第六章 第二幕
***
フレイク杯の前夜。
厩舎の奥、柔らかな藁が敷き詰められた一室が、バラクアの寝床である。
「ねぇ、バラクア」
バラクアが眠りにつこうと足を収めた時、不意に入口から声がした。声の方へ振り向くと、そこにはパジャマ姿のルティカが立っていた。
「一緒に、寝てもいい?」
折りたたまれた薄い毛布を両手で持ち、はにかんだような笑顔をバラクアに向けるルティカ。そんなルティカに対し、バラクアは訝しげな目線を返す。
「何だ、突然」
「いいじゃない……、駄目?」
いつになく、しおらしい振る舞いを見せるルティカにバラクアは、
「好きにしたらいい」
と、素っ気なく言葉を放る。
了承を得て、ルティカはおずおずとバラクアに近付いて行った。そしてその大きな翼に背中を預け、持ってきた毛布と藁の中へ身体を埋める。
「毛布、藁だらけになるぞ?」
「大丈夫よ、明日華瑠に洗ってもらうから」
「……それは自分で洗ったらどうだ?」
「明日は大事な大事なフレイク杯なのよ? そんなことしてる暇は無いわよ」
ルティカは至極当然にそう言い切る。バラクアは少し呆れはしたものの、先程までの妙にしおらしい姿よりも、よっぽどルティカらしいと思い直し、特に返事をしなかった。
ルティカが寝心地のいい位置に落ち着くと、まるで更けていく夜に音が吸い込まれたのかと錯覚する程に、辺りはシンと静まり返った。
窓の外に見える星々の煌めきも、その隣に君臨する月も、今宵はゆるりと静寂を保ったままである。時折吹く風だけが、微かに自己主張をするように、カタカタ、とささやかに窓を打ち鳴らす。
バラクアは目蓋を閉じ、翼へと凭れかかる相棒の感触を感じながら、ここ最近の忙しない日々を思い返していた。
初日や二日目の内は、飛びたい飛びたいと、時折思い出した様に文句を零して居たルティカだったが、日が経つにつれ、そんな愚痴も徐々に納まっていった。
風の強さ、風向き、タイミング。
この五日間はただひたすらに、ルティカが感じたままの風の情報を、彼女の中にあるフィルターを無理に通す事をせずに、ただそのままバラクアに吐き出していくと言う作業を繰り返したのだ。
この練習方法は、ジラザが提示してくれたヒントを軸に、ルティカとバラクア、二人でよく考え、二人で結びつけた結論であった。
ルティカはバラクアへ、指示を出すのでは無く、ただ風の情報を伝えるのみ。
そしてバラクアは、その言葉を聞いた上で、自分の考えで翼を動かす。
今までの様に、ルティカが風の情報を得た上で、バラクアに対し、翼を立てろ、等の動きの指示をしていたのを、バラクア本人に一切の判断を委ねる、と言う手法に切り替えたのだ。
鴻鵠と鴻鵠士が、お互いに全幅の信頼を相手に対し持たなければ成り立たない作戦である。恐らく彼らには、本人すらも知り得ぬ心のどこかで、相手を信頼し切れずにいた部分があったのだろう。そのズレが、意思の疎通を阻み、二人のチームワークを乱す要因になった。
そう二人は結論づけた。
事実、この連携を取り始めてからは、八方向から次々と吹き出される風にも、次第に対応出来る様になり、この日の昼頃には、全くバランスを崩さないまでになった。
成果は確かにあった。だが、この練習法が本当に正しいのか、自分達は本当に正しい道を進んでいるのか、二人が確証を持つ事は出来なかった。
今はまだ、たまたままぐれで上手く行っている様に見えているだけなのかもしれない、と言う疑念が、頭を離れる事は無かった。
この練習法について、やはりジラザは何も言ってはくれない。ただいつものように、したり顔で、二人を見つめながらニヤニヤと笑っているだけである。
結局、自分達が考えた作戦を、そして、自分と一心同体の相棒を、無理にでも信じるより他に無かった。
バラクアは、日を追うごとに風読みの精度が上がって行くルティカに対し、内心では舌を巻いていた。そして何より、自分へ対するルティカの信頼感が、訓練を重ねるにつれて膨らんで行くように感じられていた。
ルティカの方も、それは同じである。
勿論それを表に出す事はせず、普段はいつものように、けなし合いにも近い口論ばかりだった。しかし確実に、二人の絆は固くなっている。
そう、感じられた。
だけれども……、
――これでレースに勝てるかと言ったら、それはまた別問題なのよね……。
ルティカの心の内には、いつもそんな言葉が巡っていた。
レースは水物だ。
ましてや、たった一つの判断ミスが順位に大きく影響する、紛れの多い競技、それがシャン=ルーゼンである。
無論、最初から負ける気でレースに挑む鴻鵠も鴻鵠士もいないだろう。それでもやはり、蓋を開けてみれば、勝つのはたったの一頭だけなのだ。
そしてバラクアも同じように、己の内側には、常に不安と疑念が緋色を伴い駆け巡っていた。
嘴の先を掠めていった、鮮やかな太陽の翼。華麗に、そして正確に、リングを潜り抜ける美しい緋色の翼。
決してルティカに言う事はしなかったが、バラクアは前回のレースを終えてからずっと、あの鮮やかさに魅了すらされていた。
相手は勿論、苦渋を舐めさせられたあのエラリアル杯において、涼しげな飛翔で優勝を掻っ攫っていった美しき鴻鵠、レベの事である。
――本当に俺達は、あのコンビに勝てるのだろうか……。
夜の闇は、時に不安を餌にして魔物へと成長する。心を食われてしまいそうになるのを、バラクアは固く目を閉じ、眠りの中へと逃げ込もうとした。
そんな時、
「ねぇバラクア、まだ起きてる?」
ふとルティカが声を掛けて来た。
「ああ、起きてるぞ」
「な~んかさ、明日がいよいよレースだって思うとさ、変に緊張しちゃうわね。本当のこと言うとさ、レース前に、緊張して眠れなくなるなんて、初めてなのよ……」
その言葉に、バラクアは心持ちがふと軽くなるのを感じた。自分だけでは無く、相棒も同じように、不安を抱えている事を知った……。
だが、だからと言ってそれを素直に表に出すわけにはいかない。
片方が沈んだ時は、もう片方が奮起させる。
それが、相棒ってものだ。
「へぇ、意外だな。お前にもそんな繊細な心があったとは、驚きだ」
「あー、ひっどい。ルティカちゃんはこう見えても、か弱いか弱い、ガラスのような繊細な心を持った、可愛い乙女ちゃんなんだからね」
「……お前それ、自分で言ってて恥ずかしく無いのか?」
「べっつに~。私は父さんに、女の子らしい鴻鵠士になるって約束したのよ。だからこういう、女の子女の子した気持ちも、忘れちゃいけないのよ」
「それなら、普段からそう言う心がけでいて欲しいもんだな。お前はレースの事となると、一瞬にして目が獣のようになるからな」
「それはバラクアが変な事を言うからでしょ!」
「俺は別に変な事を言っているつもりは無い。お前の悪い所を冷静に分析し、指摘してやってるだけだ」
「はいはい、優等生さんは、自分が何でも正しいと思ってるからうっざいのよね~」
そう呟いたルティカの頭に、瞬間、ベートの顔がちらりと浮かんだ。
「……ねぇ、バラクア」
「何だ?」
「明日、勝てるかな?」
一瞬言葉に詰まったバラクアだったが、自分が不安に思うのと、相棒が不安がっているのは、話が別だ。
「勝てるに決まってるだろ!」
そう、声高に宣言するバラクアの虚勢に呼応するように、
「……うん、そうよね。あの腐れボンボンを、ぶっつぶしてやるんだもんね!」
ルティカもそう宣言した。
一呼吸置いてから、ルティカは静かに続ける。
「それにしてもさ、バラクア聞いた? フレイク杯、エントリーがギリギリだったけど出られる事になってよかった~とか言ってたけど、本当は、フレイク杯へのエントリー、アレツさんの世界戦の前には、おっちゃんの奴、もうとっくに終わらせてたんだってね……」
「そうなのか?」
「うん、さっき、華瑠からこっそり聞いたのよ。確かによく考えたら、年度末の最後、ランクが上がるかどうかの瀬戸際のレースが、そんなギリギリまで募集かけてるなんて、ある訳無いわよね。だからおっちゃんは、私達がエラリアル杯で負けた時から、もしかしたら、こういう事になるって分かってたのかな?」
「ありえる話だな。本当に、オーナーの先見の明には、いつも驚かされてばかりだ」
「まったくよね。見た目はただのガタイのいい髭面のおっちゃんなのに、参っちゃうわよね……」
そうして二人で、ジラザの話を肴に暫し笑い合った。
一頻り笑った所で、
「ふ、わぁぁぁあぁぁ……」
ルティカが一つ、大あくびをした。
「よし、明日の為に、そろそろ休むか」
「そうね……。おやすみ、バラクア。明日はよろしくね」
「ああ」
「信じてるわよ」
「ああ」
「寧ろ愛してるわ」
「それは御免こうむる」
「御免こうむらないの! ……じゃあ、おやすみなさい」
そう言うや否や、ルティカは途端に火を消したように静かになった。
バラクアは、先程までの不安だった心が嘘のように、自身が穏やかな心持ちをしている事に気が付いた。
ルティカの方へと徐に首を回すと、話し疲れたのか、早々に寝息を立てている。
ずり落ちた毛布を嘴で引き上げて、ルティカの肩を覆ってやる。そして耳元に付いているネイバーをそっと咥えて外し、彼女の膝元に放り投げた。
穏やかな寝顔を暫し見つめた後、ちらりと窓の外に目線を移す。夜空の星に向かって明日の勝利を願った後、ゆっくりと、目蓋を閉じた。




