第8話 新たな生活
杉からは離れたものの、何とも言えない気まずい空気が流れた。
「……あの、なんか、ごめんなさい。紛らわしかったです」
「杉の話だというのはちゃんと分かっています」
「いや」
「大丈夫です。最初から分かっています」
絶対に嘘だ。
「……はい」
これ以上、余計なことを言うのは危険だ。そっとしておこう。
千代さんはすっと背筋を伸ばした。
「では、山﨑殿」
「……?」
山﨑殿? 普段は信之殿なのに……。
「屋敷へご案内します」
声だけは立派な姫様に戻っていた。
顔はまだ真っ赤だったが……。
「参りますよ」
千代さんはくるりと背を向けた。
そして歩き出す。
速い。
「ちょっと待ってください!」
「急ぎますので」
「何を……!?」
返事はない。
俺は慌てて後を追った。
◇
屋敷に戻ると、源右衛門さんがいた。
「遅かったですな」
「少し寄り道をしていました」
千代さんが何事もなかったように答える。
「夫婦杉を見てました」
「信之殿!」
すごい勢いでにらまれた……。
「え?」
しまった、杉と言うべきだった……。夫婦杉はしばらく封印だ!
源右衛門さんが俺と千代さんを交互に見る。
「……左様か」
それ以上、源右衛門さんは何も聞かなかった。
「では、信之殿。こちらへ」
源右衛門さんに案内され、屋敷の中を歩く。
「こちらの屋敷は、潮﨑家がこの辺りのことを取り仕切るために置いておる。そして、その役目を姫様が任されておるのじゃ」
潮﨑家……。
「じゃあ、千代さんの苗字って、潮﨑ってこと? そういえば今まで聞けてなかった……」
「そうじゃ。姫様は潮﨑家の御息女じゃ」
なるほど、潮﨑家の姫様だったのか。
「潮﨑家って、この前、俺を調べに来てた廊之坊潮﨑の人とは違うの?」
「同じ潮﨑を名乗ってはおるが、別の家だ。もっとも、戦の時などは互いに手を結んではおるがな」
「じゃあ、千代さんは普段ここに住んでるんですか?」
「そうです」
「一人で?」
「まさか」
千代さんが笑った。
当然ながら、屋敷には他にも仕える人がいるらしい。
そして源右衛門さんも、普段はここにいることが多いという。
「源右衛門さんって、ずっと千代さんについてるんですね」
「姫様がお生まれになる前から、この家に仕えておる」
「そんなに長いんですか」
「そうじゃ」
源右衛門さんがどこか誇らしげに答えた。
「こちらです」
廊下を通り、千代さんが部屋の前で止まった。
「信之殿には、ここを使っていただきます」
中を見る。
特別広いわけでも、豪華なわけでもない。
でも、きちんと片づけられた部屋だった。
「好きに使ってくれて結構です」
「……ありがとうございます」
部屋の中へ入る。
荷物を置こうとして気づいた。
そもそも、置くほどの荷物を持ってない。
「…………」
着ているもの以外、ほとんど何もない。
当たり前だけど、スマホも財布もない。
テレビもネットもプレステも……。
「何か足りないものがあれば言ってください」
現代では足りないものばかりだけど、この時代で自分の部屋を用意してもらえるなんて、ありがたいことだ。
「今のところ大丈夫です」
そう答えてから、改めて部屋を見る。
俺の部屋。
何もないけど、この時代に来て初めて、自分の場所ができた……。
◇
夕食は、千代さんと源右衛門さんと一緒だった。
御飯に汁物、焼き魚、茄子の煮物、それに漬物……。
宿で食べていたものより、少し品数が多い。
味付けは現代と少し違うけど、普通においしい。
特に、漬物は少ししょっぱくて、御飯が進む。
「焼き魚も、おいしいですね」
「珍しく浜から良い魚が入ったので……。それに、今日は信之殿が来ましたから」
「ありがとうございます」
しばらく食べているうちに、昼間のことを思い出した。
「そういえば、千代さんって昔からこの辺をよく歩いてたんですか?」
「え?」
「この辺の、道とか川とか、すごく詳しかったから」
千代さんが答えるより早く、源右衛門さんが口を開いた。
「昔からですな、姫様?」
「源右衛門!?」
千代さんがすぐに反応した。
「姫様は幼い頃より、たいそうなお転婆ぶりでな」
「ですから、源右衛門……」
「乳母の目を盗んでは、屋敷の屋根や木に登るわ、馬に乗ろうとするわ……」
「ちょっと待ちなさい、源右衛門」
もう源右衛門さんは聞いていない。
「川へ入って着物を濡らして帰ってきたこともあったのう」
「あの時は、姫様の姿が見えぬと屋敷中で大騒ぎになったんじゃが……」
「その話はしなくていいです!」
源右衛門さんは、どこか楽しそうだった。
「結局、村の子らと一緒に沢で蟹を捕っておられた」
「…………」
千代さんが黙った。
「……蟹ですか?」
「信之殿まで……、蟹は気にしなくていいです」
「少し目を離せば、山へ、川へ、仕舞いには隣の村にまでも行ってしまわれる……」
「初めのうちは乳母がお供をしておったんじゃが、じきについて行けなくなってな」
「それで、源右衛門さんが?」
「そうじゃ。誰が止めても聞かぬ故、とうとう儂が供をすることになった」
「源右衛門さんなら、護衛もできるし、お供になれば安心ですもんね」
「いや……」
源右衛門さんが、少し遠い目をした。
「……儂でも、ついて行けんかった……」
「……源右衛門さんも大変だったんですね」
「信之殿!?」
千代さんが呆れたように俺を見る。
源右衛門さんが笑った。
俺もつられて笑った。
「別に遊び回っていただけではありません」
「何をしてたんですか?」
「村の様子を見て回っていたんです……」
「…………」
この前、沢と田んぼの様子を見に行ったのとあまり変わっていない気がする。
「…………」
千代さんを見る。
「何ですか?」
「いえ」
千代さん、子供の頃からこんな感じだったのか。
「姫様は昔から、ご自分の目で見ねば気が済まぬお方でな……」
源右衛門さんの声が少しだけ柔らかくなった。
「おかげで、今ではこの辺りのことなら誰よりもよくご存じじゃ」
「源右衛門、もうそのくらいで十分です」
「姫様、まだ半分も話しておりませぬが……」
「半分!?」
千代さんが源右衛門さんをにらむ。
源右衛門さんは気にせず、満足そうにお茶を飲んだ……。
なんとなく分かった。
源右衛門さんは、小さい頃から見てきた千代さんが可愛くて仕方ないんだ。
そして、この家に仕えることを誇りにしている……武士、なんだ。
◇
食事を終えて、自分の部屋へ戻った。
今日与えられたばかりの、
自分の部屋……。
横になる。
見慣れない天井だ……。
この時代に来た時も、同じように宿の天井を見ていた。
あの時は、自分がどこにいるのかも分からなかった。
今は少しだけ分かる。
ここは那智。
今は永禄四年……。
結局、この時代に来て数週間経つが、帰れる様子はなさそうだ。
最初のうちは、もしかしたら明日、目を覚ませば元の時代に戻っているかも……と、毎晩期待していた。
でも、最近は、そんなこともあまり考えなくなってきた。
帰りたい気持ちは、今もあるけど、
明日もここにいるのだろうと思うのが自然になってきている……。
実際、俺は今、千代さんの屋敷にいて、明日になれば作兵衛さんの傷を見に行くつもりになっている。
認めたくはないけど、そろそろ、この時代で生きていく方法を、ちゃんと考えないといけないのかもしれない。
そう考えて、目を閉じた。
◇
夜中に目が覚めた。
「…………」
外から秋の虫の鳴き声が聞こえる。
どのくらい経ったのか分からないが、まだ夜中だというのは分かる。
障子の向こうに、月の光がさしている。
「…………」
ふと、今日のことを思い出した。
自分の手を見る。
今日、そこに千代さんの指が重なっていた。
「…………」
真っ赤になった千代さんの顔……。
いや。
ただ杉を測っただけだ。
それだけだ……。
「…………」
そもそも、千代さんは潮﨑家の姫様だ……。
……寝よう。
明日も、ここで目を覚ますんだから。




