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思えば、朝から気分が悪かった。起きたときから頭痛が酷く、朝御飯もあまり喉を通らなかったため、今日はバナナと牛乳しか胃に入れていない。身体には良さそうだから問題ないだろうし、一応熱を測ってみたけど三六・五度、平熱だった。
今日の予定は一つだけ。大切な予定だけど、それさえ終われば午後は家でのんびりしよう。向こうで着替えるのは面倒だったので、いつもの練習着に袖を通す。運動靴を履いて、熱中症にならないようキャップを被り、スポーツドリンクを持って行った。
電車で四十分。玲奈はもう着いているとのことだったので、一人で向かう。誰かと喋っていれば気が紛れただろうに、電車が揺れると心臓も一緒に揺れているようで気持ちが悪い。
彩ヶ谷市民会館は、高校とはまた違う場所にあった。地図アプリを見ながら歩き、額に浮かぶ変な汗を拭って、さも元気であるかのように取り繕った表情で会館内へ入る。
「ごめん、ちょっと遅れちゃった」
「大丈夫。私達は六番目だって。参加者、けっこう多いみたい」
李珠が整理券を見せてくれ、揃った五人で控室へ向かう。視聴覚室のような部屋に、参加者全員が集っている。ざっと十人以上はいそうだ。
三十分ほど窓から景色を眺めたり談笑したりしていると、すぐに私達の番になった。
「すかいずのみなさーん、多目的ホールにお願いしまーす」
はーいと返事をして、私達は多目的ホールへ移動する。私以外の皆も練習着のまま行うようで、特に準備もなく貴重品だけを持って行く。
「すかいずだって。私、ちゃんとグループ名にSky′sって書いたよね? しかもフリガナ付きで」
「しょうがないでしょ。市民会館の職員なんてそんなものよ」
「美波さん、言い方……」
皆の後ろをついていく。この時点で、正直吐きそうだった。やっぱり熱があるとか、風邪をひいたとかそんなんじゃない。けど、何故か体調が悪かった。貧血や生理痛に似た腹痛と頭痛に襲われ、一旦立ち止まる。
「沙希?」
玲奈に呼ばれ、私は「なんでもない」とすぐに笑って後を追いかける。なんでもないなんでもないなんでもないなんでもない。そう自分に、言い聞かせて。
多目的ホールに入ると、三人の大人が会議テーブルに並んでいた。一人は眼鏡を掛けたOLという感じの若い女性。一人はぽっちゃりした四十代くらいの男性。一人は所々の白髪が目立つ五、六十代の男性。
「それではえーと……すかいず、さん?」
ぽっちゃりが言うと、すかさず李珠が「Sky′sです。スカイ、sは発音しません」と訂正する。と、OLが眼鏡の縁を押し上げた。
「ごめんなさい。ちゃんとフリガナも付いているのに」
「いやいや僕もごめんねぇ。最近のアイドルとか、芸人とか、難しい名前が多いよねぇ。あれ、なんでなの? やっぱり他の人と差別化するため? 難しい方が覚えてもらいやすいのかな?」
「それもありますけど、お洒落じゃないですか。このSky′sも、短いけれどインパクトがあって、私はけっこう好きです」
ぽっちゃりは「そうなんだぁ」と頭を掻き、OLは「そうですよ」と淡々と返す。
「眼鏡の人、かっこいいし良い人ですね」
「だね。雰囲気も緩そうだし、なんか安心した」
瑠琉と玲奈が小声で呟きあうのが聞こえ、私も心臓を撫でるように落ち着こうとしてみる。ちら、と美波と李珠の表情を窺うと、二人とも涼しい顔をしていた。
「山内くん、美坂さん、お話はもう切り上げて。時間がないよ」
白髪の人が言うと、ぽっちゃりこと山内さん、OLこと美坂さんはハッとした顔をして、正面に立つ私達に再度顔を向ける。
「じゃあ、えっと……まずは軽く質問させてもらうんだけど。どうして、この花雫祭りに参加しようと思ってくれたのかな? ああ、これは面接ってわけじゃなくて、ただのアンケートというか。これからも参加者を募っていくために教えてほしいことというか……」
「山内くん、物を喋る時はハキハキしてください。曖昧でよく解りませんよ」
「おおっと、美坂さんは手厳しいなぁ。ははは、まぁ、緊張しないで、気軽に答えてよ、うん」
「そうですね。まず、私とる……神北さんが、彩ヶ谷の出身なんですけど」
質問に李珠が何か答えているが、私の耳には全く届いてこない。その後も、代表者として李珠がいくつかの質問に答えているようだったけど、私は質問と回答に相槌を打つことも、山内さんと美坂さん、そして江口と名乗ったもう一人の顔も、まともに見ることができなかった。
「あははは、大丈夫? 一条さん」
山内さんから急に声をかけられ、私は必要以上に驚いた顔をしてしまう。
「いや、そんなゾンビにあったみたいな顔しなくても。緊張しないで、リラックスリラックス」
「そんなふうに言ったら、余計に緊張しちゃいますよ。ごめんなさいね、一条さん」
「い、いえ……あはは」
適当に笑って、質問が終わる。そして、遂にパフォーマンスをする時間になった。
「沙希、大丈夫? 死人みたいな顔してるけど」
李珠が不穏な表情で私の顔を覗き込む。私は「大丈夫」と返すしかできず、ポジションにつく。
「沙希、もうちょっと左」
美波に言われ、私は「ごめん」と呟いて左による。そうか、このくらいの広さなら、もう少し距離をとっても良いのか。場所はここで良くて、目線は前に、向けないと。
「じゃあ、再生しますね」
美坂さんが事前に渡したCDをプレーヤーにセットすると、Bluetoothの質の良い音が流れ始める。一、二、三の掛け声も何もない。唐突に音楽が掛かったので、動きが一瞬遅れてしまう。が、すぐに持ち直した。思考がぐちゃぐちゃでも、身体はしっかりと音とタイミングを覚えていた。
よし、このままこのまま、慎重に、慎重に──。
「一条さーん、顔硬いよー。リラックスリラックスー」
山内さんが私の方を見てそう言った瞬間、私の中の何かが崩れた。注意されたわけでも、ましてや嫌味を言われたわけでもない。ただ、純粋なアドバイスだ。私もアドバイスを素直に受け止めて、すぐ笑顔になれば良かった。
なのに、崩れたダンスが戻ることはなかった。山内さんはすぐ美坂さんに「余計なこと言わないの」と止められていたけれど、私はそれを見ても、どうすれば良いのか解らなくなっていた。
動きが鈍る。足が縺れ、転びそうになった。笑顔どころの話ではない。今の私は、客観的にも、主観的に見てもおかしい。
山内さん、美坂さん、江口さんだけじゃない。李珠も何かがおかしいと気づいて私を見ている。美波も、瑠琉も、いつもの堂々とした歌声ではない、どこか迷いがあるような歌い方になっている。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
目線が下を向いてしまう。
歌が、音が、全てが遠くなったような気がした。タイミングもリズムもテンポも、何もかもが解らなくなっていく。
喉から絞り出した声は、とても歌と呼べたものじゃなかった。苦しそうで、痛そうな響きだった。
不意に、突然、背中に何かがぶつかった。衝撃に押され、私はピカピカの床に身体を強打する。
「沙希っ、大丈夫⁉」
ゆっくり起き上がると、目の前に玲奈の顔があった。
「ごめんなさい。一回、止めてもらって良いですか?」
李珠の呼びかけに美坂さんがすぐに曲を止める。山内さんが眉を下げて椅子から立ち上がり、江口さんはスマホで誰かに電話をかけている。音楽の止まった室内に、私を心配する皆の声が響く。
それが、痛くて、惨めで。
いけないと解っていた。それほどのことじゃないと解っていたのに。
気持ち悪くて、寒くて、痛くて。
「沙希、ちょっと出ようか。立てる?」
李珠に手首を触られ、私は腕で顔を隠しながら立ち上がる。私の呼吸が、嗚咽が、何よりも近くに感じられて嫌悪する。
何も喋れないまま、多目的ホールを後にする。冷房の効いた部屋を出た瞬間、暑いはずの廊下が何故か、心地良く感じられた。




