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傘を持ってくれば良かった。30分前までは普通に晴れていたくせに、今は太陽を白い雲が隠し、細い雨が降っている。土砂降りとは程遠いが、濡れてしまうことに変わりはない。苛立ちながら、それでも家に戻るのは癪だったのでコンビニへ向かう。ご飯を買って帰るだけだ。傘のためにいちいち戻るなんて馬鹿らしい。
「あの、穂條李珠さん、ですよね?」
後ろから細い声がして、振り返る。驚きはなかった。だって、私の名前を知っている初対面の人なんて、私のファンを続けている人か、
「やっぱり、穂條李珠さん、ですよね……。あの、ちゃんと謝ったんですか?」
私のアンチか、どちらかなのだから。
男は20代後半くらいだった。声に相応しく体型もガリガリで、前髪が長く、髭が濃い。
こういうのは相手にしてはいけない。突っかかりに突っかかりで返したら、逆切れされるかもしれない。
私は男に背を向けて、歩き出す。
「あっ、待て!」
「来んな馬鹿っ!」
肩に触れた指先を全力で払いのけるように、腹の底から大声を出す。男の手が私の肩を掴むギリギリで止まり、その隙に私は全力で走った。
「あ、謝れ! 謝れよぉっ!」
追いかけては来なかったが、そんな台詞が届く。耳を塞いで、私は逃げる。雨が強くなる。
──才能ないよ。
誰から言われた言葉だったか。カラスタの審査員か。別のオーディションの審査員か。ネットの書き込みか。養成所の先生か。友達だと思っていた人か。友達ですらなかった中学のクラスメイトか。
──個性がないんだよね。魅力がない。
──歌もダンスも上手いけど、上手いだけだよね。
──無理無理。君はあの子みたいにはなれない。そもそも、僕らはそういうの求めてない。
──誰かの真似をしてるみたい。そうじゃなくて、君を見たいんだよ。
──君にしかない武器は? 特技は?
──君じゃなくても良いんだよ。代わりはいくらでもいるんだから。
──オリジナリティに欠けるよねぇ。
解らなくなった。誰かの真似から始めた歌とダンスに自分の色が求められて、でもありのままの自分でいけば、目新しさがないとかつまらないとか言われて受け入れられない。個性って何? あなた達が求めているのは‟らしさ”じゃない。人の目を惹く奇抜な、作為的な個性でしょう? 歌とダンスが上手いだけじゃ駄目なの? 好きだけじゃ、業界で生き残ることは愚か、生まれることも許されないの?
最終選考まで残って、やっと私も、と思ったのに。
脱落するの、絶対りずだろ。周りのレベルが高すぎる。穂條李珠は顔で上がってきたようなもの。あの顔じゃなかったら1回目で落ちてた。夢ちゃんと仲良かったから、次回りずちゃんだけ落ちて盛り上がる展開期待してる。てか運営もそういうお涙展開を計画してりずちゃん残してただろ。バランス的に落ちるのは李珠。賭けても良い。なんて、Twitterの書き込みを見てしまったから、その影響もあったのだろう。
『……才能って、何なんでしょうね』
全てが敵に思えた。真相は解らない。もしかしたら本当に惜しかっただけで、後もう少し努力を続けていれば私はアイドルになれたのかもしれない。でも、もしこれが仕組まれたものだったとしたら?
カラスタのオーディションは合宿という名の舞台で、2ヶ月かけて同期と絆を育みながらデビューの座を賭けて戦う様子が全国に配信されている。もし盛り上がる展開のためにその絆を利用したことが理由で、私が最終選考まで残っていたのだとしたら? 同期も審査員も皆、誰もが私に期待していなかったんだとしたら?
皆に応援されて、支えてもらうのがアイドルなのに。
そんなのって、ない。
『すみません、私……』
崖っぷちに立たされて、全てがどうでも良くなっていた。落ちるなら自分から落ちてしまおうと、自暴自棄になっていた。
『……私、おめでとうって、言えません』
脱落してきたのは私だけじゃない。私以外の人は皆、苦虫をかみつぶしたような心情で、それでも、残った人に「頑張ってください」、「応援しています」と綺麗な弁を述べていた。でも、私にはどうしてもできなかった。だってこれは最終選考で、今までの選考とは状況も、盛り上がりも違うのだから。
やっとここまできた、そのここまでが、一気に崩壊する。その重みは、私にしか解らない。
『祝福なんか、できないです。応援するって、言えません。ごめんなさい。努力が、応援してくれたファンの思いが、積み上げてきたものが、全部、報われなかったことが、本当に悔しいです。だから今は、自分以外のことを考えている余裕なんか、ありません』
静まり返った一室に、嗚咽混じりの震えた声が響いていた。
そして勿論、私の発言は炎上した。最終選考で落とされて悔しいのは当たり前だ、ここで応援してますとか綺麗ごと言われるよりこういう人間っぽいこと言ってくれた方が安心する。といった私に寄り添ってくれる意見と、例え本音だったとしても世界中が見てる配信で言うべきじゃなかった。オーディションを綺麗に終わるためにも、新しいアイドルが気持ちよくデビューするためにも、表面上は綺麗ごとを言うべきだったんじゃないのか。といった意見が衝突し、中には、応援できないとか最低。アイドルとして失格だろ。仲良かった同期にそれとか性格終わってる。といった、辛辣な意見も寄せられた。そして、取り敢えずデビューするアイドルに謝れ。といった意見が多くの賛同を得ていた。
養成所の先生からは「せめてこれからも頑張るとか、前向きなことを付け加えるべきだった」と叱責され、周囲は扱いずらくなったのか、ざまぁみろとでも思ったのか、私から距離を置いた。中には心配して連絡をくれる友達もいたが、私が積極的に話しかけなくなるといつの間にか離れていた。私は、1人になっていた。否、独りを選んだのかもしれない。
「……清瀬さんの言う通りだ」
川沿いの高架下、体育座りをして呟く。羨ましかった。楽しそうに部活をしている人、カラオケやゲームセンターに行って全力で遊んでいる人、志望校へ進学するため勉強に打ち込んでいる人、夢を持っている人。皆、私にはないもの、失ってしまったものを持って、輝いている。その輝きは本物で、私は本物に手を伸ばすけど、届かない。
憧れて、憧れになろうと努力したけど憧れにはなれなくて、自分にさえもなれなかった。
自分ってなんだよ、と問いかけてみるけれど答えはなくて。
──だって、誰もあなたに興味なんてないもの。
清瀬さんの言葉が、呪いのように頭を巡る。
──別にコピーでも良いじゃない。夢なんて、誰かの真似事から始まるものよ。
──あなた、頑張ってないじゃない。
成果を出していない人間を、失敗作だと決めつけた。誰かを見下すことで、自分の中の虚しさを紛い物の充実で埋めた。オーディションは50回受けて、50回全部落ちた。それを私は頑張った証のように思っていたが、途中から数字に拘っていなかったか。全てに本気で取り組んだかと問われれば、自信がない。そう、私は頑張っていなかったのだ。私は、自分の曲を歌って踊って、沢山の人に好かれる、そんな憧れのアイドルに近づきたくて、真似をして、アイドルごっこをしていただけ。
今も、私を置いて先を進んで行ったアイドルの子達を、羨ましく思う。でも、誰かになりたいと願っても、誰にもなれないことはもう解っている。憧れの人達は、私とは全然違う人ばかりで、まだまだ遠い場所にいる。
完璧にコピーしようとしても、そこには必ず不和が生じる。その不和をかき集めたものが、自分らしさだと言うのなら。
誰にも必要とされなかった、誰にも認めてもらえなかった、誰にも好いてもらえなかった、こんな私でも、何かになれるのかもしれない。
才能がなくても、泥臭くても、足掻いて、藻掻いて、立ち上がって歩き続ければ、私の、私だけの輝きを、見つけられるのかもしれない。
今はまだ、曇り空だけど。
立ち上がって、湿った空気を吸い込んだ。
MK726‐マジックアワー feat.初音メグ
0を生みましょう 1を踏みましょう 増えるの美しい数字 輝きに触れるの 夢の欠片に
いっせーのせで描く 色づく 僕らの空
荷物は自分だけ 眩しさを纏って 相応しい世界へ
ほら立って 現状維持の物語なんかつまらないでしょう?
信じないと始まらない 僕は素晴らしい人間だ!
僕だけが特別な人間なんだ
Ah 僕をどうか置いていかないで
晴れは眩しすぎる 雨は歩けない言い訳に変わる
いつしか足は折れて 翼を求めるただの煩悩
平和を望む僕は 汚れて 腐って あぁ紛い物の笑顔を貼り付けて
欲しい 努力 仲間 理想 賞賛 自分 もっと もっと 自分でいられる居場所が欲しい
薄れゆく憧憬 届かないと知ってしまった
翼なんか生えないし 移動手段は足しかないし
どんな景色が見える?
目を開けて
マジックアワー さぁ、出発だ
雲の隙間から陽が差し込み、虹色の雫がパラパラと落ちる。
歌声が飽和した世界は輝きを帯び、私の空白だった心に、透明な欠片が深く沈む。
同じだ。アイドルになりたいと初めて夢を持った、あの時と同じ欠片だった。私の想いは、歌は、間違いなく輝いていた。才能があるかは解らない、誰の心にも響かない歌声かもしれないけど、私の歌は私にしか歌えない、特別で、大好きな歌だったはずなのだ。
「……なんで、忘れてたんだろう」
「凄いね」
私の声と重なったもう1つの声には、聞き覚えがあった。
「歌、上手いんだ」
振り返ると、ビニールの傘が視界に映る。雨はいつの間にか止んでいたが、太陽の光を遮るように閉じようとはしない。
ガーリーな印象を与えがちな耳より高い位置で結んだツインテールは透明感のある声質と嫋やかな雰囲気を纏っているからか、大人びた印象の方が強く感じる。
そして彼女は、よく知っている制服を着ていた。水色のワイシャツに青のチェックスカート。それと、1年生であることを示す胸元の青いリボン。
「……来栖さん?」
私と同じ学校、同じクラスの来栖玲奈は薄く微笑むと、近づいて来て言った。
「サボり?」
「ぐっ⁉」
「お、図星か」
何故解ったのだろう。いや、解って当然だった。平日の昼間に私服でうろうろしている同級生を見かければ、誰だってサボりを疑う。
私と違って制服を着ている来栖さんは、これから学校なのだろう。どんな事情があったのかは知らないが、遅刻してでも行くなんて偉い。
「来栖さんは、これから学校?」
「ううん、その逆」
「逆?」
「遅刻じゃなくて、早退」
顔色は別に悪くないし、体調が悪ければこんなところで油を売らずさっさと帰っているだろう。何か、訊いてはいけない理由がある気がして、口を閉じた。
「聴いたことない曲だったけど、何ていう曲?」
来栖さんに訊かれ、そういえば歌声を聴かれていたらしいと改めて気づき、私は気まずさを覚えながら停止した動画のサムネイルを見せた。
「マジックアワーっていう曲。初音メグの……」
「へぇー、私けっこうボカロPは詳しいんだけど知らないなぁ。誰の曲?」
「MK726……っていう、人」
「あぁ、清瀬さんの曲か」
「あ、やっぱり知ってるんだね」
「勿論。噂になってるし。私も結構いろんな曲聴いてみたんだけど、その曲はまだ聴いてなかったなぁ。ねぇ、なんでマジックアワーなの?」
深い理由はない。オレンジと青と白のグラデーションが綺麗なサムネイルに惹かれただけだ。そう言うと来栖さんは、「確かに、綺麗だよね」と頷いた。風が吹き、雨に濡れた草木の香りが鼻を衝く。
「私は初音メグの歌も好きだけど、穂條さんの歌声も凄く好きだなって思ったよ」
「……え、あぁ、ありがとう」
「こんなに上手いのに、やめちゃうなんて勿体ない」
来栖さんは高架下まで来ると傘を閉じ、寂しそうに笑った。やめちゃう、とはアイドルのことで、来栖さんはきっとカラスタのことも知っているのだろう。上手いと言ってくれるのは素直に嬉しいが、この歌声は残念ながら、誰の心にも届かなかった色のない声だ。
「私も、歌が好きだから続けたいんだけどね」
アイドルになりたい。けどそれ以上に私は、私になりたいのかもしれない。私の歌を、ダンスを、アイドルになった私を誰かに見てもらって、応援してもらって、誰かにとって私という存在が、輝いてほしい。そのためにはもう一度オーディションに再挑戦する必要があるけど、正直合格まで待っていられない。デビューを待つのではなく、こちらから迎えに行くことができれば良いのに。
「YouTubeは?」
来栖さんは、本当に何でもない、軽い調子でそう言った。
「好きなら続ければ良いじゃん。YouTubeなら、好きに歌えるし」
突風が吹いて、川の水面が大きく揺れる。
「……YouTube?」
唇から息が漏れた。来栖さんの言葉が、マジックアワーの旋律が、歌詞が、私自身の歌声が、光を帯びて私を突き動かす。スマホを握る手に、ギュッと力が籠る。
足元に光が差し込む。黄金の空に、眩い風が流れていった。




