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保健室のベッドで少し横になった後、私は皆より早く帰ることになった。
「4月ぶりね。でも、今回は前より酷い色」
保健室の先生はそう言って、鞄を持つ私の顔を覗き込んだ。「もう少し寝てなくて大丈夫?」と訊かれたが、「大丈夫です」と答え、保健室を去る。
気分が落ち着いたのは本当で、軽くなった足取りで昇降口へ向かう。外へ出ようとすると、雨が降っていることに気が付いた。小降りだが、傘が欲しい。
ため息を吐き、雨の中に身を投じる。人気のない正門までの道を歩き、時折体育館から聞こえてくる女生徒の高い笑い声に耳を塞ぐ。正門を抜けてしまえば胸は安堵で満ち、同じ高校生より一足早く帰れることの高揚感が噴水の終わり際のようにちょろりと湧く。
川原を見つめながら土手を歩いていると、4月に早退した日のことを思い出した。そういえばあの時も、精神的に限界を迎えていたのだった。とにかく遠くへ行きたくて選んだ学校に、1番会いたくない人がいて、しかも同じクラスになってしまった。どうして、と泣きたい気持ちはあっちの方が強いだろうに、私の方が限界を迎えて早退してしまったのだ。
そして私は、あの歌声に出会った。
駅に着くと、寄り道をせず改札を潜った。もしかしたらあの4人がいるかもしれないと考えて、到着したばかりの電車にすぐ乗り込む。
後ろの方の席に座り、ひたすら俯く。身体が回復してきたとは言え、人の匂いに満ちている車内でスマホを弄ると、気持ち悪さがぶり返してしまいそうだった。
少ない乗客を乗せて、電車は走り出す。スマホがバイブ音を鳴らす。何度も、何度も鳴らす。正面に座るランドセルを背負った男の子が不思議そうに、その隣に座るお婆さんが嫌そうに、私を見る。私の目線が右往左往する。落ち着かず、落ち着かないまま取り敢えずスマホを触る。音だけ消そうとしたが、目線は新着メッセージにどうしても吸い込まれてしまう。
『逃げられると思うな。お前だけが救われるなんて絶対に許さない』
Twitterのリプ欄からだった。固定ツイートのリプ欄に、新たなアカウントから届いていた。
アカウント名は、けもっぴん。アカウントの写真は、2つのスクールバッグ。それぞれにはモッピンとケッピンのぬいぐるみキーホルダーが付いており、その左右にピースを作った手が2人分映り込んでいる。右の指には紫のネイル、左の指にはオレンジのネイルが施されていた。
あぁ、と水で満杯のコップに1滴の雫を垂らしたような、解放に似た脱力感が私を包む。
好奇心とか興奮とか焦燥とか不安とか恐怖とか、そういった感情全てが遥か彼方に飛んでいき、頭はただひたすらに、これ以上はやめておけと諦観のような言葉が響く。
椅子の背もたれに体重を預け、抜け殻のようにゆらゆらと、電車の振動に合わせて魂を揺らす。そうしているとあっという間に陽繋駅に着き、風に揺れる枯葉のように足を動かして駅のホームを出ると、土砂降りの雨が景色を奪っていた。
特に何も考えず歩いた。スカートは一瞬で濃紺に染まり、靴にはすぐ水が染みて、靴下が歩みを重くする。ずるずる引きずるようにして、歩く。
すれ違う人が私を見る。心配そうに、やばい奴を見るように。駅周辺を抜けて住宅街に入ると、人の姿はなくなって、私は1人になった。
そこで、歩けなくなった。何だか、よく解らないけど、間違っているような気がしたのだ。何を間違っているのかは解らないけど、自分自身が、酷く気持ち悪い存在に思えた。
お前だけが救われるなんて絶対に許さないお前だけが救われるなんて絶対に許さないお前だけが救われるなんて絶対に許さないお前だけが救われるなんて絶対に許さないお前だけが救われるなんて絶対に許さない逃げられると思うな逃げられると思うな逃げられると思うな逃げられると思うな逃げられると思うな逃げられると思うな逃げられると思うな逃げられると思うな。
「……っ、ぉえっ」
吐き気を催し、その場に蹲る。車のライトが背後から私を照らし、通り過ぎて行く。
雨が降り注ぐ。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。私は、誰かに手を差し伸べてもらうような人間じゃない。助けてもらえる立場ではないのに、未だ頭の片隅で被害者意識を持っている。そんな自分が気持ち悪い。
私は宇美花に、舞奈に、幸喜くんに、怒り、反吐が出るほど嫌悪した。中学の真っ黒な部分を笑いながら、他人事のように話すあいつらが嫌いだった。そしてそれを、他人事の癖に好奇心を隠そうともせず聞こうとする司くんも嫌いだった。
全員、気持ち悪い。私達は気持ち悪い人間で、真っ白なんかじゃない真っ黒な人間で、普通の一般人とは違う感覚を持っていて、歪んだ尺度で生きている、異常で奇妙で化け物より醜い、人間とは別の生き物。
息が乱れるなか、鞄からスマホを取り出す。電源を付けるとTwitterからリプが10件ほど来ており、それら全てが、もう二度とネットで活動すんなというものだった。私を信じてくれていた人たちも、私から何の説明もないことに憤り、失望している。
配信は、私の唯一の居場所だった。来栖玲奈ではなくイレイナとして生きている時間だけ、私は私を少しだけ好きでいた。現実の人は、汚くて醜くて真っ黒で、私も同じだから、同じ人とは関わりたくないと思うと同時に、同じ人に私みたいな人間を見られたくなかった。非難されて、苦しんで、これ以上生きづらさを覚えたくなかった。だから、ネットの世界に逃げた。ネットでイレイナとして活動すれば、少なくとも真っ黒な人間として見られることはなくなるから。
私は、勘違いをしていたのだ。ネットの世界の人達なら、誰も私を批判しない。私をちゃんと認めてくれて、優しく接してくれて、私を大切に扱ってくれる。けれど、ネットだって現実だった。私が悪いことをすれば、みんな私から離れていく。当然のことなのに、私はどこかネットを、自分にとって都合の良い感情ばかりが手に入る理想郷のように感じていた。
ネットは真っ黒な人間を許さないって、解っていたはずなのに。
私の居場所なんて、何処にもなかった。居場所なんて持ってはいけなかったのだ。親にも高校で親しくなった人にも、私は私のしでかした行為について話していない。白い人間を演じて、人間に成りすましてこの社会で生きているのだから。
居場所なんてない、独りぼっちが正解な人間、なんだから。
「っ……」
Nirrativのアプリを開き、アカウントから設定の項目に移る。ログアウトとアカウント削除。2つの項目のうち、私は後者をタップする。アカウント名とアカウントのパスワード、削除に必要な情報を書き込み、最後、アカウント削除の文字を、指で、押す。
本当に削除しますか?
そんな文字が目に飛び込んできて、思考が揺らぐ。鬱陶しい。ああそうだよ、削除するんだ。
本当に削除しますか? その後に続くはいといいえの文字。はい、に指を持って行く。震えているのはきっと寒さのせいで。
液晶画面に滴る雫は、雨の粒で。
視界が薄暗くなったのは……、私に、傘が差さっているからで。
目線を上げる。赤い傘だった。天候のせいで深紅に見えるが、晴れていればきっと鮮やかな唐紅に見えるのだろう。
「……ぃ」
名を呼ぼうとして、ひゅっと喉が鳴った。声が出ない。
「大丈夫?」
対照的に、一条さんは震えながらも明確に、私に対して言葉を放った。本当は話したくもない相手だろうに、まるで道に迷う人に話しかけるような自然な面持ちで、けれども掠れた声音で言ったのだった。
「風邪ひいちゃう……。家、この辺だよね? 歩けないの? 車、とか。私のお母さん、電話したらたぶん来てくれる……あ、嫌ならタクシーとか、呼ぶ? 少し待たなくちゃいけないかもだけど──」
「大丈夫」
やっとの思いで口にした声は低く、冷たく響いた。違う、こんな言い方をして良い立場ではないのに。頭では解っていながらも他の言い方を思いつかず、私はまた、一条さんを傷つける。
「ごめん。ほっといて。ごめん」
誤解だけはされたくなくて、ごめんと繰り返す。一条さんは数ミリ後ずさったようだったが、その場を立ち去ることはしなかった。
「傘、持ってない?」
目線をもう一度上げようと試みるが、できなかった。首だけを横に振ると、一条さんは「じゃあ……」と私に差していた傘を、より私に近づけてきた。
「……なんで」
「だって、風邪ひいちゃうよ。それに、早退してたから、体調悪い中こんなところで蹲ってたら心配する──」
「なんで心配するの?」
一条さんは本気で面食らったように「え?」と呟く。
「心配しちゃ、駄目なの? お節介だったなら、ほんとにごめん」
「違う。心配しちゃ駄目なのは、違わないけど。お節介は違う、違うの。違うじゃん、なんで」
これは、一条さんなりの復讐なの? 大嫌いな奴に傘を差して、可哀想だねって同情してるの? だとしたらなんで、お節介なんて言うの? 正当な復讐、否、こんな復讐くらい復讐とも言わない。こんなのじゃ、足りないはずだ。ごめんなんて、一条さんが言って良い言葉じゃない。
雨が強くなる。斜めに強く打ち付けるようにして降り出し、風も私達を呑みこもうとするように唸る。
「……中学の時さ」
風に紛れ込ませるように、一条さんが切り出した。私は震える呼吸を隠すように、下を向く。それが狡いと、解っていながら。
「私が不登校だったとき、来栖さん──」
「ごめんっ」
ほとんど衝動的に、私は叫ぶように、けれども下を向いたまま言った。
「……ずっと、逃げててごめん。高校生になって、同じクラスになって、一条さんのことちゃんと、見えてたのに、見えないフリして、知らないフリ、して……。一条さんが話しかけてくるまで話しかけないようにしようって、私から話しかけたら迷惑だろうって決めつけて、謝ることが正しいことだとは思えないと解っていても、謝る、べきだった。本当に、ごめんなさい」
解らなかった。何が正しくて、何が間違っていて、一条さんが何を望んでいて、私はどんな罰を受けるべきなのか。ただ1つ確かな事実は、私は、許されるわけがないと願っていながら、どうしたって許されたがっているのだということ。私は真っ白とは言わずとも、真っ黒な人間から脱却したかった。
私は、普通の人間に戻りたかった。
「……来栖さん」
一条さんが、しゃがみ込む。私と目を合わせて、口を開く。
「違うよ、来栖さん。私は、お礼を言いに来たんだよ」
「……は?」
「ノート。あれ、来栖さんでしょ?」
「っ……、違うっ!」
反射的に叫ぶ。が、一条さんは譲らなかった。
「違わないよ。だって、私のお母さんが、先生に聞いたって言ってたもん。私が不登校になった中2から、卒業するまでの1年半、全部の授業のノート、私の分もとってくれてた子がいるって。それ、来栖さんだって。来栖さんは先生がしてるって、お母さんには言ってたみたいだけど……」
頭が真っ白になった。何をどう言っても自分本位の言葉にしかならない気がして、私は私が1番大切なんだって事実に衝突しそうになって、何も言えずに黙り込む。何を言えば正解なのか。否、今更どう足掻いたところで正解は掴めないのに、未だ正解を求めている自分にまた、腹の底から気持ち悪さが込み上げてくる。どんな顔をすれば良いのか解らないまま、じっと一条さんを見つめる。
「今更だけど、1年半も、ありがとう。もっと早く、直接言うべきだったのに言えなくて、ごめんなさい」
「……違う。ノートは、あんなの誰でも書けた。私じゃなくても、誰でもできることだから」
「そんなことないよ。だって、全部手書きだった。練習問題とか、答えは別のA4用紙に書いてあったりして。国数英だけじゃない。期末テスト前になると家庭科も、音楽もあって……。2人分のノートを毎回とるなんて、普通、そこまでしてくれる人いないよ──」
「やめてっ」
差してくれていた傘を、手で振り払う。私は立ちあがると、一条さんの全身がずぶ濡れになっていることを知った。視界が揺れる。涙を堪えるために下唇を強く噛む。
「学校来んな……って、書いたの私だから」
一条さんの表情に、変化はなかった。驚きも怒りもなく、ただ目線を下げて「そっか」と呟いた。その態度に、どうして、と心が叫ぶ。怒れよ、悲しめよ、突き放せよ。そうしてくれないと、私は、許された気になってしまう。
「一条さんのこと、私、助けなかった! 周りが一条さんのこと苛めてても、私は同調して、一緒になって笑ったりもしてた! なのに、ノート如きで感謝なんかしないで! もうっ、希望なんか持たせないでよ!」
一条のノート作ってるって、玲奈マジで言ってるの? え、あたしらを裏切るってこと? 罪滅ぼしという名の自己満足を始めて1ヶ月経った日のことだった。一条さんを苛めていたグループのリーダーが、そう言って私のノートごと一条さん用のノートまで全てを教室の窓から放り投げた。
何回も何回もノートを投げられて、時にはやっと完成したと言う時に落書きをされたりもした。友達は、「残念だね」と慰めてくれるだけで、面と向かってリーダーに注意したりはしなかった。薄情な奴、と私は私に言った。
人間は汚い。真っ白な人間なんていない。それを知った時、現実の人間と関わることが億劫になった。誰と接しても、誰のことも、自分のことも好きになれない。
私を、来栖玲奈を受け入れてくれる居場所なんて、何処にもない。誰かに指をさされて生きていくなら、なんてことない顔をして日常を過ごす自分に罪悪感を覚えるくらいなら。
「私はもうっ、どこにもいちゃいけないの! やっと解ったの! 私は誰かと仲良くできる人間じゃない、私は何処かのコミュニティに属しちゃいけない、私は誰かと楽しい思い出を共有しちゃいけない、私は、これ以上誰も傷つけないために、1人で生きていくの! やっと私に相応しい生き方が解ったのに、私のことなんか嫌いなくせに、手を差し伸べたりしないでよ⁉」
一条さんは、私から傘を離す。そうだ、それで良い。私にはそれが似合っている。
「……もう、放っておいて。もう一条さんには関わらないから」
本当に私は、どうしようもない人間だ。私は私を嫌いになることで、救われたような気持ちになっていた。自己嫌悪が正義であると勘違いした。結局それは、保身に走っただけなのに。結局私は私が許せなくて、許されたがっている。
もう疲れた。後は、透明な息を吸って、無味乾燥な時間を過ごして、生きているふりをしていれば良い。さっさと立ち去ろうと、水に濡れたアスファルトを踏んだとき。
「私ね、今、すごく楽しいの」
訴えかけるような響きに、思わず足を止めて振り返る。一条さんは、言葉とは裏腹に泣きそうな顔をしていた。
「ノートのおかげで高校受験、しようって思えた。まだ勉強、頑張れるかもしれないって。おかげで今の高校に入学できて。私、来栖さんのノートに助けられたの」
そんなの、知らない。ノートだけで受験が成功したのだと考えているわけではあるまい。今の高校に入学できたのも、今すごく楽しいのも、全部、一条さんが選んだ行動の結果だ。私のおかげじゃない。私は特別な人間なんかじゃない。私は、私が嫌いな人達と同じ人間だ。
「ここには私と来栖さんしかいないよ」
雲間から光の筋が現れ、灰色だった世界のどこか一部に明かりを点ける。ここからは遠く、決して近くない場所に。
「……私は、来栖さんのこと知りたいって思った。なんで私のためにノート作ってくれたんだろうとか。なんで李珠達とは話すのに、私が行くと逃げちゃうんだろうとか。なんで、いつも苦しそうなんだろう、まるで、中学の時の私みたい……何かに怯えてるみたいで、何に怖がってるんだろう、とか」
「怖がってる? 私が……?」
「うん。何かになりたいのに、何か、欲しいものがあるのに手を伸ばしてない。伸ばせない、そんな感じがする。私も同じだったから、なんとなく判るの……」
手中のスマホに視線を落とす。画面はとっくに真っ暗で、そこには何も、無い。
「来栖さんは、どうしたいの?」
どうしたいって、私は、1人になるべきで。
「私は、来栖さんのこともっと知りたい。来栖さんと……友達になりたい」
その言葉が本心であろうと嘘であろうと、暗闇に垂らされた金色の糸であるのだと、私は理解する。……そうだ。1人になるべきという選択も、自己満足なのだ。
一条さんが私の居場所になる。一条さんがいないと、私の居場所はない。
私の生活が、一条さんを中心に回り出す。こうして私は、一条さんと向き合うことができるのだ。ずっと、私に正しい道はないのだと思っていた。真っ白な人間にも、普通の色にすら戻れない、と。
「私も、誰かと一緒にいて良いの……?」
差し伸べられた糸を掴むと、それはあっさり私の手に馴染んでくれた。
「李珠も美波も瑠琉も、皆、玲奈を待ってるよ」
微笑みを浮かべる沙希。私の目から涙が零れる。灰に滲んだ涙が、落ちる。そうだ。全て受け入れてしまえば良い。自己に溢れた想いも、一条さんからの想いも、全て。
「一緒にいようよ、玲奈」
私も誰かと一緒にいられる。例えそれが誰であろうと、居場所を手に入れられた安堵感で心が満たされる。それすらも、受け入れる。雨は降り続け、私達の身体をじんわりと冷やす。
艶やかな沙希の笑みに、私は小さく頷いた。




