8
朝、目を覚ますと八時だった。六時にアラームをセットしていたのに、止めてもう一回寝たきり暫く起きなかったらしい。が、関係ない。大事なのは走ることだ。
朝食はまだいいと断り、玄関を出る。エレベーターではなく階段で一階まで下り、エントランスの扉を開く。快晴。昨日の雨の残り香なんて綺麗さっぱり消え去った、雲一つない青空が広がっていた。
蝉の合唱にため息を一つ零し、足を動かす。できるだけ一定のリズムで、ペースを崩さず、前を向いて、走る。ポニーテールのせいでうなじが熱い。キャップを被っているから眩しくはないけど、前髪が張り付いて気持ち悪い。暑い。ジャージの下に着ているインナーを今すぐにでも脱ぎたい。靴紐が緩いような気がする。でも一回立ち止まったら、走る気力を失ってしまいそうで怖い。
これ、いつ水飲めば良いの? 腰に巻いたペットボトルホルダーがちゃぷんと波を打つ。信号が青から赤に変わる。内心で舌打ちをして、足は止めずに小さく動かし続ける。「頑張ってね」と知らない老婆に言われて、「ありがとうございますっ」と自分でも驚くほど無意識に元気な声で返し、再び走り出す。
自転車が、バイクが、車が、私を追い越していく。眩しい空の下を、何も考えず走る。遊歩道に差し掛かると階段から砂浜へ下りた。こっちの方が、砂に足がとられて走り難い。故に良い運動になるのではないかと考えた。自分で自分を苦しめる道へ行くなんて、私もとんだ変態だ。
「うわっ」
と、調子に乗ったのがいけなかった。初心者は初心者らしく、無理せず楽な道を走っておけば良かったものを。「ったぁ……」と呻きながら、倒れた身体を上半身だけ起こし、膝小僧を見る。幸い、血は出ていたものの大惨事には至っていない。精々針で突いたくらいだ。これがアスファルトならやばかっただろうけど。
身体に付いた砂を軽く払い、立ち上がろうとしたのだが。
変な倒れ方をしてしまったらしく、膝小僧ではなく腰回りに痛みが走る。怪我をしたわけではなさそうだが、すぐには立ち上がれそうにない。丁度良い、休んでいこう。
と、海に目を向けた時だった。
目の前に影が落ちた。曇ったわけではなく、私の前に、誰かが立ったのだ。
「……なんで」
目が合って、思わずそう呟く。李珠は、私に絆創膏を差し出すと太陽のように笑った。
「絆創膏くらい持っときな、頑張りやさん」
見られていたのか、と頬が熱くなる。絆創膏を貰うために、李珠に向かって手を伸ばす。と、李珠が私の手を掴んで引き上げた。まだ若干身体は痛かったが、よろけながらも立ち上がる。
「大丈夫? ふらふらじゃん」
「大丈夫よこのくらい。それより絆創膏……ありがとう」
「どういたしまして」
「李珠って、女子力高いよね。私も絆創膏なんて持ち合わせてないから」
李珠の後ろにいた沙希がそう言って、笑みを浮かべる。沙希もいるということは、瑠琉と玲奈も? 周辺を探していると、ちょうど遠くから二人の声がした。
「おーい李珠―、沙希―」
「あっ、美波さん! おはようございまーす!」
二人はこちらまで走って来ると、私の膝小僧を見て目を小さく見開く。
「ありゃ、転んじゃったの?」
「大丈夫ですか? 消毒とか」
「この程度、全然大丈夫よ。唾つけときゃ治るわ」
「それ良くないからやめなよ?」
李珠に言われ、大人しく絆創膏を貼る。それにしても、どうして皆がここにいるんだろう。
「海って良いね。透映市、一回来てみたかったんだ」
沙希が言って、海を眺める。潮風が私達を包み込み、さっきまでの暑さが嘘のように、爽やかな空気が全身を駆け巡る。身体が、瑞々しい青で満ちていく。
「そうだ。アイス食べようよ。せっかく買って来たんだし」
玲奈が持っていたコンビニの袋を小さく掲げる。遅れてやってきたのは、どうやらこれが理由だったらしい。ヒノキのデッキに座ると、玲奈が袋からアイスを出す。
「じゃーん、ファミリーパック!」
ソーダ味の棒アイス、十本入り。一人一本ずつ配られ、五人で一斉に包装袋を開ける。
「え、これ一人二本食べろってこと?」
と李珠が口の端をひくつかせると、玲奈が「勿論、だって十本入りだし」と頷く。
「しかも溶けるから、皆一分で食べてよ」
「えぇー、無理ですよそんなの」
「無理ですよって、瑠琉も買いに言ったんだよね? 解ってて買ったんだよね?」
李珠に問われ、瑠琉は「だってぇ」と項垂れる。
「今月お小遣い厳しいから、ちょっとでも削りたいなぁって。一人百円ちょっとのアイス買うよりは、ファミリーパックを割り勘した方が安いから……」
「え、ファミリーパックっていくら? 姉弟いないからあんま買ったことないんだけど、そんなに安いの?」
「これは二九九円でした」
「やっす」
「うちはいつき……弟いるから、よく買うよ。この時期は冷蔵庫にいつも常備してる」
「えー沙希弟いるの? 見せて見せて」
アイスを齧りながら、海を眺める。寄せては返す波をぼーっと見ていると、視界の端にアイスが現れた。
「美波、これ食べちゃって。もう溶けてるから」
玲奈から、ぽたぽたと雫が垂れ始めているアイスの包装紙を摘まむようにして受け取る。
「どうして十本入りなのよ」
「五本入り探したんだけどなくてさぁ」
「ここらのコンビニは、品揃えが悪いものね」
「あっはは。ラムネの方が良かった?」
「ラムネなんて売ってるの? 瓶の?」
「うん、瓶の。今日から発売ってポップあった」
「ふーん」
どうして、あなた達がここにいるの? 訊こうと思ったけど、やめた。タイミングを失ったわけでも、訊きづらかったからでもない。
訊かなくても良いような気がしたから、訊かなかった。
アイスを二本食べ終わり、立ち上がって伸びをする。
「うへぇ。美波、頭痛くないの? あと寒くない?」
頭を押さえて呻く李珠に、私は得意気に微笑んだ。
「私、アイス好きだから」
「私もアイスは好きだけど……なんで自慢気?」
「よしっ、じゃあ走るわよ!」
「えぇー……」
李珠だけでなく、沙希、瑠琉、玲奈からも嫌そうな声が上がる。何よ、あなた達が走ろうって言ったんじゃない。あなた達が漲らせたやる気なんだから、付き合ってもらう。
「あそこ、浜辺の先まで競争よ。一位はラムネ、二位以下は私の家で麦茶だからっ」
言いながら、走り出す。
「はぁっ⁉ ちょっ、ズルいズルいズルい!」と李珠。
「待ってよ! せめて炭酸にしよう⁉」と玲奈。
「私は麦茶でも良いけど……えっ、冷えてるよね? 流石に冷えてるよね⁉」と沙希。
「ま、待ってくださぁい……」と瑠琉。
遅れを取った四人に追いかけられながら、追いつかれまいと全力で走る。冷えた身体はすぐに熱を取り戻し、息が上がって苦しくなる。だけど、気持ち良くて、ただ、楽しい。
夏空の下、真っ白な浜辺を駆け抜けた。




