後の打ち合わせに行っていた。歌う順番や立ち位置などを確認する簡単なリハーサルだったとはいえ、普通に学校を休む長時間の打ち合わせとなってしまった。
──え、今から文化祭の準備向かうの? まぁ手伝いは必要だろうけどさぁ……あんま良い顔はされないと思うよ? どうせ明日来ないんでしょって、高橋葵なら絶対言うし。
打ち合わせからの帰り道、李珠さんといつもの道で別れる手前で、言われた言葉。勿論、Sky′sの皆を準備に誘うつもりはなかった。皆打ち合わせで疲れているだろうから、私一人だけでも準備に参加できれば、クラスの皆の負担も減るだろうと考えた故の結論だ。
が、李珠さんには苦い顔をされてしまった。瑠琉ならまぁ、面と向かって悪態は吐かれないかもしれないけど、と最後に付け足していたが。
それでも、李珠さんの言う通りだったのかもしれない。もう準備が終わってしまっているのなら、私が来たって意味がない。十架さんと春さんも、今更? って、心の中で思ってるかも。
「お疲れー……っと、あれ、瑠琉ちゃん? どうしたの、こんな時間に。てか今日休みじゃなかったっけ?」
教室の前戸が開かれ、中に入って来たのは風浦羅菜さんだった。いつも高橋さんと間宮さんの三人で行動しているけど、今は羅菜さん一人らしい。
「羅菜さん……。えっと、明日のための準備をしようかと、思ったんですが」
「準備? なんで瑠琉ちゃんが?」
「え? だって──」
「だって瑠琉ちゃん、明日来ないんでしょ?」
「……っ。それは……」
羅菜さんとは、偶然グループワークで同じ班になったり、掃除場所なんかが被ったりした時に話す程度で、休み時間や放課後に積極的に関わり合う間柄ではない。それでも、高橋さんと間宮さんに比べれば物腰柔らかな方で話しやすい人なんだけど。
今の羅菜さんは、なんだか、怖い。
「わざわざお手伝いなんて、良かったのに」
羅菜さんは「真面目だねー」と言いながら、細切れの段ボールをゴミ箱に捨てる。手をパンパンと叩いて埃やゴミを払うと、羅菜さんは自分の席に向かって鞄を取った。
「じゃあ準備も終わったし、私はもう帰るから。最後の人、教室の鍵よろしく」
「あーい」
「バイバイ、羅菜ちゃん」
十架さんと春さんが羅菜さんに手を振る。羅菜さんも、にこやかに振り返した。
「うん、バイバーイ! 瑠琉ちゃんも、じゃね」
「あ、はい。お、お疲れ様です……」
「ん。明日、頑張ってね」
軽い調子でそう言って、教室を出て行く羅菜さん。私は、足音が完全に聞こえなくなるのを待ってから、小さな声で呟いた。
「……羅菜さん、怒ってましたよね?」
「え、なんで?」
即答。十架さんが首を傾げ、頭には疑問符を浮かべている。
「えっ?」
私は目を瞬く。どうしてだろう。十架さんなら、私が感じている不安と同じものを感じ取ってくれているはずだと、そう思っていたのに。
だけど疑問に思っているのは春さんも同じようで、キョトンとした顔をしていた。
心に、魚の小骨のようなものが引っかかった感じがする。
もしかして、羅菜さんが怖いと感じたのは私だけ? 羅菜さんも、私に皮肉を言ったわけではなく、本当に、ただ、いつもの調子で言葉を返しただけ?
私が悲観的になりすぎているのだろうか。だとしたら相当失礼だ。
「もー、瑠琉ってば不安になりすぎー。大丈夫大丈夫、文化祭もアカペラ大会も、絶対どっちも上手くいくって。私も応援してるから」
十架さんが私の背を押して、そう言ってくる。すると春さんも私の手を取って、笑顔でこう言った。
「私も、見に行けないのは残念だけど、応援してる。頑張ってって、Sky′sの皆にも伝えておいて」
「……はい」
頷きながらも、胸がざわざわする。アカペラ歌唱大会は勿論頑張るけど、文化祭は本当にこのままで良いのだろうか。準備が終わってしまったとは言え、もっと何か、できることがあるんじゃないか。何かやらないと、やっておかないと、何故か、良くない方向に進んでしまいそうな気がする。その良くない方向が具体的に何処を指すのかは解らないけど、きっとたぶん、人間関係的な何かで。
その一方で、李珠さんの言う通りにしておけば良かったかもと思う自分もいて。
今更手伝いに行こうとせず、アカペラ歌唱大会のことだけに集中していれば良いのだと、そう思う気持ちも、間違ってはいないから。
落ち着かない気持ちを抱えたまま、私は十架さんと春さんと家路を辿る。
その間、十架さんの口からも春さんの口からも、アカペラ歌唱大会の話題は一切出てこなかった。




