オーギュストの依頼
時系列的には、パトロン大戦争の頃くらいです
ある日。画家アルバートは「作品を持ち込む芸術家」ではなくーーオーギュスト本人に静かに呼び出された
場所は屋敷の1室。調度品のひとつひとつに格が宿り、空気さえも軽々しく喋るのを許さないような、ヴァルモン家の静謐が満ちている
アルバートが緊張しながら椅子に腰を下ろすと、オーギュストは机の上に1枚の写真を置いた
古い紙の匂いがする。角は丸く、丁寧に保管されてきたことがわかる。それだけで、オーギュストにとってどれほど大切な物かが伝わった
アルバートが写真に目を落とした瞬間、背筋がぞくりと震えた
そこに写っていたのは、美しい吸血鬼たちの家族だった
父と母。気品と柔らかさを併せ持つ2人の顔は、写真の中で穏やかに微笑んでいる
幼いオーギュストは父の隣で凛と立ち、母の腕には赤子のエレオノールが抱かれていた
赤子は小さな手を握りしめ、今にも泣き出しそうな、けれど宝物みたいに守られている表情をしている
絵ではなく写真だというのに、息を飲むほど“完成された美”がそこにあった
その美しさが、逆に怖い
美しすぎる家族写真は、幸福の証であると同時に、喪失の深さを突きつけてくるからだ
アルバートは思わず顔を上げた
オーギュストは、いつも通りに整った表情のままーー目の奥に底知れない深い影を抱えていた
「それを元に絵を描いてくれ」
低い声が室内に落ちる
命令ではない。けれど断れない重さがある。ヴァルモン家の長としての威厳が、言葉の端々に滲んでいる
そして、威厳の下には、誰にも見せない悲しみが沈んでいた
「母上と父上の、生きた証を残したいのだ」
アルバートは胸が詰まった
画家として、依頼主の願いを形にすることは仕事だ。だがこれは“仕事”の顔をした祈りだ
残したいのは肖像ではない。喪失に飲み込まれないための、灯火のようなものーー
「……承りました」
それだけ答えると、アルバートは写真を丁寧に受け取った
指先が震えないように、呼吸を整えながら
そして心の中で誓う。これは、上手く描くだけでは足りない。彼らが“そこにいた”と、誰もが信じられるようにしなければならない、と
制作の日々は、重く、そして静かだった
アルバートは何度も写真を見返し、目元の陰影、口角の上がり方、家族の距離感ーー細部を拾い上げていく
父の手は、幼いオーギュストの肩にわずかに置かれている。その角度は「誇り」と「守護」を同時に語る
母は赤子を抱きながらも背筋が伸びている。慈愛だけではない。吸血鬼の貴族としての矜持がそこにある
幼いオーギュストの視線は、まだ幼いながら真っ直ぐだ
そして、赤子のエレオノールは小さすぎて、表情の記憶が今に繋がっていない存在。その“曖昧さ”こそが、あとで涙になるのだろうと、アルバートは直感していた
絵具を重ねるたびに、写真の中の家族が少しずつ“帰ってくる”
それが嬉しいのに怖い。戻らないものを戻す行為に、画家はどこまで踏み込んでいいのか
けれど、アルバートは筆を止めなかった
止めたら、この祈りだけが宙ぶらりんになってしまう
そして、完成の日
ドローイングルームに、新しい絵が運び込まれた
柔らかな光が差し込む部屋の壁に、深い色調の額縁が掛けられる
絵布の前には、オーギュスト、エレオノール、紫苑、そしてアルバートが揃っていた
アルバートが布を外すと、空気が変わった
そこに“ヴァルモン家”がいた
父と母は、写真の再現ではなくーー生きている者のように存在していた
2人の視線は穏やかなのに、家族の背後には揺るがない強さがある
幼いオーギュストは、今の彼へと繋がる芯の硬さを持ち、赤子のエレオノールは、抱かれる幸福そのものとして描かれていた
しばらく誰も言葉を発せなかった
絵の前で言葉を出すことが、礼を欠くように思えたからだ
最初に口を開いたのはオーギュストだった
声は震えていない。けれど、その静けさが、逆に胸を締め付ける
「素晴らしい……父上と母上が、ここにおられる」
その言葉が落ちた途端、エレオノールが小さく息を呑んだ
彼女は絵に近づき、まるで確かめるように父母の顔を見る
次の瞬間、唇が震えーー涙がこぼれた
「うぅ……」
紫苑が驚いて彼女の名を呼ぶ
「エレオノール!?」
彼女は慌てて袖で涙を拭こうとし、けれど拭い切れずに、声を絞り出した
「わ、わたくし……お母様とお父様の記憶が曖昧なの。だから……会えて嬉しいわ……」
吸血鬼として永く生きることは、記憶を永遠に持ち続けることではない
時間が長いほど、幼い日の輪郭は霞む。忘れたくないほど大切なものほど、触れるのが怖くて、心の奥にしまい込んでしまう
エレオノールは、まさにそれだったのだろう。愛しているのに、記憶がぼやけてしまう苦しさ。思い出せない罪悪感
そして、今ここでーー絵として“会えた”幸福
紫苑は彼女の肩を抱き、静かに頷いた
「そうか……よかった」
それ以上は言わない。言えば壊れてしまう気がしたから
ただ、彼女の涙を受け止めることだけが必要だと悟っていた
アルバートは、画家としての達成感とは別の感情に胸を満たされていた
――描いたのは肖像画だ。けれど、今この部屋で起きているのは“再会”だった
オーギュストは絵を見つめたまま、低く告げた
「この絵は、私が買う。我が家のドローイングルームに飾る」
それは当然の決定であり、同時に宣言でもあった
父母の不在を嘆くだけで終わらせない。彼らが確かに生きた証を、家の中心に置く
この屋敷の“心臓”として
アルバートは深く頭を下げた
「……ありがとうございます」
その言葉の中には、報酬への礼だけではない
彼らの祈りに、自分の手を差し出せたことへの礼が混じっていた
絵は、壁に掛けられた
柔らかな光の下で、父と母が微笑んでいる
幼いオーギュストがそこに立ち、赤子のエレオノールが抱かれている
時は戻らない
けれど、証は残る
その夜、ドローイングルームには確かにーー失われた家族の温度が、ほんの少しだけ戻ってきたのだった




