5
私が家にまっすぐ帰る日は少なく、本屋さんに寄ったりコンビニでお菓子を買ったり、葉月家に遊びに行ったりすることが大半だ。青い空の下、私は今日も葉月家のインターホンを押す。晶子さんの声がして、私は扉を開けてスリッパを勝手に借りる。
奏は今日も、ソファの上でアイスを食べている。今日はカップアイスらしく、食べかけのものがサイドテーブルに置かれている。
「あ、おかえりー美波ちゃん。学校は終わったの?」
「終わったから来たのよ」
奏は制服を着たままコントローラーを握っている。テレビ画面にはパズルゲームが表示されていて、奏はCPUに悪戦苦闘しているようだった。
「あー、負けちゃった」
「難易度はどのくらいにしたの?」
「鬼マックス」
「それで勝てたら大会に出た方が良いわね。ねぇ、私もやって良いかしら? ぶよぶよで──」
「それより」
奏が食べかけのアイスに手を伸ばしながら、私に澄んだ瞳を向ける。
「今日は、曲の打ち合わせをするって約束でしょ?」
言葉が詰まり、下を向く。唇を噛みしめるも、何とか声を絞り出した。
「そうね。奏の部屋で良いかしら?」
「うん。飲み物とお菓子持って行くから、先に行ってて」
奏は立ち上がると、ゲームを終了してテレビを消す。キッチンに消える奏を見送って、私はバレないようにため息を吐く。ひんやりする廊下に出て、2階に上がる。1番奥にある奏の部屋を開けると、開いた窓の隙間からそよ風が入り込んでいた。今日は天気が良いから開けっ放しでも問題ないけれど、寒気を感じたので閉めておく。
「お待たせー。ちょっとドア開けてくれる?」
「ええ」
奏が入る。お盆には透明な炭酸飲料とスナック菓子が載せられていた。
「じゃ、まずは私の歌詞から見てもらおっかなー」
奏は勉強机の方に行って、引き出しからノートを出した。大分くたびれた、薄汚れたノートだった。
*
学校は、今日も雑音で溢れている。
「ねぇ、新曲は出ないの?」
廊下を歩いていた時、他クラスの女子2人からそう声をかけられた。「私達、清瀬さんの曲聴いて」、「めっちゃ良いねって話してて」という口ぶりからどうやら私のファンらしく、悪意はないことが判る。だが、ファンだろうと何だろうと、どうしようもなく苛立ってしまった。まるで、大切なお菓子を羨ましがられているような、私だけの特別な場所が雑誌で紹介されてしまったような、そんな気分になってしまう。煩わしい、と感じてしまう。
「……新曲なんてあなたには関係ないわ。せっかく声をかけてもらって悪いのだけれど、MK726という名前を私の前で出さないでもらえるかしら?」
強く睨みつけると、彼女は戸惑った声で言った。
「えっと、私はただ、清瀬さんと仲良くなりたいなって……MK726も勿論好きだけど、好きなボカロ曲とか、そういうのを通して仲良くなりたいなって──」
「私はあなたと仲良くなりたいなんて思っていないわ。今、そんな暇はないの」
「ちょっと、それは言いすぎでしょ」
後ろを向くと、高橋さんが立っていた。いつもは悪役のような面をしているくせに、嫌いな奴が悪役に回ればここぞとばかりに正義感を盾に叩こうとして。大袈裟にため息を吐き、高橋さんを睨みつける。
「は? なにその目。苛められてる子がいたから、助けてるだけじゃん」
「その割には、あなたが軽い気持ちで口走ってきた今までの下劣な言動については、自分事のくせに無関心みたいね。己を客観視した方が良いわよ? 今のあなた、自分で痛いと思わないのかしら? くだらない正義ごっこをいつまで続けるのかは知らないけれど、早く現実を見なさい。自分にとって都合の良い世界からは、早く卒業した方が身のためだから」
高橋さんは何かを察したように目を見開くと、「それって……」と言いかけて口を閉じる。悔しそうに歪む目つきに心底哀れと告げるようなため息を吐いて、私は高橋さんに背を向ける。これ以上話すことはない、と思っていたのだが、
「……大した曲作ってないくせに、よくそんなに言えるよね」
馬鹿にした声色に、思わずもう一度高橋さんの顔を見てしまった。もう無視をして通り過ぎれば良いものを、怒りに支配された頭が足の動きを止めてしまう。
「大した曲って何かしら。私達の曲は、私達にしか生み出せない価値があるわ。あなたに認めてもらわなくとも──」
「どうしたの? 他人のことなんてどうでも良いんでしょ? なのに他人からの評価は気にするんだぁ? ま、清瀬さんもただの人間だもんね。特別なんかじゃないんだから」
思うつぼ、とでも言いたげな高橋さんの態度が気に喰わない。だが、呑まれてはいけない。
「……そうね、私は特別な人間ではないわ。けれど、今の発言の矛先は私だけに向けられたものではないの。私と一緒に、曲を作ってくれている人がいるのよ。撤回してくれないかしら」
「一緒にって……最近は新曲出してないんでしょ? 喧嘩でもしたんじゃないの? それかその人も、あんたの音楽なんか嫌いになっちゃったんじゃない?」
瞬間、頭の中が真っ赤に染まった。私は足を1歩強く踏み出すと、高橋さんの手首を掴もうと勢いよく手を伸ばす。流石に驚いた高橋さんは半歩後ろに下がり、私の手は高橋さんを掴むギリギリのところで何とか止まった。自分が今何をしようとしていたのか、色が薄まってきた頭で考え、落ち着くために小さく息を吸って、吐く。
「もう良いわ、撤回なんて頼まない。その代わり、二度と私に関わらないでちょうだい」
それだけ絞り出すように言うと、私は今度こそ高橋さんに背を向けた。やり取りを眺めていた人達が、左右に分かれて私を避ける。怯えるような、面白がるような、明らかに私がおかしいと言いたげな視線が忌々しい。
自分達は間違っていないとでも言いたげに、私を異端者のように扱って。馬鹿みたい。あなた達はそうやって、周りと同じ方を向いて、風見鶏のように周りに振り回されていれば良い。
似たような色の視線を感じながら授業を受けた。言いたいことがあるなら言いに来れば良いのに、卑怯な人ばかりで苛立ちが止まない。
「……あのさ、お昼一緒にどう?」
クラスメイトは勿論のこと、廊下から5組の教室を覗く他クラスの人達までもが、遠巻きに私を見てひそひそ話をしている。そんな景色を見てあまりにも私を可哀想に思ったのか、昼休みに穂條さんがランチバックを持って一条さんと共にやって来た。
「私は1人で食べるから。変な気遣いは結構よ」
情けをかけるような表情と物言いに腹が立った。穂條さんと一条さんは顔を見合わせて肩をすくめている。せっかく誘ってあげたのにと呆れのような感情を抱いているのなら、無用な気遣い。寧ろお節介だ。
いっそ、独りになった方が楽なのかもしれない。穂條さんも一条さんも無視をして独りの世界に閉じこもってしまえば、本当に誰のことも気にならなくなるのではないか。奏のことも、MK726についても心配することなんてなくなる。全てを投げ出して自分だけを大切にできれば、こんな思いをしなくて済む。
私だけの世界に、浸ることができるのに。
昼休みが終わって、5時間目と6時間目も終わる。掃除の時間や帰りのHRが始まる間際、穂條さんと一条さんは私に色々と話しかけてくれたり、放課後どこか行かないかと誘ってくれたりもしたけど、私は会話にも誘いにも乗らず、さっさと2人に背を向けた。
学校が終わるとすぐ、雑音から逃げるように教室を去った。
早く帰って、曲を作ろう。私は学校になんか行っている暇はない。今、私は、何でも良いから曲を作らないといけないのだ。何も浮かばなくても、駄作しか生み出さなくても、取り敢えず曲を作らないと。音楽に触れていないと、私は私じゃなくなってしまう。私にとって音楽は何にも代えがたい生命線で、大切なものを繋ぐ糸。MK726のために、奏のために、私のために。
私は早く、曲を作らないといけないのに──。
「やっぱりクラスは美波ちゃんと一緒が良いなぁ」
地に落ちた緑の葉を青嵐が攫っていく。晴天の空に、薄い雲がたなびいた。陰る足元から目線を前に上げれば、華やかでありながら胸を穿つ声が、私の名を軽やかに呼んだ。
「あっ、美波ちゃん!」
「……奏」
あと少しで校門を、学校を出られるというときに、足がぴたりと縫い付けられたように動かなくなる。奏は、私を見て笑みを浮かべている。
「学校終わったなら、一緒に帰らない?」
「どうして、奏がここに?」
「清瀬さんに会いに来たんだって」
私の質問に答えたのは、奏ではなく穂條さんだった。穂條さんと一条さんが、何故か奏と一緒にいる。どうして、と顔に出てしまっていたのか、穂條さんが気まずそうに答えた。
「なんか、知らない制服の人がいたから気になって……。誰かの姉弟とか友達かなって思ったら、清瀬さんいますかって訊かれたから」
それで同じクラスだよと答え、私が来るまでの間、奏と世間話をしていたらしい。どのくらい話していたのか訊ねると、「10分くらい話してたんだ。他校の生徒が1人で友達待ってるのも気まずいだろうなって思って」と、一条さんが笑った。
「なんで、連絡してくれなかったの? 私が先に帰ってたらどうするつもりだったの?」
「でも清瀬さん、今日って日直だったよね? それで、まだ帰ってないんじゃないかって私が言ったんだ。待ってたらって提案したのも私だし、そんな責めた言い方しなくても」
またしても、私の質問に穂條さんが答える。穂條さんは苦い顔をする私に、穏やかを貼り付けたように言う。
「奏ちゃん、9月からここに通うんでしょ? どこのクラスかは解らないけど、良かったじゃん。転校って絶対緊張するし、不安だから。清瀬さん以外にも私とか沙希とか、頼ってくれて全然良いからね」
穂條さんの目配せに、一条さんも躊躇いがちに頷く。
「うん。……でも私、勉強は苦手だし人脈も全然だから、あんまり頼りにはならない、かも」
奏はそんな一条さんに「あははっ」と笑った。
「私だって勉強も運動も苦手だし、ここに来れば人間関係も1からスタートしなきゃだから一緒だよ! それに今までだって、勉強も音楽も全部、美波ちゃんに頼ってきたし!」
自信満々に語る奏の口から飛び出した単語に、穂條さんと一条さんの表情筋が強張る。しまった、とでも言いたげな様子だが、大体の予想はできるので私は小さくため息を吐いた。
「音楽って……奏、あなたもしかして、穂條さんと一条さんに私達の活動について話したの?」
奏は一点の曇りもない瞳で「うん!」と言った。
「MK726のこと、あんまり知らないみたいだったから。布教だよ布教! 私達の音楽、もっと沢山の人に知ってもらおうと思って! 穂條さんは先にチャンネル登録してくれてたから、一条さんにだけこの場で、私が見てる目の前で、登録してもらったの!」
「はぁ……あのね、無理に登録させてどうするのよ。一条さん、解除してくれて構わないから」
「あぁいや、無理にしたわけじゃなくて、普通に良い曲だなって思ったし……あはは」
「もうっ、どうして美波ちゃんはそう消極的なのかなー? 中学の時だって、友達から私達の活動について訊かれたら、暇なら聴いてってそれだけ言って、登録もいいねもどうでも良いみたいな顔してさ。ありえないよね?」
奏の言葉に、穂條さんと一条さんは互いに顔を見合わせた。何か余計なことが2人の口から飛び出る前に、私が口を開く。
「聴いてくれればそれで充分でしょう? 登録もいいねも個人の自由なんだから、強制するものじゃないわ」
「それはそうだけど、せっかくMK726に興味持ってくれてるのに、ありがとうばっかり返してさ! SNSで宣伝よろしくね、くらいお願いしても良いじゃん!」
「皆が凄い凄い言っていたのは、あなたの歌詞に対してよ。共感したとか心に刺さったとか、歌詞に向けての賞賛ばかりだったじゃない」
「えー何々、美波ちゃん、嫉妬してるの?」
「そんなわけないでしょう」
「え、歌詞って奏ちゃんが書いてたんだ」
穂條さんが意外そうな顔をする。奏は「そうだよ」と誇らしげに話を続けた。
「美波ちゃん、詩を書くセンスがないって言って、私に任せてきたの。でも私は詩を書くしかできないから、メロディーとか動画の編集とかアップとか、そういうのは全部美波ちゃんに任せてるの。あ、違うごめん間違えた。私は歌詞と、あとボーカルも担当してる!」
「え、そうなの? ごめん、わたし初音メグが歌ってるのしか聴いたことなくて」
苦笑する穂條さんに、奏は「……ううん、全然良いよ」と微かな声で言った。
「でも私、清瀬さんは詩を書くセンスあると思うよ」
一条さんが思い出したように言うと、穂條さんも「ああ」と小さく目を見開く。
「ほら、砂の詩。町田先生が褒めてた」
「砂?」
奏が首を傾げると同時に、潮が勢いよく満ちていくように私の記憶の蓋が開いた。
「ごめんなさい、何でもないの」
「恥ずかしがることないじゃん。私の詩だって一部の人には馬鹿にされたけど、私は自信持ってるし!」
穂條さんはへらりと笑うが、軽く睨みつけると黙った。だが、奏は興味を示した様子で問いかけてくる。
「砂っていう詩を書いたの? 美波ちゃんが? ねぇ、良かったら──」
「本当に、何でもないの」
「どうして? もしかしたら、今後の活動のヒントになるかも! 美波ちゃんが書いた歌詞で私も歌ってみたいし──」
「あなたには関係ないわっ」
本当に、触れられたくなくて。
触れさせるべきではなくて、思わず強い口調で、そう言ってしまう。
凍り付いたような温度が空気を満たす。一条さんは肩を震わせ、穂條さんは眉を顰め、奏は……奏の顔は、見ることができなかった。
感覚のない汗が伝う。
「そう、だね。私には……私、には、関係ない」
俯いた奏の唇から、擦れたような息が漏れる。息の狭間から聞こえた呟きが、私の鼓膜に、静かに残る。
「ごめん、帰るね。ごめん」
何か声を掛けなければと思うのに、急に声の出し方が解らなくなる。走る奏を呆然と見送り、落ち着きを取り戻した心臓にそっと手を当て、ギュッと握る。カッターシャツに皺ができ、爪が皮膚にまで食い込んだ。
「ちょっと、追いかけなくて良いの?」
穂條さんが怒気の滲んだ声で問うが、私は首を横に振る。
「無理よ。今追いかけたって、心からの謝罪はできそうにないわ。私だって、どう言えば良かったのか解らないの。困惑、してるのよ」
「謝罪したいって思ってるなら、言い過ぎた自覚はあるってことでしょ? 困惑してようがどうだろうが、追いかけた方が良いって。こういうのは先延ばしにすればするほど、謝りにくくなるんだから。奏ちゃん、バス乗って来てくれてたんだよ?」
「それは、あの子の勝手だわ。私を待ってたとか一緒に帰りたかったとか、そんなのこっちに転校してくればいくらでもできるでしょうに」
「碧天高校を見てみたかったってことも言ってた。せっかく外観だけでも見学に来てくれたのに、清瀬さんと同じ学校に通えるって嬉しそうに言ってたのに、可哀想じゃん」
「そんなの私は知らない。私はあの子がどこの学校に通おうが、どうでも良いんだからっ!」
今日1番の叫びだった。穂條さんの瞳には、明確に失望の色が滲んでいた。その瞳を見て、下がっていた溜飲が再びせり上がってくる。あなたには関係ない、と拒絶しそうになった時、
「友達、なんだよね?」
一条さんが、私の瞳を真っ直ぐに見てそう訊ねた。私の本音を知りたいと言うように、
「それとも、友達じゃない?」
と、一条さんは問うてくる。関係ないと、突き放してしまえば楽だったのに。
「……解らないわ」
縋るように、つい本音を口にしてしまった。




