第76話 揺るがぬ牙
土煙の中、グロム・ザルガスはゆっくりと立ち上がっていた。
脇腹の鎧に小さな傷跡が走る。《風哭》の一撃が届いた証だ。
その傷を見たグロムは、短く笑った。
「いいぞ。久々に、血の通った戦いだ」
彼の目がわずかに変わった。それまでの冷静さとは違う、戦士としての高揚がそこに宿っていた。
セリスはその視線を感じ取り、思わず一歩後ずさる。
「……この人、嬉しがってる?」
「気をつけろ、セリス。あいつ、今まではまだ遊んでた」
俺は低く呟き、短剣を構え直した。
グロムが再び動き出す。
今度は突進ではなく、一歩一歩、地面を確かめるように前進してきた。
その足取りからも、彼が本気になり始めていることが伝わってくる。無駄のない動き、斧の持ち方、肩の力の抜き方——すべてが洗練された戦士のそれだった。
(あいつ、ただの怪力バカじゃない。……本能と経験が融合してる。これはまずいな)
「風を、断つ斧を——見せてやろう」
咆哮と共に、重斧が風を切る。次の瞬間、俺とセリスの前に巨大な斧の軌跡が閃いた。
「ルナ、援護!」
「うんっ!」
ルナが一気に加速し、グロムの死角に回り込む。短剣を構え、鎧の継ぎ目を狙って連続で斬りつける。
斬撃自体は浅くとも、彼女の動きはグロムの意識を散らすのに十分だった。
「いい動きだ、狐の子よ……!」
だが次の瞬間、グロムの肘が横薙ぎに振るわれた。ルナはすんでのところで身を引いたが、風圧で数メートル吹き飛ばされる。
「うわっ……!」
ルナは痛みに顔をしかめながらも、四つん這いになって立ち上がった。「まだ、終わってないもん……!」その姿に、俺は一瞬だけ心を揺らす。
「ルナ!」
俺はルナに駆け寄ろうとするが、グロムの斧が再び振り上げられた。
(……くそ、間合いが読みずらいし、明確な癖もない。動きの重さに対する隙も見せない。経験則だけで動いてるわけじゃないようだ。こいつは本能的に、正しい戦い方を選び続けてる)
セリスが再度前に出ようとしたとき——
「カイン!」
後方から声が響いた。エルンだった。
「動きを止めます——!」
彼女は杖を構え、深く息を吸い、詠唱を始めた。
「風の精霊よ! 我が魔力を代償に、その足を縛りつけよ——《ウィンド・バインド》!」
風の束がグロムの足元に巻きつき、一瞬その動きを封じた。
「っ!」
その隙を逃さず、俺は突っ込んだ。
気配を抑え、殺気を隠したまま、一瞬の踏み込み。
(殺気を感知して反応するのがグロムの特性。だからこそ、俺はそれを抑えて……)
短剣が放つ軌跡は、まるで空気を裂くかのようだった。
「はあっ!」
渾身の一突きが、グロムの脇腹の隙間を正確に捉えた。短剣がわずかに肉を裂き、確かな手応えが返ってくる。
だが、それでも刃は深くまでは届かず、致命傷には至らなかった。
「ぬう……!」
グロムの全身に力がみなぎり、風の束縛を引きちぎる。
「やるな、小僧……カイン、だったか」
その名を呼んだ瞬間、空気が変わった。
「面白い。お前、俺と同じ匂いがする」
(まさか、こいつ……殺気の質を嗅ぎ分けてるのか? 俺の本質まで見抜こうってのか?)
「……冗談だろ」
俺は引きながら返す。
グロムはにやりと笑う。
「殺すのは後だ。もっと……遊びたい」
「だったら、期待に応えてやるさ」
俺がそう応じたその時、グロムの魔力が増大していった。これまでとは段違いなくらいに」
(これが……本当の化け物か)
グロムが本気を出す——その予兆だった。
エルンは再び杖を握りしめる。
(支援の手は、まだ止めない。皆が踏ん張る限り、私も……!)
彼女の瞳が決意に燃えた。
次の瞬間、地響きとともに、グロムの気配が一段と膨れ上がった。
彼の背筋がわずかに反り返り、筋肉がさらに膨張していくのが見て取れる。斧を握る手には血管が浮かび、赤黒い魔力が皮膚の上を這うように流れていた。
その姿はまるで、理性の檻を打ち破り、純粋な破壊衝動を体現した獣。
周囲の空気が重く沈み、風さえも彼を避けるように逸れていく。
俺は無意識に唾を飲み込んだ。
(これが……本気を出したグロムの姿か)
新たな局面の始まりを、誰もが肌で感じ取っていた。
だが、その只中にいる俺の胸には、はっきりとしたざわつきが広がっていた。
理屈では理解できていても、心の奥で警鐘が鳴り止まない。
これは勝てるかどうかではなく、生き延びられるかどうかの戦いだと、直感が告げていた。




