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神北家に訪問するのは二度目だった。到着する頃にはすっかり雨もやんでおり、濡れた石畳を踏む度にぺたんと軽やかな音が鳴る。引き戸を開けた瑠琉が「ただいまー」と玄関先の廊下に向かって声を掛ける。敬語じゃない瑠琉の言葉遣いに新鮮さを覚えながら、私も「お邪魔します」と中へ足を踏み入れる。
家族の姿が見えなかったので、先に部屋へ入っているよう言われた。二階へ上がり、瑠琉の部屋のドアを開ける。畳の床、だが寝具は普通のベッド。勉強机に本棚、ちゃんと閉められた押し入れ。普段は友達が来た時にしか置かないと以前に瑠琉は言っていたのだが、部屋の中心にはしっかりと折り畳み式のテーブルがあり、ミシンが載っている。整理整頓された部屋なのに、そこだけは布きれやハサミが出しっぱなしになっていた。
……ふと、ベッド沿いの壁に目が吸い寄せられる。それもそのはず、そこだけポスターが貼られていた。
「お待たせしましたー」
瑠琉が部屋に入って来る。片手にはジュースのペットボトル、もう片方の手には紙コップが二つ。来客が一人だけだからか、お盆に載せる手間は省いたらしい。
「うち、カピルスしかないんですけど……」
「あぁ、うん。それよりさ、これ……」
ポスターを指さすと、瑠琉は「あぁ」と晴れやかな顔をした。
「桜乃夢ちゃんのポスターです。この前BlooMeの一番くじが出たんですけど、それのB賞で。なんと、五回目で出たんですよ?」
「そ、っか……」
「嫌でしたか?」
気遣う、だけども刺すような声に、反射的に瑠琉を見る。瑠琉は、そんなつもりはなかったのか「ごめんなさい」と呟くと、困ったような笑みを浮かべる。
「そうですよね。だって、私が桜乃夢ちゃんが好きってこと、李珠さんには話したことなかったですから」
「……私の方こそごめん。気、遣ってくれてたんだね。ずっと」
瑠琉は、はいともいいえとも言わず、本棚の方まで歩いていく。小説の段、漫画の段、教科書と参考書の段、二段目三段目四段目、ではなく、一段目に、手を掛ける。
「嘘。本当は、知っていたんじゃないですか?」
「何が?」
敢えて言う。でも、瑠琉は逃がしてくれなかった。
「私が桜乃夢ちゃんを推してるってこと、李珠さんは知っていたでしょう?」
だって、と瑠琉は続ける。
「私を監視するためにこの部屋を訪れた時、李珠さんはこの本棚を見ているはずです」
観念して、私は「そうだね」と頷いた。そう。衣装の製作が一向に進まないという瑠琉を監視するために初めて瑠琉の部屋を訪れた際、私はこの部屋で少女漫画を読んだ。本棚に目を通して、何か面白い本はないか、探した。
そこで、知っている人の名前を見つけた。人気者の写真集や雑誌が並んでいれば、嫌でも目に入ってしまう。どんなに見なかったことにしても、頭に焼き付いて離れない。
「ごめんなさい。あの時は……配慮が、足りていなかったです」
「いいよ。別に、気を遣う必要なんてないんだし」
「本当にそう思ってます?」
瑠琉が、桜乃夢関係の写真集、雑誌、ファンブック、あらゆる書籍を持って、私に差し出すように見せる。見たくないほど整った顔立ちの少女に、目を逸らしたいけど逸らせない。
「思ってるよ。気を遣ってくれなくて良いって、沙希にも言ったことある。それは、本心だよ。嘘じゃない。もし……百歩譲って気を遣ってほしいって私が思っていたとしても、瑠琉が気を遣う必要なんてない。好きなものは好きって言うべきで、隠すことない。私がどう思うかと、瑠琉が何を好きでどうしたいかは、別の問題だよ」
私が心の中でどれだけBlooMeに嫉妬しても、BlooMeが私に気を遣って活動を自粛するなんておかしな話だ。つまり、そういうこと。私とBlooMeのセットと、瑠琉とBlooMeのセットは、同じ線上にはいない。瑠琉がBlooMeを好きな気持ちは、私には関係ない。
「てか、Sky′sの話しようよ。私の自己紹介動画についての話。それするために、私を家に呼んだんでしょ? いやまぁ、最初に夢……ちゃんの話したのは私だけど──」
「なかったことにするつもりですか?」
「……は?」
何を、と訊こうとして、瑠琉の顔を見て息を飲んだ。一見すると真顔、だが、微かに怒っているような気配を感じ取る。
「李珠さん、配信ではずっと桜乃夢ちゃんのこと、夢って呼び捨てにしてましたよね? なのにどうして今は他人行儀なんです? カラスタが終わった後、喧嘩しちゃったとか?」
心の導火線に火が付きそうになるも、感情が爆発するようなことはなかった。どうして私と桜乃夢の事情を第三者に提供しなくてはならないのかという苛立ちと、どうしてそんなことを訊くのか、真意を探ろうと冷静になる。
「……喧嘩なんかしてない。向こうは本物の大人気アイドルになって私は一般人だから、連絡もとらなくなったし、距離感を変えようって、そう思っただけだよ」
私と桜乃夢の友情は、たったひと夏のものだったのだ。カラスタが終わった後、桜乃夢は私に声をかけなかった。そりゃそうだ。勝者が敗者にどんな言葉をかけたところで、軋轢を生むだけなのだから。あんな別れ方をしておいて、友達になんて戻れない。
友達になんて、戻りたくない。私はもう桜乃夢も、BlooMeも見たくない。
知らないふりをしていたい。無関係でありたい。私は、
「李珠さんは、後悔してるんですか?」
後悔も妬み嫉みも、なかったことにしてしまいたい。してしまいたかった。全てにどうでも良いと蓋をして、過去の経験も現在の苦い後味も消してしまいたかったのに。
突きつけられた言葉が、私の腸に溜まっていた汚い感情を逆流させる。
「桜乃夢ちゃんのポスターを見て動揺したのは、BlooMeのメンバーになれなかったことを悔やんでいるからですか?」
「……」
「夢ちゃんと呼ぶのも、親しく呼ぶとカラスタを思い出して辛くなってしまうからですか?」
「……瑠琉」
「カラスタは良い経験になったと、以前仰っていたじゃないですか。李珠さんにとってのカラスタは、ただ夢が失敗に終わってしまっただけの、無価値な舞台だったのですか?」
「瑠琉」
はっきりと、目を見て静止する。が、瑠琉は最後に一つだけ言った。
「李珠さんは、カラスタで活躍していた穂條李珠が、嫌いですか?」
「……嫌いだよ」
「いいえ、私はそうは思いません」
「嫌いだってば」
「いいえ。李珠さんが嫌いなのは、穂條李珠を否定した人達です」
唇から息が漏れた。言葉にしようとして、どうにもならなかった息。瑠琉が書籍を本棚に戻す。代わりに、一冊の分厚い雑誌を出してきた。
それは、Colorful*Starsオーデションの初日から最終日までを纏めた、参加者全員のプロフィールや意気込み、合宿での活躍を纏めた雑誌だった。
表紙には勿論私もいて、桜乃夢の隣で笑みを浮かべている。緊張しているからかぎこちない、けれども合宿への希望が詰まった、輝く笑みだった。
「李珠さんは今、境界が曖昧になっています。李珠さんは李珠さんのことを好きでいて良いのに、李珠さんを嫌う誰かの声に耳を傾けてしまうせいで、誰かが求める李珠さんになろうとしている。誰かが嫌った本当の李珠さんを、李珠さん自身も嫌いになってしまっている」
「本当の私って、何……?」
「過去の自分の発言を、炎上してしまった自分を、間違っていないと胸を張って、これが私だと蹴りをつけて、好きな歌を歌って、アイドルになりたいと理想に手を伸ばす……。それが私の知っている、私が思う本当の李珠さんです。ですが、今はどうですか? 私達に迷惑をかけないようにって慎重になって、否定されない自己を求めて、本当の自分を隠そうとしている。カラスタの経験まるごと、捨てようとしている……私は、そんなの嫌です」
お前が今いる場所は箱庭にすぎないと、そう言われているようだった。初めて外の世界を知ったような衝撃に、声が詰まる。だって、本当に無意識だったのだ。私は、私らしい私を好きになってもらいたかった。でも、そんなのは不可能だった。私らしい私を好きになってもらうには、私が私らしさを好きにならないことには始まらないのに。
私は私の意見を、考えを、想いを、努力を、積み重ねてきた経験を、何色も塗り替えてきた感情を、無意味だと、無価値だと、いっそない方が良いと決めつけて、誰かのために作られた私らしさを手に入れるために、私はいつの間にか私のことを、嫌いになっていたのだ。
「私、言いましたよね?」
あぁ、そうだ。瑠琉は言ってくれたじゃないか。
「カラスタで李珠さんのこと、好きになったんだって」
私は、らしさの意味を履き違えていたのだ。私の好きな私が私らしさであると、そう思っていた。けど違った。私は私が好きな部分も、私が嫌いな部分も、味わった後悔も、苦しみも、辛さも、丸ごと全部が私なのだ。
「私が好きになった李珠さんを、否定しないでください」
あんな私のことも、好きだと言ってくれる人がいる。だったら、私自身が胸を張らないでどうする。自分に誇りを持たないで、どうする。
過去は消えない。けれど、過去に抱いた暗い感情に、今から光を灯すことはできるのではないか。
「……ごめん、瑠琉。私、後悔してた。なんで私は最終審査で落ちたんだろう、どうして私はアイドルになれないんだろうって悔しくて、苦しかった。でも、だから、今の私がいるんだよね」
カラスタをなかったことにして再出発することが、自分自身を見つめ直して向き合うことだと思っていた。でも実際は、ただ逃げていただけだったのだ。勿論逃げるのは悪いことじゃない。けれど、逃げた先に安心があったかと言われれば、そういうわけではなくて。
どんなにカラスタの経験を忘れよう、無かったことにしようとしても、寝る前やふとした時に当時の光景が目の前に広がる。どんなに考えないようにしても、頭を過る。私は今も、カラスタに縛られて生きている。
その縛りを解くためには逃げるのではなくて、向き合わなくてはいけない。アンチ、じゃなくて、カラスタを経験した自分自身と。苦い味を口の中で転がしていたって意味がない。飲みこまないと、いけない時がきたのだ。
「ありがとう。私、もう一回考えてみるよ。私が私をどうしたいのか」
瑠琉から雑誌を受け取る。笑みを浮かべた私の顔を指でなぞり、今の私も笑みを浮かべる。緊張も不安もない、ただ希望と安心に満ちた笑みを。
嫋やかな笑みを浮かべた瑠琉に見守られながら、私は一枚ページを捲った。




