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第5話 噂の始まり

 翌朝。


 俺は、目が覚めるとすぐに作兵衛さんのところへ向かった。


 姫のおかげで安心して宿には泊まれたが、



 実はほとんど眠れてない……。



 熱が出ていたらどうしよう。


 傷が腫れていたら。


 昨日より痛みが強くなっていたら。


 そんなことばかり考えていた。


「作兵衛さん、おはようございます」


「……薬師殿」


 返事があった。


 それだけで、少し安心する。


「気分はどうです?」


「昨日よりは、ましじゃ」


「熱っぽくないですか?」


「どうじゃろうな。熱いような気はせんが」


 額に触れる。


 少なくとも、触って分かるような発熱はない。


 傷を見る。


 改めて見ても、やっぱりひどい傷だ。


 怖い。


 できれば見たくない。


 でも。


 昨日とは少し違った。


 怖いから目を逸らす、よりも。


 傷がどうなっているか……。


 そっちの方が気になった。



 できるだけ普通の顔をして、傷を見る……。



「指、動かしてみてください」


 作兵衛さんがゆっくり指を動かす。


「痛いですか?」


「痛え」


「ですよね……」



 今のところ、ほとんど腫れはなく、化膿している様子もない。



 悪い方向には向かっていない……。

 


「薬師殿」


「はい?」


「そんな顔をされると、不安になるんじゃが」


 普通の顔のつもりだったのに……。


 どうやら、全部出てしまってたらしい。


 作兵衛さんには申し訳ないけど、これだけはどうしようもない……。



「ごめんなさい。俺、傷とか見るのすごく怖いから……それは仕方ないです」


「でも、大丈夫ですよ。今のところ、熱も出ていないようですし……」





「……」



 後ろから、小さな笑い声がした。


「やはり、信之殿は正直ですね」


「……聞いてたんですか」


「先ほどから」


 昨日の姫だった。


「そういえば」


「はい?」


 また、めんどくさいことを言われる前に聞いておこう。


「まだ名前、聞いてませんでした」


 姫が一瞬きょとんとした。


 それから、少し笑った。


「では、当ててみてください」


「分かるわけないでしょ」


「『ち』で始まります」


「だから、分かるわけないでしょ」


「二文字です。もうわかりました?」


「小出しにしないで、普通に教えてください」



 先手を打っても無駄だ。なんてめんどくさい姫なんだ……。



「千代です」


「……千代?」


「はい」


 千代姫……。


 ようやく名前が分かった。


「山﨑信之です」


 名乗られて、つい反射的に返してしまった。


「それは昨日聞きました」


「……ですよね」


 また笑われた……。



「……で、俺はなんて呼べばいいんですか?」


「私を、ですか?」


「はい。姫……なんですよね?」


「あなたのいたところでは、こういう時は何と呼ぶのです?」


「普通なら……千代さん、ですかね」


「では、それで構いません」



 !?姫だぞ、良いのか?



 ……まあ、いいか。本人が言ってるし。





「腕、切らんでもよさそうか?」


「うわっ!?」


 突然、源右衛門さんが現れた。


 昨日と同じく無茶苦茶怖い。


 作兵衛さんも一瞬で顔が引きつった……。


 でも、今日は少しだけ機嫌がよさそうに見える。


「源右衛門、驚かせてはいけません」


 千代さんが笑いながら言う。


「申し訳ありません。姫様、作兵衛の様子が気になりましたので」


「今のところは、大丈夫みたいです。源右衛門さんも見てください」


 源右衛門さんが、昨日と同じように傷をじっと見る。


 しばらく沈黙が続いた。


「うむ……よいな」


 よかった。少しほっとした。


「では、また傷を洗います」


「千代さん、冷ま……」


「昨日と同じものなら、もう用意してます」


 早っ!


 頼む前から、用意してくれていた。


 千代さん、普段はめんどくさいけど、こういうときは頼りになる!



「あと、書くものってあります?」


「何に使うんですか?」


「作兵衛さんの状態を記録します。熱がないかとか、傷が腫れてないか、膿が出てないかとかを。後からでもわかるように記録しておきたいんです」


「なるほど」


「忘れないためのメモだから、ちゃんとした紙とかじゃなくてもいいです」


 この時代の紙は、おそらく貴重品だろう。


「それなら、懐紙でよいですか?」


 千代さんが、懐からさっと一枚取り出した。


「ありがとう……。助かります」


 紙、普通に持ってるのね……。



 早速、日付と確認する項目を書いていく。


 発熱、腫れ、膿、痛み、指の動き……


 異常がなければ〇を付ける。


「千代さん、お願いできますか?」


「はい?」


「今書いた項目を、俺が一つずつ確認するので、問題なければ、その場所に〇を書いてほしいんです」


「丸、ですか?」


「はい。問題なし、大丈夫って意味です」


「では、問題のある時はどうしますか?」


「×か△、あと、必要ならその時の症状を詳しく書いておきます」


「×と△の違いは?」


「…………」


 めんどくさ……


 ……くはないか。これは俺の間違いだ。


 むしろ△を説明する方がややこしい……。


「…………」


「△は取り消します」


 千代さんが首を傾げた。




「じゃあ、始めますね。さっき確認したことを書いていきましょう」



「熱は……なさそうだったので。ここは〇で」


「はい」


 千代さんが、俺の書いた項目の横に丸を付ける。


「次は腫れ……昨日よりひどくはなってない。ここも〇でいいです」


 また一つ、丸が増えた。


「膿も……今のところは出てないですね。〇で」


「はい」


 千代さんがサラリサラリと丸を付けていく。


「痛みは、昨日よりましと作兵衛さんが言ってたので、〇じゃなくて、『昨日より痛みが少ない』って書いておきましょう」


「良くなってるのに、丸ではないのですか?」


「痛みがないわけじゃないですからね」


「なるほど」


「最後に、指は動かせたので〇」


 紙の上に、大小の丸が並んだ……。


 

「これを朝と夕方に続けます。変わったことがあったら、その時に書き足しましょう」


「分かりました」


 千代さんが紙を見ながら頷いた。



 これなら、昨日のことを思い出しながら比べるよりは分かりやすい。


 薬もない。検査もできない。


 でも、今あるものでできることはある。


 昨日よりは、少しだけそう思えるようになっていた。



   ◇



 その日の夕方。


 作兵衛さんの経過は、順調だった。


 千代さんと記録を終えたあと、俺は少し迷ってから声をかけた。


「千代さん」


「はい?」


「あの……少し、話しておきたいことがあるんですけど」


 千代さんが俺を見る。


「昨日、後でゆっくり聞こう、と言ってた……俺がどこから来たのかって話です」


「……」


 今まで、まともに答えていなかった。


 というより、答えられなかった。


 正直に話したところで、信じてもらえるような話じゃない。


 俺だって、まだ全部信じられていない。


 でも。


 このまま何も言わずに、ここにいるわけにもいかない。


 宿まで用意してもらった。


 作兵衛さんのことでも、ずっと手を貸してもらっている。


 少なくとも、千代さんには話しておかないと……。



「たぶん、信じてもらえないと思います」


「聞いてから決めます」


「……そうですよね」


 何から話せばいいんだろう。


 俺は少し考えた。


「俺がいたところは、ここからものすごく遠い……というわけではないんです」


「遠くない?」


「はい。たぶん、この辺りです」


 千代さんが首を傾げた。


「では、なぜ帰れないのです?」


「それが……」


 やっぱり、そこから説明しないと駄目か。


「はっきりとは分からないけど、俺がいたのは、この場所の……四百年くらい先だと思うんです」


「…………」


 千代さんが黙った。


「四百年……先?」


「はい」


「先、というのは?」


「未来……これから先の時代です」


「…………」


 当然の反応だと思う。


 俺だって、そんなことを言われたら困る。


「俺は、四百年くらい先のこの辺りから来た……みたいなんです」


「みたい?」


「どうしてここに来たのか、そもそも、この世界が俺のいた時代につながってるのかも……分からないんです」


「では、戻る方法は?」


「それも分かりません」


「…………」


 千代さんは何も言わなかった。


 ただ、さっきより少し真剣な顔で俺を見ていた。


「永禄四年、というのも、俺のいた時代では四百年以上前の歴史に残っている年号なんです」


「……歴史?」


「はい。俺にとってはたぶん、今ここで起きていることは……ずっと昔のことなんです」


「では、この先に何が起きるのかも知っているのですか?」


「全部じゃないです。記録に残っていて、俺が覚えていることだけです」


「では、それを教えてもらうことは?」


「……それは、できません」


「なぜです?」


「俺が話したことで、この先の歴史が変わってしまうかもしれないからです」


「…………」


「歴史が変わったら、俺がいた時代に戻れなくなるかもしれない。それどころか……俺自身が生まれなかったことになるかもしれない」


「でも」


 千代さんが少し考えてから言った。


「信之殿は今、私に四百年先から来たと話しています」


「……はい」


「それは、この先を変えることにはならないのですか?」


「…………」


 言われてみれば、その通りだ。


「分かりませんが、その可能性はあります」


「では、なぜ私には話したのです?」


「他の者……たとえば、源右衛門には話せないのですか?」


「…………」


 少し考えた。


「昨日から、千代さんにはいろいろ助けてもらいました。それなのに、自分のことを黙っているのが嫌だったからです。源右衛門さんには、千代さんが必要だと思うなら、それは仕方ないと思います」


「作兵衛さんのことも……」


「未来が変わるかもしれないからって、目の前で助けられそうな人を放っておくことは、俺にはできません」


「…………」


 沈黙が続いた。


「信之殿の話が本当なのかは、私には分かりません」


「……はい」


「四百年先から来たと言われても、確かめることもできません」


「そうですよね……」


「でも」


 千代さんが俺を見る。


「信之殿が、私を騙そうとしているようにも見えません」


「…………」


「分からないことは、分からないと言いますし」


 作兵衛さんの方へ、少しだけ目を向けた。


「確かに、昨日からあなたは、今言ったとおりのことをしていますね」


「……はい」


「だから、あなたが何者なのかは、まだ分かりません」


 千代さんは少し笑った。


「でも、信之殿がどんな人なのかは、少し分かってきました」




   ◇




 次の日の昼。



「御医者が参られたぞ!」


 その声を聞いた瞬間。


「来たっ!」


 思わず立ち上がった。


 待っていた。


 本当に待っていた。


 これでようやく、専門家に診てもらえる。


 俺は薬剤師だ。


 医者じゃない。


 傷の処置だって、今回が初めてだ。


 これでやっと引き継げる!!


 作兵衛さんのところへ向かうと、すでに何人かが集まっていた。


 その中央に、見知らぬ男がいる。


 医者らしい。


 服装を見ても俺には分からないが、周囲の態度が明らかに違う。


 男は作兵衛さんの横に座った。


 脈を取る。


 額に触れる。


 傷を見る。


「指を動かせ」


 作兵衛さんが動かす。


「痛むか」


「はい」


「ふむ」


 ちゃんと診ている。


 当たり前なのかもしれない。


 でも、その様子を見ているだけで、俺は安心した。


 男が傷をもう一度見た。


「……よく保っておる」


 俺は息を吐いた。


 よかった。


 少なくとも、悪い状態ではなさそうだ。


「誰が手当てをした」


 千代さんが俺を見た。


「この者です」


 全員が俺を見る。


 医者も俺を見た。


「薬師か」


「薬剤師です」


「やくざいし?」


「薬師です」


 千代さんが勝手に訂正する……。


「傷に何をした」


「洗いました」


「洗った?」


「はい。沸かした湯を冷まして、できるだけ汚れを取って、きれいな布を使って……」


「ふむ……」


 医者はもう一度、作兵衛さんの腕を見た。


「そのような手当ては知らぬ」


「……はい」


「だが」


 医者が傷を見る。


「今のところ、悪くはない」


「…………」


 肩から力が抜けた。


 正しかったのかは分からない。


 これからどうなるのかも分からない。


 でも。


 少なくとも、あの処置は間違ってなかったようだ……。


「ありがとうございます」


 俺は頭を下げた。


 これで、あとはこの人に任せられる。


 もう安心だ!



「……?」


 医者が懐からおもむろに何かを取り出した。


 紙だった。


 筆を取る。


 何かを書く。


 俺は黙って見ていた。


 処方のようなものだろうか。


 薬の名前を書くのかもしれない。


 この時代の医者がどんな薬を使うのか。


 少し興味が出てきた。


 医者は書き終えた紙を持ち上げた。


 目を閉じた。


「…………」


 何かを唱え始めた。


「…………?」


 聞き取れない。


 俺は千代さんを見る。


 普通の顔をしている。


 源右衛門さんを見る。


 やっぱり、普通の顔をしている。


 俺だけが分かっていないらしい。


「…………」


「…………………」


「………………………………」


 何を唱えているのか分からないが、段々空気が張り詰めてくるのは分かった。


「…………」


「ダァァァァァァァァァァ―――――――ッ!!!!!!」


「……!?」


 何が起きたんだ?



 医者は唱え終えると、その紙を作兵衛さんの枕元に置いた。


「これでよい」


「…………」


 立ち上がった。


「え?」


「何じゃ」


「いや……」


 俺は札を見る。


 医者を見る。


 もう一度、札を見る。


「あの……治療は?」


「今、したではないか」


「…………」


 今のが治療だったのか……。


 俺は二日間。


 本職の医者が来るのを待っていた。


 そして、ようやく来た。


 傷を診てくれた。


 今のところ悪くないとも言ってくれた。


 治療もこれで終わってしまった……。


「…………」


 結局。


 明日からも俺が診ることになった。




   ◇



 それから数日。


 幸い、傷は大きく悪化しなかった。


 熱も出ない。


 腫れもひどくならない。


 千代さんがつける〇も、きれいに整ってきていた。


 もちろん、作兵衛さんの顔色も少しずつよくなっていった。


 俺はようやく、ほんの少しだけ息をつけるようになった。


 ただ。


 別の問題が起きていた。


「薬師殿!」


「……はい?」


 知らない男に声をかけられた。


「作兵衛の腕を救ったそうですな!」


「いや、まだ救ったかどうかは」


「源右衛門様が落とすしかないと言った腕を残したとか!」


「それは作兵衛さん本人が決めたことで」


「医者も認めたそうではないですか!」


「認めたというか……」


 悪くはない、と言っただけだ。


 その後、謎の札を置いて帰った。


 肝心のそこには、なぜ誰も話題にしない。


「さすが姫様がお連れになった薬師じゃ」


 何か違う話になってる……。


「俺は、千代さ……じゃなくて、姫に連れてこられたわけじゃないですよ」


「そうなのですか?」


 近くにいた千代さんに聞く。


「連れてきましたよ」


「ええ!?」


「倒れていたので、連れて帰ったのです」


「否定してください、そこを勘違いされてるんですよ?」


「もちろん、分かってますよ」


 千代さんが笑った。


 周りも笑った。


 俺だけ笑えない。


 何かがおかしい。


 作兵衛さんが少し良くなった。


 それは嬉しい。


 本当に嬉しい。



 でも、俺はまだちゃんと気づいてなかった。


 薬師の噂が広がり始めていることを。


 そしてそれが、ある人物の耳に入ってしまうことを……。


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