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『今から家に行っても良い?』とLINEを送る。すぐに既読がついて、了承のスタンプが帰ってきた。奏がずっと使っている笑う猫が親指を立てている可愛いスタンプだった。
陽が沈んだ頃にバスを降り、街頭の灯りを追いかけるように歩を進める。家路ではなく、第二の家だった場所を目指す。
「美波ちゃん」
涼やかな浦風に運ばれてきたような、砂浜に落ちた貝殻のような、仄かな光が私の名前を呼んだ。遊歩道を歩いていても、車道をバイクが通過しても、その光を見落とすことはなかった。
海岸に、奏がいた。碧天高校に来た時のまま、奏が現在通っている透映高校のセーラー服を着たまま、砂浜に座っている。私に向かって微笑を浮かべ、手を振っている。私は遊歩道から階段を降りて、砂浜に足をつける。砂は重く、足をとられた。それでも私は歩いた。
「家行くって送ったじゃない」
「でも美波ちゃん、私の家来るとき絶対ここの海岸遊歩道通るでしょ? だから、待ってたら来るかなって思ったの」
「来なかったら? もし、あなたが私に気づかなかったら?」
「……さぁ、どうしたんだろうね」
風に攫われてしまいそうな呟きに、私は奏の思惑をなんとなく察した。もしかしたら、私に家に来てほしくなかったのかもしれない。ここにいれば、私が奏の家に行ってもすれ違って、私と会わずに済むと考えたのかもしれない。でも、そういうわけにはいかない。
「……早速だけど謝りたい。今日、碧天に来てくれたでしょう? なのに──」
「やめてよ」
鋭い拒絶だった。奏は言い過ぎたと思ったのか、失敗したというような顔をして、すぐに「もう、良いじゃん……」と泣き出す寸前の子供のように言った。
「謝らないで。美波ちゃんにだって触れられたくないことあるって解ってたのに、私がしつこかったから、私が悪かったの。だから──」
「ごめんなさい、そういう話をしに来たのではないの。あなたがしつこかったとかではなくて、私はあなたに隠してしまった。私の詩を……あなたの過去に纏わる内容の詩を、あなたに聞かせたら傷つくかもしれないと、気を遣って隠してしまった」
「……なに、言ってるの? 私が傷つくって? 私の過去って、美波ちゃんは何を言ってるの?」
「記憶を失くしているあなたに、記憶を失くす以前のあなたを求めていた私を、許してとは言わないけれど、謝罪させてほしい。ごめんなさい」
頭を下げる。奏は何も言わず、ただ、唾を飲む音が聞こえた。暫くして「……やめて」と明瞭な拒絶が耳に届く。顔を上げると、奏が苦しそうな面持ちで深呼吸をひとつ。奏はもう一度「やめて」と小さく言うと、私に縋るような目を向けた。
「もう、その話はやめよう? 誰も幸せにならないんだよ?」
「だからここで待っていたの? あなたの家でこの話をすると、晶子さんが取り乱してしまうかもしれないから?」
「……そう、だよ。だから、もし話をするならここが良かった。でも、やっぱり話したくない。その話はもうするべきじゃないよ。私は美波ちゃんの詩なんて知らない。歌詞の担当は私で、美波ちゃんは作曲をするの。2人でMK726のまま、音楽を作る。それが、幸せでしょ?」
「誰の?」
奏の口から「え」と掠れた息が漏れた。
「誰のって……私と、美波ちゃんの」
「あなたって、誰よ」
「っ……⁉」
伸ばされた腕が私の襟首を掴み、勢いよく押し倒す。これ以上は絶対に言わせない。そんな意思を強く感じる力だった。砂の上とは言え板面に倒されたようなものなので背中には相応の痛みが走り、奏の三つ編みの先が私の頬に触れ、くすぐったさも同時に感じる。奏は襟首から恐々と手を放し、砂の上に置いた。
「ごめん……」
「良いわ。こうなってしまった責任は私にもあって、そのくせ身勝手な、我儘を言っている自覚はあるもの」
「そう、だよ。勝手だよ」
奏の瞳から零れた涙の粒が、私の首筋や服を濡らす。ぐしゃぐしゃに歪んだ顔は、今まで奏が奏らしくあろうとしたどの表情よりも奏そのもので、裏腹に私の知っている奏とはまるっきり違うものだった。
「……砂、という詩を書いたの」
「やめて……」
「ううん、聴いて」
一呼吸置いて、私は奏の目を見て言う。視界の端に、満天とは言い難い、けれども綺麗な星空を映しながら。
「砂を注ぐ 小瓶に少し 真っ白な砂
蓋をする 飾る 仕舞っておく
大事な大事な私の砂
赤く焦げてしまっても 瓶に亀裂が入っても
大事な大事な私の砂
いつか忘れてしまっても 絶対消えない私の砂」
言い終える頃には、私の声も掠れていた。涙が流れて耳を濡らす。視線を巡らせて、今日は新月かとどうでも良いことを考えて、熱くなる気持ちを冷まそうとする。
奏が服の袖で涙を拭う。痛そうなほど、顔を擦る。その頬に、手を伸ばす。
「あなたの砂を、注ぐことはできないの。だって、あなたはあなただから」
目尻に触れようとして、やめた。奏のどこにも触れることなく、伸ばした手を下ろす。
「……だから、ごめんなさい」
「なんでっ」
「ごめん」
「どうしてっ? 私の歌詞、そんなに駄目だった? 私の歌も、やっぱりそんなに違う?」
「奏は……歌が好き?」
「……答えて、私の質問に──」
「答えて、私の質問に」
私の足の上に、奏はぺたんと座り込む。視界から奏が消えて、代わりに夜空が広がった。白い星が瞬く空を見渡す限り、やはり今日は新月だった。
「解んない……」
消え入りそうな声で、奏は呟く。
「解んないけど……歌ってる時も、歌詞を書いてる時も、苦しかったのだけは、解る」
見えない月に手を伸ばす。勿論届くはずもなく、下ろし、掌で顔半分を隠す。目頭が、熱い。
「皆の期待通りにしなきゃって、動画で歌ってるみたいに上手くならなきゃって……」
「うん」
「でも、美波ちゃんに歌詞を渡しても、歌っても、曲、全然できなくて……もっともっと、良い歌詞書かないと、歌、上手くならないとって、苦しくて──」
「ごめん……苦しませてごめんなさい。でもそれが、私の答えよ」
上半身を起こすと、ぐしゃぐしゃに濡れた奏と目が合う。怒りと悲しみを混ぜた瞳の奥には、想いを吐露したことによるものか、澄んだ色があった。
深く息を吐いて、もう一度夜空を見上げる。
「私の音楽を特別にする魔法が、あなたには使えない。何故ならあなたにとって、私の音楽が特別ではないからよ」
風が吹いた。新たな旅路を示すような、青い風だった。奏も夜空を見上げ、呟く。
「遠くに行きたい」
葉月奏の選択に応えるように、星明りが海を照らす。私は、衝動に任せて口を開いた。
「……新しい小瓶を用意して、そこにあなたの砂を注ぐことは、できる」
だが、奏はゆっくりと首を振った。ありがとう、とでも言うように、皮肉な笑みを浮かべて。
「行くよ。何処かはまだ解らないけど。私は私の行きたい場所に行く」
私が背中を押した。私が我満を言って、全部私が望んだ方向に転がった。私が選んだことなのに、その選択はあまりにも、私の胸を締め付けた。
「あーあ、沢山泣いたから、お腹空いちゃったなぁ」
奏はわざとらしく明るい声を出して立ち上がると、スカートに付いた砂を手で払う。私は何故だか泣きそうになる目を砂に向けながら、立ち上がる。
「コンビニでも寄る? アイスとか、買う?」
「ううん。お肉が良いな。この時期のアイス、あんまり好きじゃないから」
歩き出す奏の後を追いかけ、隣に並ぶ。でも、何を話せば良いのか解らなくて、「星が綺麗ね」と当たり障りのないことを言った。「いや、曇ってるし」と奏は笑った。そこは乗ってくれても良いじゃないと、2人で笑った。
階段を上がり、コンビニを目指して遊歩道を歩く。中学が同じで、住んでいる地域も近くて、互いの家を行き来してばかりだったから、足取りに迷いはなく、進む道は同じだった。これから先も同じなのだろうと、昨日まではぼんやりと、そう思っていた。
「どこに行っても、私は奏を応援してる」
ついさっきまで2人でいた海岸を眺めながら言うと、奏もまた海岸を見ながら言った。
「私も、美波ちゃんを応援してる」
少しだけ大人びた、落ち着いた声色だった。
やがて海岸は見えなくなり、遊歩道を抜け、町に出る。見慣れた景色のはずなのに、何かが違って見えた気がした。
ひんやりとした、心地良い風が肌を撫でた。




