エレオノールの歌声
エレオノールには、誇れる特技が3つあった
お菓子作り、刺繍、そしてーー歌
どれも「超絶技巧で圧倒する天才」ではない。職人が嫉妬するほどの「積み重ねた技術」でねじ伏せるタイプでもない
けれど彼女の手が触れると、甘い香りも、糸の光も、旋律も、どこか“心に響くもの”に変わる
その理由を説明するのは難しい。ただひとつ確かなのは、エレオノールの声がーー小夜鳴鳥のように美しいということだった
ある夜のことだった
屋敷の一室で、紫苑はソファに横たわっていた
頭の下には、エレオノールの膝
柔らかな布越しに伝わる体温と、ほのかな甘い匂い。夜更けの灯りは控えめで、時間さえも音を立てずに流れている
エレオノールは、紫苑の髪をそっと撫でながら、小さく呟いた
「寝ていますわ……疲れてるのでしょうか…?」
――実は寝ていない
紫苑は目を閉じたまま、呼吸だけを整え、“眠っているふり”をしていた
理由は簡単だった。起きていると、彼女が照れて歌わない気がしたから
それに、膝枕をされながら「起きてるよ」と言うのは、あまりにも情けない。男のプライドが邪魔をする。……いや、そもそも紫苑のプライドはエレオノールの前ではよく迷子になる
エレオノールはそのまま、紫苑の額にかかる髪を整えた
「いつもお疲れ様です」
その声が、ひどく優しい
紫苑は胸の奥で、少しだけ息が詰まった。
“疲れた”と言ったことはない。泣き言を漏らした覚えもない
それでも彼女は、紫苑の疲れを見抜いて、言葉を置く
まるで、ずっと昔からそうしてきたみたいに
そしてエレオノールは、歌い始めた
楽器もない。派手な技巧もない
ただ、柔らかな旋律が、夜に溶けていく
高音は透き通って、低音は温かい。声は真っ直ぐで、変に飾られない
その素直さが、胸のいちばん奥へすとんと落ちる
紫苑は、呼吸の仕方を忘れそうになった
どこがすごいのかと問われたら、説明できない
音域がどうとか、ビブラートがどうとか、そんな話ではない
ただ歌を聴くと、「大丈夫」と言われている気がする
泣いてもいい、弱くてもいい、ここにいていいーーそういう許しを、旋律が運んでくる
(……これ、危ないな)
紫苑の中に、ひとつの理解が生まれた
それは嫉妬でも警戒でもなく、もっと静かで、もっと痛い理解だった
――なぜ、オーギュストがエレオノールを必死に鳥籠に隠したのか
顔の美しさ
無垢な性格
そして、この歌声
外に出せば、必ず狙われる
“欲しい”と思う人間はいる
そして、欲しいと思った瞬間に、相手を人としてではなく「価値」として扱い始める人間もいる
美しさを飾りにし、無垢を都合のいい器にし、歌声を金に換える
彼女が拒めない性格だと知れば、なおさら
優しさを利用し、傷つけ、搾取する――そんな手合いから守るには、確かに“隠す”という手段が1番早い
やり方は過激だ
鳥籠は檻だ。自由を奪う
けれど、もし外の世界が猛獣だらけなら、檻は盾にもなる
紫苑は、オーギュストのことを思い浮かべた
冷たいようで、徹底的に守る兄
言葉は少ないが、命を賭ける覚悟だけは揺るがない男
(……良き兄ではあるんだよな。やり方は本当に過激だけど)
紫苑は、胸の奥が少し苦くなるのを感じた
自分は“救い出した側”のつもりだった
けれど、救い出した先にも危険はある
鳥籠の外は自由であると同時に、あまりにも無防備な場所でもある
エレオノールの歌声は続く
膝の上の紫苑の頭を、彼女の指がゆっくり撫でる
その手つきが、歌と同じくらい優しい
紫苑は思った
この声を、誰にも汚されたくない
この人の“善意”を、誰にも換金されたくない
この温度を、奪われたくない
そして同時に、決めた
鳥籠に戻すのではない
鳥籠を壊したまま、守る
外の世界の理不尽から、彼女の歌を、笑みを、心を守る
今度は自分が、その役目を引き受ける
紫苑は歌声に身を沈め、心の奥の警戒を静かに解いた
エレオノールは、最後の音を丁寧に落とす
「……いい夢を」
紫苑の唇が、わずかに緩む
彼の胸の中には、歌の余韻と一緒に、ひとつの確信が残っていた
――この小夜鳴鳥は、ただ美しいだけじゃない
心を救ってしまう声を持っている
だからこそ、守らなければならない
夜は静かに更けていく
鳥籠の外で、けれど確かに守られている場所で
小夜鳴鳥の歌に包まれながら、紫苑は深く、穏やかな眠りへ落ちていった




