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水色のワイシャツ、青のチェックスカート。黒のハイソックスに黒のローファー。新しい制服を着て、桜並木の道を歩く。軽風が腰まであるロングヘアを揺らし、視界を邪魔する。顔を顰めながら、乱れた髪を手櫛で整える。ふと空を見上げると、よく晴れた朝空が広がっていた。
「あの、穂條李珠さんですよね?」
野太い声に振り返ると、ぽっちゃりした中年男性が立っていた。ため息を吐き、
「違いますけど」
真顔、かつ毅然としたトーンで告げる。
「いや、でも——」
「違います。あと、写真撮りました?」
「あっ……」
撮っているところを目撃したわけではないが、男性の右手にあるスマホと、焦ったような反応で充分だった。
「気持ち悪いです。どういう用途で使用するのかは解りませんが、消してください。では」
一応注意はしておくがさして期待はせず、背を向けた。
「お、応援してます、ずっと!」
聞こえないふりをして、歩き出す。
「僕、ずっと李珠ちゃん推しだったから、あ、諦めないでください!」
推しだとか、諦めるなだとか。お前に私の何が解る。私の何を知っている。振り返り、そう罵声を浴びせたい衝動に駆られるも我慢する。
不愉快なピンク色の葉が、目の前をひらりと優雅に横切っていった。
買ったばかりの上履きは私の足に馴染もうとせず、くしゃりと踵の部分を踏む。
焦がれるような日差しが踊り場を照らし、鬱陶しさを感じながら速足で階段を上がる。
誰にも話しかけられず、視線だけを貰いながら1年生の教室がある4階に着く。私が在籍するクラス、5組の教室の後ろ戸を引くと、近くで談笑していた数人の男子が一斉に私を一瞥した後、会話に戻る。気にするのも、もう飽きた。
騒々しい集団の隙間を縫うように自分の席へ行き、机の上に鞄を置く。
「マジでキモい」
私に向けて言ったのかとドキリとしたが、右隣の席に座る高橋葵と、お仲間の間宮星愛と風浦羅菜が見ている方向は私ではなく教室後方、窓際の席だった。そこに集まっている数人の女子が、スマホから大音量ではないにしろまぁまぁな大きさで音楽を流している。初音メグの歌声から、ボーカロイドであることが判る。
「教室でボカロとかやばいよね。空気読めって感じ」
高橋さんが言うと、間宮さんと風浦さんも深く頷く。
「ね、せめて皆が知ってる曲にしろって思うよね」
「そもそも、音楽聴くならイヤホンしろって思うわ。迷惑とか考えないのかな」
その意見には私も賛成する。お昼の放送じゃないんだから。因みに、あなた達がトイレで、よくスマホから大音量でK-Popを流しながらTikTokを撮っているあれも迷惑。個室に入っていたときは出るタイミングを失うし、逆にトイレに入りたいときは入るタイミングを失って別の棟や下の階のトイレに行くことになる。ほんと迷惑。
「ねぇ李珠、李珠はなんか、好きな曲とかないの?」
私の心の声でも聞いたのか、高橋さんが私に会話のバトンを渡した。言葉を探す。高橋さんが何を求めているのか、思考を巡らせて、
「うーん、今は邦楽かなぁ。Waundyさんとか、麭津玄師さんとか」
牽制の意味を込めて言った。コミュニケーションに長けている人であれば、多少回りくどい言い方でも伝わるだろう。
だが人間には、ただ自分の言いたいことを言いたいタイミングで好きなように言うタイプが存在する。
「アイドルは? 聴かないの?」
このタイプを空気が読めない奴、KYと言う。どうやら高橋さんはこのタイプだったらしい。
「いや、全然聴くよ? ただ、最近は邦楽が多いかなってだけで」
嘘を吐いた。本当はアイドルソングなんか聴くつもりもない。
高橋さんは眉を下げ、口端を上げる。驚いたようで憐れむようで喜んでいるようなその表情は、馬鹿にしていると表現するに相応しいものだった。
「え、今でも聴けるんだ。めっちゃ意外。私だったら絶対無理」
えー何それどういう意味―? と訊ねてみたかったが、そんなことをすれば火花が散る。高校生になって早2週間、この教室における各生徒のポジションを把握した結果、面倒ごとを避けたければ、高橋さんにはあまり逆らわない方が良いと判断できるからだ。
私は笑みを貼り付けた。
「アイドルは全然好きだから」
「へー、じゃあBlooMeも好きなの?」
スカートに置いた手の指先がぐっと爪をたて、襞が寄った。
「……嫌いじゃないよ」
張り付けた笑みが、ぺらりと捲れそうになる。
「いやいや無理しなくて良いって。カラスタであんなこと言っといてさ。ほんとは嫌いなんでしょ?」
高橋さんは釣り堀で巨大な魚影を発見したような瞳を、私にぶつける。高橋さんはきっと、私の本音を聞きたがっているのだろう。大人気映画の制作秘話を聞きたがるように、面白いだろうからと、何でもないただの世間話を装って、私の逆鱗に触れないよう慎重に、私の味方であると同調するように、冗談っぽく聞き出そうとしている。そしてこの場合、もし私が嫌いじゃない、嫌いだよ、どちらを口にしても結果はあまり良いものにならないだろう。具体的な根拠はないが、絶対的な自信はあった。それに、私にとって高橋さんのペースに乗ることは、なんとなく癪だった。
「嫌いじゃないけど、好きでもないかな。普通?」
剝がれかけた笑みを瞬間接着剤で貼り付けて言うと、高橋さんの瞳にすうっと灰色の陰が広がる。面白くない、と顔に書いてあった。
「それに、カラスタのことは別に気にしてないよ? 私はあのオーディションすごく良い経験になったし、後悔もないの。だから高橋さん達も皆も、あんまり気にしないで?」
皆、というのは間の抜けた顔をしている間宮さんと風浦さんを指したが、声のボリュームを上げたことによって私に視線を送っていた周囲の皆さんにも伝わっただろう。
「ま、オーディションなんて普通に生きてたら経験しないしね。そう思うと羨ましいな」
間宮さんは本心かは量ることができない曖昧な笑みでそう言い、
「だね、穂條さんの問題だから、私らが気にしたってしょうがないし」
風浦さんは横目で高橋さんを気にしながら眉を下げてそう言った。
高橋さんはマイペースフェイスのまま、
「だね」
と一言、低い温度で呟くと、
「そういやさ、放課後コスメ見に行かない?」
唐突に風向きを変えた。話の区切りがついた、のではなく無理矢理つかせられたと表現した方が正しいのかもしれないが、一度終わった話題をほじくり返すほど私も野暮ではない。あからさまに私を輪から外した苛立ちと、高橋さんの余興の対象が逸れた安堵を感じながら、私は座り直し、頬杖を突く。教室の弛緩した空気に欠伸をかみ殺していると、「あっ」と誰かが発した黄色い声が、私の憂鬱な気分に好奇の色を一滴垂らした。
教室の前戸が、音もなく開かれた。
噂によると癖っ毛らしいがモデルのように綺麗なゆるふわウェーブ。真っ直ぐな茎のようなスタイルと枝のように長く細い手足。ノーメイクなので当然まつ毛は下がっているが、人工的でありながら自然な形をした末広二重が切れ長の目に凛とした印象を施し、涙袋があまり際立っていないにも関わらず見つめられると恋をしてしまいそうな目力がある。スッとした鼻筋と厚くも薄くもない桜色の唇。雪のように白い肌。背景に百合の花が咲いている、そんな錯覚が起きてしまうほどの美貌をもつ清瀬さんの、下の名前は美波という。名は体を表すとは彼女のことをいうのだろう。
ドラマのワンシーンのように映る清瀬さんに、多くの人が熱い視線を送っている。清瀬さんはそれらに一切目をくれず席に座ると、いつものようにヘッドフォンを装着し、自分の世界に入り込んでしまった。清瀬さんはこんな感じで、クラスでは一匹狼兼高嶺の花のような存在だ。人に興味はないと態度で示すように、近づき難い雰囲気を纏っている。
「あの、清瀬さん」
なので清瀬さんに声をかける人がいるとは珍しく、思わずそちらに顔を向けた。さっきまでボカロを流していた美井野佳依とその友達数人が、清瀬さんの机周辺に集まっている。清瀬さんはゆっくりとした動作でヘッドフォンを外すと、
「なに?」
と鬱陶しそうに訊ねる。そこには愛想のあの字もなかった。
「あの、この曲、清瀬さんが作ったってほんと?」
美井野さんは自分のスマホを清瀬さんに見せる。画面に何が映っているのかは判らないが、この曲ということは美井野さん達が聴いていたボカロ曲に関係しているのではないだろうか。清瀬さんは素っ気なく答える。
「そうだけれど、それが何?」
この場にいる全員が、一斉に同じ方を見た。ピカソの価値に初めて気が付いた人々のような、そんな視線だった。
「やっぱり! 清瀬さん、ボカロPだったんだ! 凄く良い曲だねって、今朝みんなで話してたの!」
ね、と美井野さんが周囲と興奮を共有しあう。
「なぁ、ボカロPってマジ? チャンネル名教えてくれない?」
近くの男子が質問を飛ばすと、美井野さんはスマホ画面を全員に見せつけるように掲げて、
「MK726っていうの」
さも自分のチャンネルであるかのように紹介した。私はスマホを出し、すぐにYouTubeでMK726と検索する。チャンネル登録者数は326人。なんだ、大したことないじゃないか。
「やめてくれないかしら」
肩がびくっと揺れた。私に言われたのかと思ったが、清瀬さんの透き通る声は美井野さんを指していた。美井野さんはきょとんとした顔で、「え?」と目を瞬く。清瀬さんは舌打ちでもしそうな勢いで席を立つと、
「あなた、私に話しかけるまでずっと、それを流していたわよね?」
それ、と言うのは言わずもがなMK726の曲だ。美井野さんは「う、うん」と言いながらスマホを掲げていた手を下ろした。清瀬さんがため息を吐くと、教室内がやけに静かになった。
「聴くのは構わないけれど、自分の部屋でもないのに結構な音量で流しているのはどういうこと? あなたイヤホンは持ってないの?」
「そ、それはごめんなさい……。良い曲だったから、皆に聴いてほしくて」
清瀬さんは何かを抑えるように沈痛な面を浮かべると、
「私の前で、MK726の曲を聴かないで」
そう、絞り出すような声で言った。HR開始5分前のチャイムが鳴る。清瀬さんは静かに座り直すと、今度こそヘッドフォンを装着する。美井野さんはスマホをギュッと両手で握りしめ、
「ごめんね、清瀬さん」
頭を下げ、友達と共に席へ戻っていく。止まっていた時計の針が動き出すようにHRの準備を始める皆は、清瀬さんを避けるように歩く。
「なにあれ、感じ悪」
そんな中、高橋さんは新たな余興の対象を見つけたのか、静かな笑みを浮かべていた。
「だねー、せっかく褒めてくれてたのに、あれはないわぁ」
「うん。もうちょっと言い方あったよね」
間宮さんと風浦さんも同意を示す。
「注目されたくないみたいなニュアンスで言ってたけどさ、誰もお前の曲に興味ないっつの」
せせら笑うような言葉が、私に言ったわけではないのに私の皮膚を撫で、虫唾が走る。じゃりっと砂の混じった泥を噛んだように、苦々しい味が胸の辺りに広がった。




