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Sky’s  作者: 白咲実空
#3.夜の砂は風に吹かれて
22/23

6

 どこまでも続く水平線を見つめるその眼差しに、惚れた。青い空に朱の色彩が落ちる夕刻、潮風に揺れる三つ編みを片手で抑えるあなたはとても綺麗で、空間を震わせるような、透明だけども虹色な歌声に、時間が止まったように見惚れ、聴き惚れていた。

 歌い終わったあなたに近づく。砂を踏む音に気付いたあなたが、西日に照らされた顔を私に向ける。まずは、感想を言った。拙い語彙で凄いとか綺麗とか、小学生みたいなことを言って。

 次に、誰の曲、と問うた。

美波みなみちゃんの曲だよ」

 さざ波のようにあなたは笑った。どうして作者が気づかないの、とおかしそうに笑った。

 気づかないわよ、だって。

 シンデレラがドレスを纏うように、カボチャが馬車に変わるように。

 音楽に、魔法が掛かったのだから。


 私の出席番号が7番、かなでの出席番号が26番。美波のⅯと奏のKを取って、MK726が誕生した。勿論2年生になれば出席番号なんて変わるのだけど、当時はそんなこと気にしなかった。

 DTMを使えるのは私だけだったから、奏にはボーカルをお願いした。歌ってくれればそれで良いと言ったのだが、3曲目あたりから「私も他に何か、役に立つことをしたい」と言われたため歌詞をお願いした。似たようなテーマを使い回してアイディアが尽きていたから、半ば押し付けるような気持ちだった。

 瓶に詰めた砂 あなたの音を飾るの 私の声でリボンを掛けて

 タイトルは『あなたの音』。私と奏が海岸で出会った時のことを詩にしたらしい。

「歌詞書くの初めてで……。あんまりお洒落じゃないかもしれないけど」

「そうかしら? 洒落ているかは判らないけれど、私は好きよ」

 即答する私に、奏は照れたようにはにかんだ。

 奏の歌詞で、私の音は彩られた。1人で作っていた時よりも鮮明に、目の前の景色が明るく開けた。風が吹けば木々の香りに眼を閉じて、鳥が羽ばたけば空の青さに手を伸ばす。届きそうにない光を望むようになってからは、1日が瞬く間に過ぎていった。

 周囲の応援も、心無い嘲笑も、私と奏が全力で音楽に尽くすことでエネルギーに変換し、曲を作り続けた。10、20、と作った曲は、やりたいことをやっているという充実感で私達を満たした。

 そうした日々が、愛おしかった。


 中学2年生の冬。奏が事故に遭うまでは。

「今日は私が美波ちゃんの家に行こうか? 作曲、詰まってるって言ってたよね?」

「それはそうだけど、最近は5時でも真っ暗だし、今日は天気も悪いでしょう? お互い家に帰って、リモートで進めましょう」

 そんな話をして、その日は奏が一足先に教室を後にした。私は日直だったから、先に帰っていてと言って。

 その結果。12月7日。午後4時30分。通学路を歩いていた奏と、飲酒運転をしていた軽自動車が衝突した。私は無事に家へ帰って、ご飯を食べてお風呂に入って、奏に電話をして、LINEもして、もう一度電話をして、寝ているのか用事でもあるのかなんて呑気に考えてため息を吐いて、学校の課題をして、歯を磨いて、布団に入る、直前。

 白い顔をした母が、私の部屋のドアをノックした。晶子さんから電話がきた、と。

 家を出ようとする私を父が抑えて、その日は自宅待機を余儀なくされて、病院に向かったのは、奏の手術から1週間が経ってからだった。

 白いベッドに横たわる奏は瞳を閉じて、呼吸だけを繰り返していた。

 医者はこう言ったらしい。幸い一命を取り留めたが、頭を打ってしまった。打ちどころが悪かった。

「……つまり、どういうことですか?」

 奏が眠る病室にて。言われた言葉の意味を理解できなかった私は、晶子さんにそう訊ねた。泣きじゃくる晶子さんの背中に手を当てた母が、代わりに言った。沈痛な面持ちで、私から目を逸らしながら、現実ではないどこかを見るように、縋るように。

「いつ目覚めるか、解らないそうよ」

 無色透明な声で、そう言った。


          *


 穂條ほじょうさんが紹介してくれたカフェは、女子高生向きというよりかは落ち着いた社会人が好みそうな大人びた雰囲気があった。木の壁とコンクリートの床で仕切られた空間は、明るさの中に仄暗さを秘めた間接照明のおかげで明るすぎず暗すぎない。モンステラやパキラ、ポトスなど至る所にある観葉植物はただの見世物ではなく、どれもが愛を込められて生き生きとしており、モダンな内装によく映えていた。ソファ席の一角ではママ友らしき複数の婦人が物静かに談笑し、カウンターでは白髭の似合う老爺がカップを磨いている。

 BGMとして流れていたジャズがボサノバに変わったタイミングで、私は珈琲のカップをテーブルに置いて話を続けた。

「奏が目を覚ましたのは翌年、私が3年生になった8月、夏休みの時だったわ。朝の11時頃だったわね。高校受験用の問題集をほっぽって、連絡が来た3分後に家を飛び出した。母は化粧とか諸々の支度があると言ったから、待ってられないと声を荒げて、自転車を飛ばした……。まるで映画のワンシーンね。勿論、人にぶつからないよう最低限の交通法は守ったけれど」

 茶化すように言うが、穂條さんと一条いちじょうさんはさっきから一度も、ピクリとも笑っていない。当然だ。内容が内容なのだから。でも、もし何かあったのなら聞かせてほしいと言ってきたのはそっちなのだ。一度話すと決めた以上、2人には最後まで付き合ってもらう。

「病院に着いて、奏の病室へ行った。戸を開けたら、上半身だけ起こした奏が私をゆっくりと見てね……もしかして、美波ちゃんですかって、そう言ったの」

「もしかしてって、何……?」

 怖い話を聞くような態勢で訊ねる穂條さんに、私はふっと笑って告げた。

「記憶を失くしたんですって。私との関係どころか、他の友達も、親のことすらも、綺麗さっぱり。でも人間って不思議よね。記憶喪失になっても言葉は話せるし、赤信号を渡ってはいけない、そんな社会のルールは認識している。あ、映画で見るやつだ。都合の良い設定だと思ってたけど本当なんだぁって、静かに関心してたわ」

 私だけじゃなく、晶子あきこさんも思いのほか冷静だった。私より先に知らされていたというのもあるのだろうが、「生きていてくれれば、それで良いの」と晶子さんは言った。その頬には雫が伝っていたが、現実を呑み込もうとしている人にかける言葉が、私には見つからなかった。

「晶子さんだけじゃない、皆そうだった。母も友達も学校の先生も皆、テレビやネットで正解を調べた結果、以前とは違う奏を受け入れて、無理に記憶を掘り返すような真似は決してせず、新しい思い出を作っていこう。そんな、何て言うんでしょうね。スローガンとでも言うのかしら。前も後ろも全く解らない私に、こっちが前だって皆が言った。……でも、私は受け入れられなかった。そこが前だと解っていても、進むことはできなかった」

 我儘なことを言っている自覚はあった。だって被害者は奏で、記憶を失くして困っている当事者も奏なのだ。奏のことを1番に考えるべきだと、頭では理解していたのに。

「私と奏の曲は、MK726の音楽は、私と記憶を失くす前の奏で作りあげてきたものなのよ? 奏が書く歌詞も歌声も、14年間生きた奏が積み上げてきたものなの。それをいきなり全部崩して、スタート地点に戻されるなんて、あんまりだと思わない?」

「……そっか。だから『マジックアワー』みたいなボカロ曲が最新の動画に上がってたんだ」

 穂條さんの呟きに、私は苦みを噛み潰しながら否定する。

「それは、少しだけ違う。……記憶を失くした奏を放って、ただのボカロPに戻ったわけじゃないわ。『マジックアワー』のような曲は、奏が目を覚ますまでの期間に作ったものよ。奏といつでも曲を作れるように、腕が衰えてはいけないと思って。それに、目を覚まさなくても声は聞こえるという話を聞いたから、曲を作って奏に聴かせていたの」

「じゃあ、どういうことなの?」

 困惑を浮かべる穂條さんに、私も頭の中を整理しながら言葉を紡ぐ。

「一度だけ、前を向いたことがあった。記憶を失っても私は奏と友達でいたかった、奏は奏だから、作る歌詞も歌声も結局は奏らしい色が付いているんじゃないかと思ったから。でも、そんなのは私の願望に過ぎなかった。温かさに溢れていた歌詞も、何色にも変わる歌声も、まるっきり違う、上手いけど、正直心を動かされるような魅力は、ないに等しかった」

 カラオケで歌を聴いた際、私は奏に問うた。音楽は好きか。奏は、好きだと言った。

ぎこちない、笑みで。

「諦めるしかないと解っていながら、私はMK726の音楽を奏に聴かせた。もしかしたら何か思い出すか、歌詞が浮かんだ時の感覚を取り戻すんじゃないかって期待した。そして、その期待が砕かれて私が奏に会うのを暫くやめた時、奏は変わった」

 私は私で奏を受け入れることはできない。だったら奏のことを忘れて、MK726としてではなく清瀬美波として、ボカロPとして音楽制作を続けよう。そんな考えに神様が、罰を与えたのかもしれない。私なりの前の向き方に、間違っていると言いたかったのかもしれない。

「奏が、奏になったの」

 窓を差していた陽が陰を帯び、店内の薄暗さが顕著になる。マスターが照明を調節すると、眩しい光に目を細めた。

「記憶が戻ったってこと?」

「違うわ」

 一条さんに即答すると、当時から今も尚、ずっと感じている痛みが胸の辺りを刺激した。

「私も最初はそうかもしれないって思った。でも違った。奏の記憶は戻ってなかったの。だって、奏は右手でご飯を食べて、鉛筆の持ち方が正しくて、ゲームの対戦が弱い……以前の奏とは違うまま、なのにあの子は奏になろうと努力した」

 私の知っている奏は、左利きで鉛筆の持ち方が少しおかしくてゲームの対戦が強い。奏の髪型、服装、喋り方、性格、どれを真似てもあの子は完璧な奏にはなれない。どんなに奏らしく振舞われても、奏じゃないと思い知らされる瞬間がいくつもあった。

「奏が奏になろうとした時、晶子さん……奏のお母さんなのだけれど、晶子さんは無理をしなくて良いと言ったそうよ。私の曲を歌っている奏に、無理して歌わなくて良いと。でも、その時に奏はこう言ったんですって。私、美波ちゃんの曲好きだから、また美波ちゃんと音楽活動したいんだ、って。後日、晶子さんに凄く感謝されたの。美波ちゃんの音楽のおかげで、やっぱり奏は奏なんだって心から思うことができた、これからも奏をよろしくねって」

 はっきり言って、馬鹿みたいだと思った。あれだけ新しい奏を受け入れると言っていたくせに、やっぱり奏の記憶が戻ってくれることを望んでいたのだから。晶子さんだけじゃない、学校の先生や友達も、普段の奏と接する時は常に気を遣って不安そうな瞳をしていたのに、奏が私の曲を歌っていたり歌詞を書いていたりすると、静謐な優しさを瞳に宿す。

 そして、奏もそれを理解したのだろう。どんどん奏は奏になっていって、今では誰もが、奏が記憶喪失である事実に蓋をして、奏であって奏じゃない子に接している。

「ある日、奏が歌詞を持ってきたわ。以前の奏が使っていた歌詞ノート。事故に遭った時も持っていて、雨に濡れてぐちゃぐちゃになった痛ましいノートを、私に見せつけるように持ってきた。そして歌詞を見て……絶句したの。あぁ、この子は本当に奏じゃないんだって、思い知らされたから」

 見てもらった方が早いと思い、私はスマホをテーブルの中央に置く。メモ帳のアプリに並んだ『歌詞(今の奏)』と書かれたフォルダをタップして、いくつか並んだ歌詞の中から1番下のファイルを選ぶ。

 中学3年生の10月下旬。奏が、恐らく今までのMK726の曲を聴きながら書いた歌詞。私は何度も読み返しているため今更全文を読むのは苦痛で、珈琲に視線を落とす。

「これ、どう思った?」

 低い声で問うと、先に口を開いたのは一条さんだった。

「えっと、私は詩のセンスとかないからよく解らないんだけど……普通に良いんじゃないかな? 何ていうか、違和感ないっていうか。凄く、有名なシンガーソングライターっぽいなーって思う」

「あぁ、なるほど……」

「な、なに李珠りず。私、変なこと言った?」

「いや変なことっていうか……沙希さき、今のたぶん褒め言葉じゃないよね?」

「えっ、あ、や、貶してるわけではないっていうか」

 慌てふためく一条さんは、自分の感想を失言だと捉えたのかフォローの言葉を探している。穂條さんは何かに気づいた様子で、ふむと小さく頷いた。

「そうだ、判ったよ。うん、沙希の感想がきっと正しい。この歌詞、自我がない」

「私が正しい? 自我? どういうこと?」

「穂條さんの言う通りよ。この歌詞には記憶を失くす前の奏らしさもなければ、今の奏らしさもない。過去の歌詞を遡って、過去の奏が海や星をテーマにしていたから、この歌詞では月をテーマにした。で、十六夜や星影なんて過去に使われた単語をそれっぽく組み込んで、何か綺麗な詩にした……。そう、この歌詞は綺麗よ。綺麗だけれど、精巧に作られたレプリカみたい」

 奏はどこまでも、奏の真似をした。そうさせたのは私だが、もし奏が嘘でも私と曲を作りたいと言うのなら。

「私は正直、これでMK726が続くとは到底思えなかった。けれど、晶子さんや学校の人達は皆、私と奏がまた音楽活動を始めてくれると誰もが願っていた。それに、奏が奏になろうとしたのは、私が奏に期待して、勝手に失望したから、私が引き起こしたこと……私にも責任はあるし、奏と1曲完成させてみれば何かが変わるかもしれないと信じて、私はもう一度、MK726の活動を再開することにした。奏と一緒にね。……けれど、奏が何度も歌詞を書いて持ってきてくれても、私は作曲ができなくなってしまった。奏の歌詞から浮かんでくるメロディーが、途切れてしまった。パソコンに向かって何とか作ろうとしても、私はもう、曲を作れなくなってしまったのよ」

 さっきの月をテーマにした歌詞は勿論、続いて持ってこられた歌詞も全て、私の瞳には無色に映った。透明でも虹色でもない。輝きが、感じられなかった。

「最初は高校受験があるからと逃げて、次は入学準備があるからと逃げた。奏は事故に遭ってから半年ほど入院していたから、学力の問題もあって同じ高校には行けなくて……正直、チャンスだと思ったわ。最低な言い方だけれど、奏から解放されるんじゃないかと少しだけ心が楽になった。まぁ、高校が離れても私は奏の家に行って、今でも奏の歌詞を見て、曲を作ると嘘を吐いて、家に帰って、宿題をして寝るだけっていう……本当、自分で話していて情けない」

 奏もきっと、私のやる気がないことに気づいている。それでも歌詞を書き続けるのは、私を信じてくれているのか。それとも、

「奏はきっと、歌詞を書くことで奏であろうとしているんでしょうね……。書きたいから書くのではなく、アイデンティティを保つために歌詞を書いている。他責になってしまうけれど、MK726が再開できない理由の1つは、奏が本心を見せず奏であり続けているからだとも思う」

 MK726の動画は昨年の3月、『マジックアワー』で更新が止まっている。奏に目を覚ましてほしくて、MK726を終わらせたくなくて作った曲だけど、あの曲だって私のアイデンティティを保つための曲だった。奏と話すことができなくなって、1人じゃ立っていられなかったから、MK726を利用して、奏の相談なく自分の感情で突っ走って歌詞を書いて作曲をした。

 奏が事故に遭った時点で、MK726は既に破綻していたのだ。

「これが私と奏の関係、私が教室でMK726について話すなと言った理由よ。馬鹿にされれば奏を馬鹿にされたようで悔しくなって、褒められればそれはそれで、以前の奏はもういないのに、MK726は壊れてしまったのに、二度と戻らないかもしれないのにと思って、辛かったの」

 全てを話し終え、珈琲を一口含む。湯気の消えた珈琲は、丁度良い温さと苦さで私の喉を通っていく。一息吐き窓の外を見ると、灰色の雲間から僅かにオレンジの光が差していた。

「長々と付き合わせてしまってごめんなさい。それと、ありがとう。あなた達と話していてようやく、自分の気持ちに気が付いたわ」

 残った珈琲を飲み干し、席を立つ。「気持ちって?」と訊ねてくる穂條さんに、私は帰り支度をしながら言う。

「MK726はもう終わり。悲しいけど、奏の人生は奏のものだもの。私の都合で振り回すわけにはいかない……。9月からは同じ高校になるのだし、休み時間は世間話に花を咲かせて、放課後はゲームセンターかショッピングモールに出かけるような、そんな普通の友達になるわ」

 勿論、MK726を失った奏が私と距離を置きたいというのなら、そうするつもりだ。

「そろそろ大人にならないとね」

 カフェを出て、陰と陽が入り混じる空を見上げて呟く。私も奏も大人になる。そして、それぞれの道を行く。私は私の音楽を、一生懸命作っていけば良い。清瀬美波きよせみなみの音楽を、MK726以上に特別な輝きを放つものにすれば良い。

「それじゃあ、今日はありがとう」

 2人にそう言って、背を向ける。ふと、カフェの隣に並んだブティックのショーウィンドーに目を向ける。ガラスに映った自分の顔を見て、小さく笑った。せっかく前を向けられたというのに、あまりにも酷い顔をしていたから。

「壊れてないよっ」

 潮の香りがした。

 あの時、奏と初めて出会った海岸で感じた香りが、鼻腔を刺激した。振り返ると、穂條さんが訴えるように、もう一度言った。

「壊れてない、絶対壊れてなんかない。MK726は残るよ。奏ちゃんが記憶を失くしても、清瀬さんが奏ちゃんとただの友達になることを選んでも、MK726は絶対、絶対壊れない。消えたりなんかしないよ。清瀬さんがこれからも音楽を作るんなら、絶対奏ちゃんと作った音楽のことは、清瀬さんが大好きだった奏ちゃんとの思い出は、大切にしないと駄目だよ」

「なんで」

 壊れてないなんて、そんなことが言えるのか。そう続けようとすると、

「好きだから」

 穂條さんが即答した。

「MK726の曲はあんまり聴いたことないけど、私は『マジックアワー』が好きだから。奏ちゃんのことを大切に思って作った『マジックアワー』が、大好きだから」

 穂條さんの頬は少しだけ赤くなっていて、けれど恥ずかしげもなくもう一度、「好きだから」と繰り返した。私はそこまで言われてようやく、以前から穂條さんに対して抱いていた心の波の正体が解った。浮き沈みの激しい波が、今はこれまでの中で1番大きく波打っている。

 私はきっと、羨ましいのだ。気まずい相手にも目が合えばおはようを言って、自分の悪いところを見つめ直して反省して、何が好きで何が大切で自分はどうしたいのかを明確に持っていて、自分の感情に素直になれる、自分の色を持っている穂條さんが羨ましかった。

「……私も、好きよ。私も、私の曲が好きだもの」

 言葉にしてやっと、目の前の景色が開けた気がした。

 どこが前かは解らない。もしかしたら違う方向に進もうとしているのかもしれない。奏も誰も、望んでいない方向に。それでも私は、私のことだって大切にしたい。大切にして良いと、目の前の2人は言ってくれている。

 だから私が進む道はきっと、間違いでは、ない。

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