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「悪気あんのかって訊いてんだよ!」
空気を震わせるほどの怒声と共に、机がガンっと鈍い音を立てて蹴り飛ばされる。倒れ、中から落ちる教科書の束を、上履きの跡が残るほど強く、彼女はぐりぐりと踏みつけた。
「あのさ、誰のせいで負けたと思ってんの? 言ってみろよ」
彼女は怒っているようで、瞳の奥で笑っていた。結局、どんな些細な理由であれ痛めつけることができるのなら、それで良いのだろう。彼女は日々の鬱憤を晴らし、ストレスを解消しているにすぎない。自分がどんなに酷いことをしているのか無自覚で、1人カラオケを熱唱しているのと何ら変わらない行為だと考えている。
「何とか言いなって!」
壁際に追い詰められた一条さんは、何度も浴びせられる怒声にもはや怯える機能すら停止してしまったのか、ぺたんと床に座り込んでしまった。限界まで俯いた顔がどんな色を帯びているのか、窺うことはできない。
一条さんは、抜け殻のように蹲っていた。
彼女と彼女を取り巻く数人の女子は、舌打ちとせせら笑いを交互に繰り返しながら、私からすれば不安定に見える情緒で、一条さんに自分たちの正義を押し付ける。
あなたは間違っていて、あなたは悪で、悪は存在してはいけないから、あなたは消えるべきなのだ、と。それが世の理であるかのように、言い聞かせる。
些細な、本当に粗末なきっかけだったはずだ。確か発端はダンス部にあって、一条さんはもうダンス部を辞めたから、自由になったのではなかったか。それなのになぜ、2年生になってクラスが変わった今でも、ダンス部とは何の関係もない人達からもこうして、酷い扱いを受けているのだろうか。
「はぁ? なに被害者面してんの? 悪いのあんただから。あんたのせいで球技大会で負けた。だからあんたはその罪を償う責任があるの」
その責任が、これなのか。確かに球技大会の勝敗を決したのは、一条さんのミスが原因だったかもしれない。でも、だからって、苛められる方にも原因はあると言ったって、苛めて良い理由にはならないのではないか。苛められる責任は、ないはずじゃないか。
私は一条さんを庇った。けど、どんなに庇っても一条さんは苛められ続けた。当然だ。だって私は、心の中で一条さんを庇っていたのだから。実際に、彼女に面と向かって、やめなよ、とは言えなかった。
一条さんを可哀想と思うだけで、私は何もしなかった。
もうすぐ夏休みが始まる7月中旬。朝、教室に行くと、彼女が話しかけてきた。
「ねぇ玲奈、あんたもなんか書きなよ」
そう言って、彼女は私に油性のマジックペンを渡してきた。一条さんの机は既に汚れが沢山ついていて、この教室にいる全ての人間が彼女の仲間である印を刻み込んだようだった。
書いてはいけない。だって、もしバレたら、もし一条さんが先生に告げ口をしたら、私がやったってことが親に連絡されたら。高校入試に影響が出るかもしれない。高校入試どころか、今後の人生だって危ういかもしれない。でも書かないと、今が、終わってしまう。
私は無言で後ろを振り返った。クラスメイトが、遠巻きに私をじっと見つめていた。彼女はニヤニヤした笑みを浮かべながら、「早く」とどす黒い声で私を急かす。
書くな、書くな書くな書くな。踏み越えてはいけない一線がある。この世界には絶対に、やってはいけないことがある。苛めは犯罪。小学生の時にそう教わった。
私は、犯罪者になんかなりたくない。
「早くしろよ」
耳元で声がして、ペンの蓋を外した。
そうだ、こんなに汚れた机、これ以上汚したってバレないでしょ。
私だけの責任じゃない。
私は、脅されただけ。
本当はこんなことしたくなかったのに、仕方なくするの。
だって、しょうがないでしょ?
「あっはは、玲奈やばっ。なかなかえぐいこと書くじゃん」
彼女の声につられて、私も口の端を引きつらせながら笑みを作る。
〝学校くんな〟
机に目をやると、私の文字が明確に刻まれている。
心臓が、嫌な音をたてて鳴った。
夏休み明けの9月、一条さんは本当に学校に来なくなった。
私のせい? いや、違う。2学期が始まる前は不登校が増えるってニュースでやってたし、偶然、たまたまでしょ。机に刻まれた文字の1つ1つ、正確に覚えてるわけがない。
そう思いたかったけど、思えなかった。朝起きた瞬間、ご飯を食べている時、授業中も、家に帰っても、夜眠る前も、私の頭にはずっと一条さんがいた。
学校くんな。自分で書いた言葉が、呪いのように私を縛り付ける。
学校くんな学校くんな学校くんな。本音では、あった。一条さんだって学校に来ない方がマシな日々を送れるだろうし、一条さんが来なくなった学校は、現に少しだけ平和になった。彼女はまだ気に入らないことがあると暴れているけど、教室の空気は以前より良くなったような気がする。
……本当に? 本当に、良い空気になった? 私は夏休み前より苦しくなった。ずっとずっと、一条さんのことが頭にこびりついて離れなくなった。毎朝毎朝、今日は来ないのかと身勝手な確認を繰り返してばかり。
もし一条さんの味方であることを行動で示していたのなら、私はこんなに私のことを嫌いになったりしなかったのに。
「ねぇ、──さん、委員長のあなたに、一条さんのプリントを頼みたいのだけど」
何も知らない担任が、彼女にそんなことを頼んだ。彼女は勿論おもいきり顔を顰めて、先生に「部活で忙しい」だの文句を言う。が、彼女の顔が突然、奇妙に歪んだ。
「先生、一条さんの家って、今一条さんしかいないんですか? 親御さんとかは──」
頭に警告音が鳴り響き、考えるより先に、私は勢いよく席を立った。呆気にとられた様子の彼女と先生のもとまで行き、薄汚れた空気を吸い込んで、口を開く。
「私が行きます」
一条さんのプリントは、1ヶ月分溜まっていた。先生曰く親御さんに取りに来てもらおうと考えていたが、先生と親御さんで時間の都合が合わなかったらしい。
私は先生から教えてもらった住所を確認しながら一条さんの家まで行き、少し迷ってから、クリアファイルに入ったプリントの束をポストに投函した。
一条家がポストをいつ確認するのかは知らないが、明日までには回収しているだろう。一応、ファイルの表紙に〝学校のプリントです。入れておきます。クラスメイトより〟と書いた付箋を貼っているので怪しまれることはないと思う、けど。
そういえば、プリントの束の中に数学の課題が入っていた。定期考査のお知らせも、受験に関する面談のお知らせも。
一条さん、これからずっと学校に来ないのかな。だとしたら、定期考査はどうするのだろう。中学は義務教育だけど、出席日数が足りなければ何かしらのペナルティはあるはず。勉強だってついていけなくなるだろうし、そうなれば高校入試だって危ういかもしれない。
私が、一条さんの人生を潰したのかもしれない。
家路を辿っていた足に、今まで感じたことのない恐怖と焦燥が絡みつく。立ち止まり、地面を見つめる。今からでも、一条さんの家のインターフォンを鳴らすべきではないのか。言うべきことを、言うべきではないのか。
鼻先に、雫が落ちた。1滴落ちた雫はどんどん数を増やして、アスファルトを濡らす。
傘を持っていない私は、濡れるしかなくて。
何か、私にできることはないか。そんなことを考えながら、結局家路を辿るのだった。
*
今までのツケが回ってきた。Twitterの固定ツイートに寄せられたリプを見て、そう思った。
『中学のとき苛めをしていたってほんとですか?』
『俺はイレイナさんを信じたいです。説明おねがいします』
『人を苛めるとか最低。もう見ません』
『苛めとか普通じゃない。お前みたいな奴がネットの世界で生きられると思うな』
『真っ白な人間はいないとか言ってたけどお前は真っ黒で草』
数は全部で42件、全てを読むのに大した時間は掛からなかった。配信日時を記載した内容の固定ツイートには一晩でいいね数が30は増え、今も尚リツイート数と共に増え続けている。DMを確認すると、聞いたことのないYouTuberから今晩の生配信に出てほしいというお願いがきていた。どうやら暴露系配信者をしているらしい。
既読無視をして、スマホを閉じる。
「玲奈、早く朝御飯食べちゃいなさい」
「……うん」
お母さんに急かされ、トーストを齧る。頑張って咀嚼して飲み込むが、味なんて解らなかった。ただ、気持ち悪い。吐き気と腹痛に襲われる。
「ちょっとあんた、顔色悪いじゃない。どうしたの?」
「大丈夫。寝不足なだけ」
「もう、遅くまでゲームしてたんでしょ」
笑おうとするが、笑えない。表情の動かし方を、忘れてしまったように。
私は有名配信者というわけではない。Nirrativというゲーム配信に特化したアプリで、Vtuberのようなガワを被って雑談やゲームをしているただの一般人だ。Nirrativ内でのフォロワー数は300人ちょっと。だがTwitterのフォロワー数は30人もいない。普段配信を見に来てくれる人の平均は15人程度。大丈夫、こんな奴がちょっと炎上したところで、大した影響はない。リスナーさんは減るかもしれないけど、有名になることを目標に配信してるわけじゃないし。私について来てくれる人だけ、大切にできればそれで良い。
「おはよう玲奈」
「おはよう」
学校の昇降口で、クラスメイトと挨拶を交わす。ちらと視線を周囲に向けるも、誰も私のことなんて見ていない。皆、スマホか友達の顔しか見ていない。
ほらやっぱり。私が配信者なんて誰も知らないんだし、私のことなんて、誰も興味ないんだから。
……あれ? でもじゃあなんで、私の中学時代をリスナーは知っていたの? 誰が私の過去をネットの世界に投下したのか、今更になって冷や汗が背筋を伝う。リスナーの中に同じ学校の人がいたとか? いや、同じ中学に通ってた人?
教室に入り、友達との会話もそこそこにスマホを開く。TwitterでNirrativ イレイナと検索を掛けると、数件ヒットした。
固定ツイートのリプ欄と大差ない内容のコメントは読み飛ばし、火種となったアカウントを探す。炎上したのは昨夜だから、今から遡れば見つかるはず。遡れ、遡れ、遡れ。
『イレイナの川柳見つけたw』
画像と共に、一件のツイートが見つかった。画像には、先日私が交流センターに送って審査員特別賞を貰った川柳が載っていた。
すぐさまTwitterからGoogleに切り替え、交流センターを検索する。確か巡逢市から来たと言っていたから、巡逢市 交流センターで良いだろう。目当てのHPがトップに出る。覗いてみるとHPにはセンター内の説明やイベント情報が記載されている他、活動日誌という名の日記のようなページがあった。タップすると、過去から現在までの日記の目次がずらりと並ぶ。今年の活動日記の中から6月号を選択。
あった。6月17日の活動記録。
『先日碧天高校で人権学習を行った際に、生徒さんから頂いた川柳を職員総出で拝見! 優秀作品だけ決めるつもりが、盛岡先生の熱い要望で審査員特別賞も決定しました!』
そんな文章の下には、先ほどTwitterで見たまんまの画像が貼り付けられている。センター内の壁に、画鋲で留められた2枚の紙。墨汁で書かれた達筆な文字は、わざわざ飾るために新しく書いたのだろう。
優秀作品と、私の審査員特別賞の川柳が、並んでいた。画像の下には小さな文字で、『(右)=碧天高校1年 相田紗英さん (左)=碧天高校1年 来栖玲奈さん』とある。
ちょっと待ってほしい。ということは、つまり、Twitterで火種を投下したあのアカウントは、既に私の本名まで知っているということになる。否、あの投稿を見たリスナーは皆、交流センターのHPを確認しにいくのではないだろうか。そうなれば、私の個人情報は……。
「……川柳、マジか」
先日行った、人権川柳を皆で考えよう配信を酷く悔いた。どうせ優秀作品には選ばれないだろうから、そんな浅はかな油断がミスを引き起こした。
『えー、川柳、発表します! 健常者 実は少数 みな病気 どう? これめっちゃ良くない?』
そう、私は自分の川柳を読み上げた。流れたコメントまではっきりと覚えている。『ほんとにそれ出すの?』、『言葉強くてワロタ』等、笑ってくれる人が多かった。私も笑っていた。まさか、こんなことから自分の本名と在籍校がバレることになろうとは露ほども考えず。
小刻みに震え始めた指先で、もう一度Twitterの検索画面に戻る。Nirrativ イレイナその後に、碧天と付け加えてみる。
『イレイナちゃんが苛めてたのって中学時代? 高校が碧天ってことは彩ヶ谷の中学?』
そんなツイートが視界に入り、スマホを閉じた。ちょっともう、限界だった。
幸い正しい中学名はまだバレていなさそうだが、時間の問題だろう。
どうしようどうしようどうしよう。さっきまでは底辺配信者だから大丈夫だろうと強がっていたが、今になって焦りが募り始める。閉じたばかりのスマホをもう一度開き、今度はNirrativを確認する。Nirrativには、配信をした日に誰が見に来てくれたのかが解る足跡機能が存在する。川柳の配信を探し、足跡となるアカウント名を入念にチェック。
いつも来てくれる常連リスナーさんと、久しぶりに来てくれたアカウントが複数。Androidの表記は、ブラウザから視聴した人か。その場合はアカウント名が解らないので追跡のしようがない。……いや、ちょっと待て。あの日は確か、荒らしコメントがこなかったか。
そうだ、修学旅行の話をしていて、方向音痴の馬鹿が来た。
「こいつ……けもっぴん?」
けもっぴんという名前のアイコンは、先日ビレバンで見つけたモッピンのぬいぐるみだった。スクールバッグのような鞄に、キーホルダーとして付いている。
『ねぇ玲奈、これおそろで買おうよ。舞奈はケッピン持ってるから、私はこのモッピン、玲奈はゲッジンね』
宇美花が私にゲッジンを押し付けて言った言葉を、頭の中で何度も再生する。いやまさか、そんな偶然があるわけない。だってモッピンは今SNSで大人気のキャラクターだし、宇美花以外の女子高生だってモッピンのぬいぐるみくらい持っている。
宇美花とは一条さんの件で話して以降全く会っていないが……いや、私への嫌がらせにしたとは考えにくい。だってこの川柳配信は、宇美花と再会する前に撮っている。それに、喧嘩のような言い合いをしたからって、相手の個人情報をネットに流出させるような真似は、いくらなんでも度が過ぎている。
宇美花じゃない。ずっと前から私を怨んでいる人か、私のことなんて知らないし興味もなかったけど、面白半分で荒らし行為をした異常者か。
それか──
「玲奈?」
名前を呼ばれ、思考の渦から解放される。こちらを向いた美波が、不思議そうな顔でプリントを差し出していた。
「これ、後ろに回してほしいのだけれど」
「あ、ああ、うん。ありがとう」
プリントを受け取り、後ろに回す。プリントの内容は、期末考査についてのものだった。
「玲奈? 顔色が悪いようだけれど」
「だ、大丈夫。ちょっと寝不足で……」
「そう。あまり無理をしてはいけないわよ」
「うん。ありがとう」
ちらり、一条さんの方を一瞥する。一条さんは明るくも暗くもない、私には図ることのできない温度の表情で、じっと教卓の方を見つめている。
そんなわけがない、と思うのは、そう思いたい私の我儘なのだろうか。
不意に、一条さんが私の方を向いた。すぐに視線を逸らし、私も教卓の方を向く。
心臓が締め付けられる感覚に支配される私を他所に、HRが始まった。




