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座敷には肉の匂いが満ちている。襖は開いているので煙は逃げているが、稼働している冷房は効き目が薄く、全員の額には汗が滲んでいた。
「これ、詩音」
ワンピースを脱ぎ始めた母に、祖母が鋭い声を上げる。李珠さん達がギョッとして母を見るも、母は気にした様子もなく「だって暑いんだもん」と下着姿になった。私は幼い頃から母のこうした行為をよく見ているので驚きはないが、李珠さん達の前だ。抵抗はある。
「お、お母さん。お客様の前だから……」
「あー……、大丈夫よ、うん。誰もこっちにカメラ向けてないし。皆、良い子達ね」
「そ、そういう問題ではなくて……。取り敢えず服、服を着てください」
「それは勿論。かーさん、私の服どこ?」
「二階の、瑠琉の部屋の押し入れだよ。行くならワンピースを着て行っとくれ。爺さんと鉢合わせたらどうなるか、詩音なら解るだろう?」
祖父は今トイレで席を外しているが、もうすぐ戻って来るだろう。どの程度のお叱りを受けるのかを理解している母は、唇をへの字に曲げつつもワンピースを着替え直す。
「瑠琉、部屋上がるね」
「うん」
私に断りを入れてから、母は座敷を出て行った。祖母がふぅとため息を吐く。
「すまんね瑠琉、それと皆さんも。せっかくの夕食の席が……」
「いえ。これはこれで、とても楽しいです」
玲奈さんが「ね?」と周りに問うと、皆さんも頷きを返す。肉を取りながら、李珠さんが口を開いた。
「なんか、私たちの方こそ申し訳ないよね。ほら、お土産とか。明日の集まりで配るやつじゃないんですか?」
夕食前、母がフランスから持ってきたお土産の菓子類のことだ。明日、知人友人に配る予定だと聞いていたが、母曰く買いすぎたから持って行ってほしいということらしい。李珠さん、沙希さん、美波さん、玲奈さんにチョコレートの箱を渡した母は、「瑠琉のお友達だから」ということで本当は元カレにあげる予定だった高級店のチョコを義理チョコに変更したと笑った。それはそれで李珠さん達からしたら気まずいと思うのだけど。それと、元カレが多いような気が。私の恋愛経験が少ないだけ?
「瑠琉も、ごめんね。せっかくの家族団欒の時間を邪魔しちゃったみたいで」
沙希さんの言葉に、私は首を横に振る。もともと今日は課題をして掃除をして過ごすだけの日だったのだ。母が帰って来るなんて想像もしていなかったし、皆さんが気にすることじゃない。
「それよりありがとうございます。お掃除、手伝っていただいて」
「皆さんには何かお礼をしないとねぇ。あぁそうだ、泊まってくかい? 元々、そういう予定だったんだろう?」
「良いんですかっ?」
祖母の提案に、皆さんの顔がパッと明るくなる。祖母は私を見て、嬉しそうに頷いた。
「珍しく詩音に賛成だが、良い友達をもったねぇ」
「お婆ちゃん……」
「冷蔵庫に西瓜が冷えてるよ。後で持って行きな」
「それは、明日の集まりで出す予定だったんじゃ……」
「ちょっとくらい構わん。ほれ、肉も食べな」
いただきまーすの声が重なり、複数の箸がホットプレートを踊る。課題の話やダンスの練習をどうするかなど、夜の予定をたてながらご飯を口に入れていると。
「瑠琉っ」
襖が開き、Tシャツと短パンを着た母が叫ぶようにして言った。あまりに突然だったので、肉が喉に詰まりかけて変な音が器官から出る。振り返って見ると、青白い顔をした母が事件現場に出くわしたような様子で立っていた。母はもう一度「瑠琉」と明瞭な声音で言うと、私の方まで近づいて来た。
「瑠琉あなた、ミシン……服、また作ってるの?」
戦々恐々とした声音にこちらもまた戦々恐々としながら、縮みゆく心臓に抗おうとするように何とか頷く。「これ、行儀が悪い」と注意する祖母の声を聞かず、母は私の返答をゆっくり咀嚼して飲みこんで……突如、頬を薔薇色に染めた。
「やっぱり! やっぱりね! ほら、私の子だもん! 神北家の子は諦めない! ねぇ、そうだったでしょ?」
何を、誰に確認しているのか私には全く解らない。が、祖母には何か察するところがあったようで、母の言葉には返答せず、ふんと鼻を鳴らした。母は特に気にせず、「やっぱり! やっぱりだわ!」とはしゃぐ。
「あの、お母さん……?」
「瑠琉っ! あなたは服作りが好きなの⁉」
母が私の両肩を掴む。母の瞳はキラキラ、と言うよりかはギラギラしていた。
「す、好きだけど……」
「服飾を仕事にする気はある⁉」
「え、えーと、まだそこまではよく……。まぁ、できたら良いなぁとは思ってるけど」
「よしよく言った! 良いの、覚悟もやる気も後からついてくる! 大事なのは未曾有の世界に足を踏み入れること! 人生は冒険よ!」
「あ、あの──」
「瑠琉、私とフランス行こう!」
パチッ。肉の油が飛んで跳ねた。が、火の粉を浴びた腕に脳のリソースを割く余裕はない。咀嚼音、食器を動かす音、声。生活音が全て消え失せて肉と野菜が焼ける音のみとなった部屋は酷く静かで、効き目の薄さを感じていた冷房が今更涼しい風を運んできたような気がする。
一瞬だけ熱を帯びた思考回路が、徐々に冷えていく。李珠さん達を一瞥すれば、時が止まったように固まって私を見ていた。写真みたいに動かなくなっているものだから、そんな場面ではないと解っているのに笑いそうになってしまう。
「……フランスですか。遠いですね」
次に母が帰って来るのはいつだろう、と全く関係ないことを考えながら呟いた声色を、母はどのように察したのだろう。マイペースな表情で、明るい声で、母は言う。
「大丈夫! 遠いは遠いけど、飛行機ですぐなんだよ? 丸一日で行けちゃうんだから」
「そう。じゃあ──」
「る……」
李珠さんの、縋るような呟きが聞こえ、飲みこまれる。抑え込むような顔をした李珠さんに笑いかけ、私は話の続きをするため口を開いた。
「また今度、私も旅行先に使わせてもらいましょう」
冬休みが良いですかね、なんて言いながら、私は箸を手に取り黒くなった肉を取る。焦げていてもジューシーな旨味は変わらず、わざと手をほっぺに当てて大袈裟に「美味しーい」と笑みをとろけさせるも、母はいまいち私の言葉の意味を理解できていないようで「……へ?」と素っ頓狂に呟いた。
「旅行……?」
「うん、旅行。お母さんとお父さんがいる場所は、私の実家ってことになるんだから。お邪魔したって良いでしょう?」
「そりゃ構わないけど……違う違う、そうじゃなくて!」
「そうじゃない?」
「ちょっと、惚けたフリしないでよ! 私が言いたいのは、瑠琉も将来フランスで、主に私の部下? 的な立場で働いて、家族三人で仲良く暮らすのはどうかってこと!」
「ああ、そういう」
「そうそう! そういう!」
「だったら無理」
「……へ?」
「お母さん、私ね、今アイドルの衣装を作ってるんだ」
Sky′sの皆さんがいる前であまり真剣な顔をするのも気恥ずかしいので、敢えて笑みを浮かべて、だけれども真剣な双眸で、母を真っ直ぐに見据える。勿論箸は置いて、崩していた足は正座だ。
「私がアイドル好きってことは、知ってるでしょう? アイドルっていうか、可愛い女の子が可愛い服を着て、お洒落してるのが大好きで。だから私も、ここにいる皆さん……Sky′sの皆さんと、なりたい私になるって、決めたんです」
「Sky′s? なりたい私? ちょ、ちょっと待って。お母さん、追いつけない……」
「お母様!」
緊迫し始める空気を瓦解……ではなく、反対に後押しするような、李珠さんの震えながらも大きな声に、母は「は、はい!」と珍しく慌てた様子で応じる。
李珠さんは立ち上がり、私と母の方まで歩いてくると、私の横に膝を突き、深々と頭を下げた。
「娘さんを、私にください!」
「えっ、えぇっ⁉」
母が目をぱちくりさせるのと同様、私も突然の発言に目が点になる。が、李珠さんは構わずに続ける。
「すいません間違えました! 娘さんを、私達にください!」
「達⁉ ちょっと瑠琉、同性婚は良くても複数は駄目よ! 一人にしておきなさい!」
「いやいやいやいやいや、今の話の流れでその捉え方はおかしいって! 李珠さんも、言い方!」
というか、一人にしておいたら良いんだ……いや、そうではなくて、ゲフンゲフン。ピンクの妄想を追い払い、李珠さんに目を向ける。李珠さんのことだからてっきり空気を緩和させようとして言ったのだろうけど、いくら何でも突拍子がなさすぎる……と、咎めようとしたのだが。
李珠さんの瞳は、私より真剣な眼差しをしていた。空気の流れを追いかけるように、私は次いで沙希さんと美波さん、玲奈さんに目を向ける。三人ともが、一ミリも笑っていない。誰もが李珠さんと同じように口をへの字に曲げ、厳かな面持ちでじっとしている。
「お母様……いえ、詩音さん。私達五人は今、YouTubeでアイドル活動をしているんです」
「アイドル活動? それが、Sky′sなの?」
李珠さんの代わりに、私が答える。
「うん。勝手にネットで活動していたことは、ごめんなさい。軽率だったかもしれないとは思っています」
母だけでなく、祖母にも。そしてこの場にいない祖父にも心の中で謝罪する。なぜネットに顔を晒してアイドルになることを、母は兎も角、祖父母にも内緒にしていたのか。それは、言えばまず止められると解っていたからだ。勿論、止められる理由も理解はしている。大学受験とか就職活動とか、もしかしたらこの先の大イベントに対する勝機が無くなってしまうかもしれない、私が後悔する道のりかもしれないからだ。
ずるいことをしている自覚はある。一度ネットに載った情報は消えないことも、機械に疎い私でもそのくらいは解っている。相談なしに勝手に始めて、後戻りできなくなっていることも知っている。けれど、そうまでしてでも私には、未曾有の世界の地を踏みしめたい理由があった。
「私、今やっと、生きてるって感じがするの。衣装を作っているのもそうだし、あんまり自分の容姿に自信がなかったけど、李珠さんや玲奈さんにメイクの仕方を教わったり、美波さんや沙希さんに可愛いって言ってもらったり。歌ったり、踊ったり……。今までこんなに何かに熱中して、何かに没頭したことなかったから、私は今の環境で頑張ってみたいって、そう、思ってる」
もっと、上手い言い方があったはずだ。国語の授業や発表の時間は、ちゃんと自分の言いたいことを頭で整理してから喋ることができるのに、理解してもらいたい、応援してもらいたい、認めてもらいたい、いろんな感情が先走ってしまっているせいか、口が回らない。
「それは、ネットじゃないと駄目なのかい?」
祖母の、低い声が落ちた。私の頭が一瞬で白く染まる。
「わざわざ顔を世界中に晒さないと、瑠琉のなりたい私とやらにはなれないのかい?」
怒っている、のだろうか。感情が、解らない。でも何か、何か言わないと。
「あ……い、どるに、なりたい」
口から出まかせ、というにはストンと胸に落ちる言い訳だった。元々、アイドルになりたかったわけではない。テレビの、スマホの向こうのアイドルを応援していた立場だ。でも、アイドルになりたかった気持ちがなかったと言えば、嘘になる。
羨ましかった。焦がれていた。桜乃夢ちゃんみたいに、李珠さんみたいに輝きたいと思った。私の作った服を私が着て、誰かにとって神北瑠琉が輝く存在になれば、こんなに幸せなことはない。
「夢を叶えるためには、相応のリスクが必要だと思っています。アイドルになるためには、なりたい私になるためには、ネットに顔を晒すことが相応のリスクだから、ネットじゃないと駄目、です」
「でもそれってさ」
“でも”。否定から始まる接続詞に、肩に力が入る。母の表情からは既に戸惑いが消えており、事情を呑み込んだ上で感じた情が表れている。それは決して温かいとは言い難く、しかし怒っていると形容するには聊か不可解な、平坦な色をしていた。
「あー……。まぁ、いいや」
紡がれた言葉は、諦め、と言うよりかは投げやりだった。その温度に、私の全身が猶のこと引き締まる。何か地雷を踏んでしまったような、道を間違えてしまったような気がして、唇から息を漏らすも行き場を失い煙に巻かれる。
「うん、頑張りな、瑠琉。お母さん、応援してるから」
母の目は優しく、冷たい。底冷えするような響きに、もうあなたは私の子供じゃない、と言われてもいないのにそう言われてしまったかのような、見捨てられてしまったような気がしてならない。
「……ま、今の時代にそういうネットを使った活動とやらは、そう珍しくないんだろうねぇ。ささ、肉が焦げてるよ。食べよう食べよう」
祖母は対照的に、心の底から諦めたような響きで言うと黒い肉を大皿に取り分ける。失望、とは違う。今の祖母の言葉を言い換えるなら、好きにしろと言われているみたいだ。
「あ、ありがとうございます! いただきます!」
李珠さんは母の言葉を言葉通りの意味として受け取ったのか、席に戻り肉に箸を伸ばす。他三人も、安堵したような顔つきで肉を頬張った。
「どうしたの瑠琉、食べないの?」
母が、私の顔を覗き込んで言う。私は母の顔を見るも、まともに見ることはできなくて、視線を目下の黒い塊に落とす。箸で摘まみ、口に入れる。
それは硬く、冷めていた。




