第一話 勇者から魔王へLINE
北の大地から南を目指す勇者軍と、南の果てから北へ勢力を広げる魔王軍。
二つの陣営は、列島の中央で長く拮抗していた。
勇者軍が新たな地へ旗を立てれば、魔王軍も別の地で勢力を伸ばす。どちらかが優位に立ったかと思えば、ほどなく均衡は押し戻された。
勇者は北から人々を率いていた。
魔王は南から魔族たちを率いていた。
人々は二人を宿敵と呼んだ。
互いの名を知らぬ者はいない。いつかどちらかが相手を討ち、長い争いに決着をつけるのだろうと、多くの者がそう信じていた。
その日の業務が片づいたのは、日付が変わる少し前だった。
勇者は人のまばらになったオフィスで、一人、椅子の背にもたれた。
机の上には確認済みの報告書が三つ。未確認が七つ。明日の会議資料が一つ。右端に置いた確認中資料には、赤字の修正が増えすぎて、もはや修正なのか作り直しなのか分からなくなっている。
オフィスにはまだ数人が残っている。
皆黙々とPCに向かい、淡々と作業を続けている。勇者だけが特別に遅いわけではない。
それが、いちばんよくない。
勇者は机の端に伏せていたスマートフォンを手に取った。
三十代も半ばになれば、長い間連絡を取っていない友人も増える。
半年ぶりならまだ近い。一年ぶりでも、まあ珍しくはない。
しかし、これから連絡しようとしている相手とは、十年以上まともに話していなかった。
連絡先の一覧を遡る。
大学時代の同級生。もう何の集まりで知り合ったのかは思い出せないグループ。その中に、妙に簡素な名前が残っている。
『魔王』
大学時代からそう登録していたわけではない。
彼が魔王になったと知った日に、勇者が面白半分で書き換えたのだ。
トーク画面を開く。
最後のやり取りは、大学を卒業しお互いが社会人になって数か月目で終わっていた。
『落ち着いたら、温泉でも行こうぜ』
『草津な』
『なんで草津指定なんだよ』
『有名だから』
『雑だな』
そこで会話は終わっている。
社会人になってしばらくしたら。
仕事を覚えて、生活が落ち着いて、有休を気軽に取れるようになったら。
当時は、それが二、三年後くらいに来るものだと思っていた。
勇者は入力欄を開いた。
『久しぶり。元気か。』
一度そう打って、消した。
元気なわけがない気がした。勇者軍と魔王軍が互いに勢力圏を競い合っている今、相手も自分と似たような立場なら、元気で暇にしているはずがない。
『お疲れ様。』
これも違う。
十年以上ぶりの友人に送るには、あまりにも仕事の連絡じみている。
結局、勇者は前置きを全部やめた。
『来週、空いてる?』
送信。
時刻は二十三時四十八分。まともな社会人へ送る時間ではない。
もっとも、この時間に返信が来るなら、相手もまともな働き方はしていないことになる。
既読は、十秒でついた。
しかし返事は来なかった。
勇者は画面を見つめた。
さすがに唐突すぎたか。
そもそも最後の連絡から十年以上だ。互いの近況は、本人からではなく組織の発表や報道で知っている。勇者と魔王。現在の二人を並べれば、旧友より先に競合組織の現場責任者という関係が出てくる。
三分後、短い返信が届いた。
『……久しぶり』
勇者は少しだけ笑った。
『久しぶり』
今さら挨拶を返すと、またしばらく表示が止まった。
『来週、空いてる?』
『何日』
勇者は日付を打った。
来週末の、平日を含む三日間。半年前から休暇予定表へ仮入力し、忙しくなるたび何度も後ろへずらしてきた日程だった。
『何で?』
『草津』
今度はすぐに返事が来た。
『まだ覚えてたのか』
『お前も覚えてるじゃん』
入力中を示す表示が出て、消える。もう一度出て、また消えた。
勇者はその間に、未確認の報告書へ目を落とした。
行けるだろうか。
休暇の三日前に問題が起きるかもしれない。前日には上層部から追加指示が来るかもしれない。当日の朝、部下から判断を求められる可能性だってある。
考え始めれば、休めない理由はいくらでも出てくる。
だから十年以上、行かなかったのだ。
スマートフォンが震えた。
『調整する』
『休めんの?』
『出張にする』
『旅行だろ』
『関東方面の現場確認だ』
勇者は吹き出した。
オフィスに、自分の笑い声が静かに響く。
『それ通るの?』
『通す』
学生の頃から、こういうところは変わっていない。
無茶を言っているようで、最後には本当に形にする。たぶん今回も、旅程のどこかへ実際の現場確認を組み込み、誰にも嘘とは言わせない申請書を作るのだろう。
『じゃ、長野原草津口駅で』
『了解』
『あと俺は有休だから、仕事の話振られても知らんぞ』
少し間があった。
『お前も休めるならな』
勇者は返事を打たず、机の上を見た。
未確認の報告書が七つ。会議資料が一つ。赤字だらけの引き継ぎ候補一覧。
まずは、この机から三日分の仕事をどかさなければならない。
勇者と魔王は大学時代の同級生だった。
卒業後、勇者は人類側組織へ、魔王は魔族側組織へ就職した。二人とも最初から今の肩書を持っていたわけではない。
勇者は一人の現場要員として剣を振るい、判断を覚え、小さな部隊を任された。危機が起きれば対応し、上層部の無茶な要求を現場で実行できる形へ組み直し、部下をなるべく欠けさせずに成果を積み重ねた。
その結果、通常より早く役職を上げられ、気づけば広い地域と複数の部隊を預かる『勇者』になっていた。
魔王も同じだった。
彼は各地の魔族勢力をまとめ、地方ごとに異なる事情を調整し、本社の要求と現場の都合をどうにか両立させ続けた。その手腕を買われ、三十代半ばで『魔王』へ抜擢された。
二人とも、出世した。
そして二人とも、組織の狭間から動けなくなった。
大学卒業から十年以上。
かつての約束を果たすには、友人へLINEを一通送るだけでは足りない。
勇者には有給申請が、魔王には出張申請が必要だった。




