第54話 封じられた墓標
ギルド本部の治療室には、清潔な麻布の匂いと、かすかに混じる血の気配が漂っていた。
ヴェルナーは無言のままベッドに横たわり、左腕を押さえている。ガルドは鎧を外し、左肩を包帯で固定され、ミリアは胸に巻かれた白い包帯を気怠そうに撫でていた。
「やれやれ……治癒魔法が効きにくいとはな。あの影の異形、ただの化け物じゃない」
ヴェルナーがそうつぶやいた。
「影の魔法の干渉……?」
俺が問いかけると、ヴェルナーは静かに頷いた。
「そうだ。あの影の力には、相手を侵蝕する性質があるようだ。傷口に浸食した影が治癒魔法と衝突する。例えるなら魔毒みたいなものか」
俺たちは言葉を失った。
ガルドとミリアは、これでもギルドの精鋭。彼らがここまで追い込まれたという事実が、ヴァルディスの魔術の恐ろしさを物語っていた。
一方その頃、セリスはギルド中庭のベンチで一人、剣をひざに置いて静かに座っていた。
俺もそっと隣に腰を下ろす。
「……疲れは?」
「少しだけ。けど、心はまだ前に進めます」
セリスの答えは短く、しかし芯の通ったものだった。盾と剣。シンプルでいて、彼女の覚悟を象徴する武器だ。
ふと、ルナがその場に現れた。ふさふさの尾を揺らしながら、俺の膝にちょこんと乗る。
「カイン……この前の、仮面の人……いる場所、たぶん、わかった」
「……感知できたのか?」
ルナはこくりと頷き、俺の荷物の上に置いてあった地図に小さな前足でとんとんと触れた。
「ここ……『テュールの墓標』って書いてある」
俺は地図をのぞき込む。スレイン丘陵から北へそう遠くない場所に、確かにその名が刻まれていた。
『テュールの墓標』——封鎖された古遺跡。かつて王家の魔導師たちが禁術の研究をしていたとされ、長らく出入りが禁じられていた場所だ。
その後、ルナの感知と地図の位置情報をもとに、俺たちは治療室のヴェルナーに報告を行った。
「……『テュールの墓標』だと?」
ヴェルナーの顔色が一変した。
「あそこは危険すぎる。魔術結界が解かれていない上に、王家の管理下にある。……とはいえ、仮面の男の気配があるとなれば、無視はできん」
彼はしばらく思案し、そして言った。
「討伐隊を組み、突入したいところだが……ガルドとミリア、そして俺自身も満足に動けん。今は戦力の補充が必要だ」
「補充はどこから?」
「レオンハルト殿下に連絡を入れる。あの方なら、王家の許可と軍を動かせる。だが……手続きにどれほど時間がかかるか、正直、分からん」
その言葉に、部屋の空気が沈んだ。
俺たちが、いまここにいても何もできないという現実——。
その時、俺は決断した。
「……なら、俺たちで行きます」
ヴェルナーが目を見開く。
「無理をするな、カイン。お前たちは囮作戦でも、十分に働いて——」
「わかっています。でも、だからこそです。セリスとエルンが、ずっと歯がゆそうな顔をしていた。俺だって、何もできずに待つのは嫌だ」
俺は二人の方を見る。セリスはしっかりと目を見返してきた。エルンもまた、迷いのない頷きを返してくれる。
「もちろん、許可が必要な場所なら、正規の手続きを踏みます。でも、行くと決めたら、準備はしておきたい。影の異形に対抗する力を——今のうちに、もっと強く」
ヴェルナーは深く考えるように押し黙ったままだった。
その夜、俺たちはギルドの演習場にいた。
月明かりに照らされた静かな空間に、俺とエルン、セリス、そしてルナが集まっている。ルナは俺の足元で静かに座り込み、耳をぴんと立てていた。
俺はふたりを正面に見据えて、口を開いた。
「……エルン、セリス。ちょっと、話がある」
ふたりの表情が引き締まる。俺は少し間を置いてから、続けた。
「スレイン丘陵での戦い、あの影の異形……あいつは、明らかにお前たちには攻撃してこなかった」
「……確かに」
セリスが小さく頷く。
「私に向かってくる気配は、ほとんど感じませんでした」
「ヴァルディスはおそらく、エルフを無傷で捕えたいんだ。俺たちは素材として価値があると思われている。それは裏を返せば——こちらが主導権を握るチャンスでもある」
エルンが、静かに息をのむ。
「じゃあ、私たちが本気で攻め込めば……?」
「そう。こちらから動けば、あいつらにとっては予想外の事態になる。だからこそ、今のうちに対抗手段を考えておきたいんだ」
俺は視線をふたりに向けたまま、続けた。
「異世界の知識をもとに、二人に新しい魔法を教えたいと思ってる。もっと強く、もっと決定的に、やつらを打ち倒せる魔法を」
セリスとエルンが顔を見合わせる。
「エルンには、破壊的な力を持つ光魔法の概念を教える……闇を焼き払う不可視の光、紫外線というんだ。それを魔法として組み込む。影を操るヴァルディスに対抗するにはこれが一番だと考える」
「紫外線……」
エルンはその響きを転がすように口にしてから、瞳をきらめかせた。
「なんだか……すごく強そう。それに、光の精霊ならきっと応えてくれる……」
「セリスには、風魔法を応用した技術を提案したい。戦士として前線に立つ君には、魔術師の詠唱を妨げる真空の力が有効だ。詠唱は声に依存することが多い。なら、それを封じてしまえばいい」
セリスの表情が変わる。わずかに口角が上がり、いつもの厳しさの中に、好奇心が見えた。
「……声を遮断する風、ですか。なるほど、それは……実に面白い」
ふたりの反応に、俺は少し安堵する。突飛な発想に驚かれるかと思ったが、むしろ前向きな姿勢を見せてくれた。
「賢者様って、やっぱりただ者じゃないんですね」
エルンが、少しだけ茶化すように笑った。
「本当に……まるで魔導師の導き手って感じです、カイン殿」
セリスも笑いながら、きちんとした言葉で賛意を示してくれた。
すると、その様子を見ていたルナが、ぽふんと俺の膝に乗ってきて、首をかしげながら尋ねてくる。
「ねぇ、カイン。ルナには、新しい魔法……おしえてくれないの?」
俺は一瞬、返答に迷ったが、すぐに笑って言った。
「ルナにも……何か考えてみるよ。ちゃんと、ルナに合うものを」
ルナは嬉しそうに耳をぴくぴくさせた。
月光の下で、俺たちは小さく拳を重ねた。
次に進む準備は、もうできている。
そしてまた一つ——世界は、ざわつきを増していた。




