エピローグ 勇者と魔王 日常に戻る
月曜の朝、勇者はいつもの作業着でオフィスへ入った。
仕事用の鞄と、温泉まんじゅうの入った紙袋を持っている。
自分の席まで行く前に、魔法使いが顔を上げた。
「おはようございます。不在中の報告、まとめてあります」
「ありがとう。これ、土産」
紙袋を差し出すと、魔法使いは中をのぞいた。
「ちゃんと草津へ行ってきたんですね」
「どこへ行ったと思ってたの?」
「途中で現場へ寄っていないかと」
「寄ってないよ」
勇者は鞄を机へ置いた。
金曜の朝には持たなかった重さが、いつもの場所へ収まる。
魔法使いはまんじゅうの箱を共用の卓へ置き、代わりに書類を持ってきた。勇者がPCを開くと、戦士と僧侶も席のそばへ集まる。
「人員配置は、こちらです」
戦士が一枚の表を広げた。
「応援は一個小隊にしました。もう一隊は帰還が遅れる予定だったので、先方と調整してます」
勇者は日付と部隊名を目で追った。
「装備は?」
「確認済みです。足りない分は先方で用意できると」
「うん。これなら大丈夫だな」
戦士の肩が、少しだけ上がった。
魔法使いがその横から、別の書類を重ねる。
「補給の変更はこちらで処理しました。確認していただきたいのは、来週分の配分です」
僧侶からは、勤務を調整した者と、引き続き様子を見る者の報告があった。
勇者は名前へ印をつけ、午後に一人と話す時間を決めた。
大きな問題は起きていなかった。
引き継ぎ書の余白には、三人がそれぞれ対応した日付と結果が書き込まれている。自分の知らない金曜が、そこではきちんと終わっていた。
勇者は最後のページを閉じた。
「助かった。ありがとう」
「次も休めそうですね」
僧侶が言った。
「次の予定は、まだないけど」
「予定がないうちに入れておくんです」
返事を考えていると、部下が資料を持って近づいてきた。
「すみません。こちらの確認をお願いできますか」
「どこまで進んだ?」
「比較までは終わりました。二案で迷っていて」
勇者は差し出された資料へ目を落とした。
二つの欄を見比べ、片方を指す。
「こっちの条件を一つ確認してから決めよう。先方の返事は来てる?」
「まだです」
「じゃあ、そこを聞いておいて」
部下が戻っていく。
入れ替わりに、会議室の方から声がした。
「朝の会議、始めます」
勇者は画面に開いたままの予定表を見た。
最初の枠が、もう始まる時刻になっていた。
「まんじゅう、皆で食べて」
そう言い残し、会議資料を持って立ち上がる。
自分の分を取るのは、あとにした。
*
魔王が会議室へ入ると、ドラゴンはすでに席についていた。
卓上へ置いた温泉まんじゅうの箱を見て、片方の眉が上がる。
「現地確認の成果か」
「土産だ」
「温泉はどうだった」
「よかった」
答えてから、魔王は資料を机へ置いた。
否定する理由も、もうなかった。
ドラゴンが笑い、箱の蓋を開けた。
「それは何よりだ。こっちも大きな問題はない」
現場の状況が順に報告される。
調整の済んだ拠点。返答を待っている加盟勢力。今週中に確認すべき人員の配置。
魔女は各部隊から上がった報告を揃え、未処理のものだけを魔王の手元へ寄せた。
「この二件は、先方の条件が変わっています」
「分かった。今日の調整会議に入れる」
魔王は該当する箇所へ書き込んだ。
死神が端末をこちらへ向ける。
「補給については、こちらです。金曜の変更分は反映してあります」
「再調整案への返答は?」
「本社から追加資料の依頼が来ています」
「提出済みの資料では足りないのか」
「様式が違うそうです」
魔王は画面を見た。
必要な数字は、すべて前の資料に載っていた。
入れる枠だけが違う。
ドラゴンがまんじゅうの包みを開いた。
「戻ってきた感じがするだろう」
「十分にな」
報告が終わる前に、入口で部下が二人待ち始めた。
一人は判断待ちの資料を持ち、もう一人は次の会議の接続先を確かめに来ている。
魔王は時計を見た。
まだ午前中だった。
*
その日の夕方、勇者が席へ戻ると、机の端にまんじゅうが一つ置いてあった。
包みの下に、小さな紙が挟んである。
『あなたの分です』
魔法使いの字だった。
勇者は椅子へ座り、包みを開いた。
甘い餡を飲み込む前に、端末が鳴る。
次の会議は、開始が十五分遅れるという。
勇者はその十五分で、朝から開けていなかった報告書を一つ読んだ。
翌日も、朝は会議から始まった。
廊下で部下に呼び止められ、昼前に別の会議へ入り、午後は進捗を確認する。夕方の打ち合わせが終わると、その結果を説明するための資料を直した。
窓の外が暗くなってから、ようやく自分の資料を開く。
時計を見て、勇者は一度だけ手を止めた。
――どうやるかは、考えてるんだよな。
旅館の座卓で、自分が言った言葉だった。
画面の上には、明日までに提出する資料の名前がある。
勇者は椅子へ座り直し、続きの一行を打った。
*
魔王の予定表も、日付だけが変わっていった。
朝の報告を上へ伝え、戻ってきた確認事項を現場へ返す。返事を待つ間に別の会議へ入り、出てくる頃には新しい返事が届いている。
ようやく最後の会議が終わると、机には朝から置いてある資料が残っていた。
温泉まんじゅうの空箱は、もう片づけられていた。
数日後の朝、魔王が会議用の資料を揃えていると、魔女が鞄を持って席の前へ来た。
「新潟へ出張に行ってきます」
魔王は顔を上げた。
「例の案件か」
「はい。現地で動きます」
魔女は端末へ予定を表示した。
移動と現地対応の時間が、隙間なく並んでいる。
「現地との連絡は?」
「済んでいます。先方の準備も確認しました」
「こっちの案件は」
「引き継いであります。確認先も一覧にして置きました」
魔王は予定を確かめ、端末を返した。
「分かった。変更があれば連絡してくれ」
「承知しました」
魔女は眼鏡を直し、鞄を持ち直した。
そのまま迷いなく出口へ向かう。
魔王は彼女を見送ってから、自分の資料へ目を戻した。
こちらには、朝の会議が待っていた。
*
勇者が昼前の会議を終えたところへ、魔法使いが入ってきた。
閉じかけていた資料を、勇者はもう一度机へ置いた。
彼女は端末を手にしている。
「新潟から報告です。魔女が奇襲に来ています」
「魔女?」
「以前、新潟へ来た相手です」
資料の端を揃えていた手が止まった。
草津の食卓が浮かんだ。
冷酒の入った杯と、何でもないことのように料理を食べていた魔王。
――俺と同じ職場にいるぞ。魔女として。
細身の眼鏡。
話す時に、少しだけ首を傾ける後輩。
「勇者?」
魔法使いに呼ばれ、顔を上げた。
彼女が端末を机へ置く。
現地から届いた報告を読み、勇者は現在の配置と対応状況を確かめた。魔法使いは隣で補足し、最後に午後の予定を開いた。
「現地対応の担当を、これから――」
「俺が迎撃に行く」
魔法使いの指が止まった。
「あなたがですか?」
「ああ。今回は俺が行く」
勇者は報告を自分の端末へ送り、開いていた会議資料を閉じた。
魔法使いはまだ、こちらを見ている。
「午後の会議は?」
「俺の報告分はまとめてある。先に共有する。調整が必要なところも、出る前に確認していく」
「……分かりました。現地へ伝えます」
魔法使いが端末へ入力する間に、勇者は立ち上がった。
仕事鞄を持ち、上着へ腕を通す。
会議室のガラスに映った自分が目に入った。
勇者は一度だけ、襟元を直した。
「ずいぶん決断が早いですね、今回は」
魔法使いが顔を上げる。
「奇襲だからな」
勇者は真顔で答え、会議室の扉を開けた。




