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第4話 薬のない薬剤師

「残せば、後で腐る」


 源右衛門は淡々と言った。


「こういう傷で死んだ者を、儂は何人も見ておる」


「ちょっと待ってください」


 思わず口を挟んだ。


「腕を切るってことですか?」


 源右衛門が俺を見る。


「ほかに、どういう意味がある」


「いや、そうですけど!」


 頭が追いつかない。


 これが戦国時代……。怖すぎる……。



「でも、ちょっと待ってください、まだ切る必要があると決まったわけじゃないでしょ」


「ならば」


 源右衛門の目が鋭くなる。


「残しても腐らぬと、お前は言いきれるのか?」


「…………」


「腕を落とすのも命懸けじゃ。酷なことなのも分かっておる。儂とて、できることならしたくはない」


 源右衛門は言った。


「だが、この傷を残すよりはましだ」



 土の入った深い傷……。



 抗菌薬はない。


 まともな消毒薬すら、この時代にはないだろう。


 土で汚染された傷だ。


 感染が起こる可能性はかなり高い。


 そうなればおそらく、腕だけでなく、身体ももたないだろう。



「……言えません」


「ならば、儂の言うことも分かるな」


「…………」


 分かる。


 分かってしまう。


 だからこそ、何も言えなくなった。


 源右衛門は、何も知らないわけじゃない。


 感染なんて言葉は知らないかもしれない。


 その先に行きつく、敗血症なんて言葉も……。


 でも。


 こういう傷を負った人間が、その後どうなることがあるのか。


 この人は何度も見ている。


 俺なんかより、ずっと知っている。




 頭が真っ白になった。



 病院なら……。


 考えたところでどうしようもないが……。


 専門の医者がいる。


 きれいな水道水がある。


 無菌の生理食塩水で深い傷も洗える。


 検査ができる。


 感染予防に抗菌薬が使える。


 必要なら手術だってできる。


 最悪、敗血症になっても、抗菌薬で回復できる可能性もある。


 何かあっても、その次がある。


 でも。


 ここには。


「…………」


 何もない。


 薬も、設備も。


 その次に任せられる誰かも。



 俺はずっと、自分が医療を知っているつもりだった。


 違う。


 俺が知っていたのは。


 病院という大きな仕組みの中にある、ほんの一部分だけだった。


 ……薬がないと。


 ……俺、何もできないじゃん。





「薬師殿……」


 宿の中から、作兵衛さんの声が聞こえた。


「…………」


 俺を呼んでいる。


 逃げたい、という気持ちはどうしようもないが。


 俺の中では、逃げる、という選択肢はなくなっていた。


「……戻りましょうか」


 源右衛門を見る。


「でも、今すぐ腕を落とすのは待ってください」


「何をする」


「分かりません」


 源右衛門の眉がわずかに動いた。


「分からぬだと?」


「助けられるとも、腕を残せるとも言えません。でも、今できることが、まだあるかもしれません」


「…………」


「今から考えます」


 源右衛門はしばらく俺を見ていた。


 やっぱり怖い。


 それでも、目を逸らさなかった。



「……好きにしろ」



 それだけ言って、源右衛門は宿へ戻っていった。


 姫が俺を見る。


「何か案があるのですか?」


「…………」


 今、必死に考えてる。


「…………」


 思いつかない。


「…………」


 無理だ。


「薬もないのに、やっぱり無理ですよ」



「そうは見えませんが?」



「え?」


「あなたは先ほど、傷の処置などしたことがないと言っていました」


「……はい」


「ですが、作兵衛の血を止めました」


「それは……」


「源右衛門の話も、私には分からないことまで分かっているようでした」


「…………」


「それなのに、先ほどから、ないものの話ばかりしています」


 姫は少し首を傾げた。


「でも、あなたは、私たちの知らないことを知っているのでしょう?」


「…………」


「なら、今あるものでできることを考えればよいのでは?」


 ……そうか!



 頭の中で、何かが切り替わった。




「姫……さん、ありがとう。うまくいくかどうかわかりませんが、やってみます」



 姫と俺も宿へ戻った。



 源右衛門がいた。


「どうする?」


「一つだけ、試してみたいことがあります」


「土や汚れを取り除くために、傷をできるだけきれいに洗います」


 源右衛門の口元が少し上がった。


「ほう、それで?」


「傷が腐るのは、汚れが原因だからです。目に見える汚れだけじゃなく、見えないくらい小さな汚れも含めて」


「洗えば腐らぬのか?」


「……分かりません。でも、危険を減らすことはできるはずです」


「それでも腐ったら?」


「……その可能性はあります。そうなれば、腕だけじゃなく、命まで危なくなるかもしれません」



「だから儂は、今落とせと言っておる」


「腕を落とすのも命懸けですよね?」


「そうじゃ」


「……」


 今、腕を落とすか。


 腕を落とす危険を避けて、傷を治すことに賭けるか。


 ただし、感染が起これば。


 そのときには、もう手遅れになっているかもしれない。


 どちらにも、命を失う危険がある……。




 作兵衛さんは、さっきと同じ場所に横たわっていた。


 腕を失うのも。


 そのまま残すのも。


 危険を背負うのは、俺たちじゃない、作兵衛さん自身だ。



「これは、俺たちで決めていい問題じゃないです」


 源右衛門が俺を見る。


「何じゃ?」


「腕の持ち主は、作兵衛さんなんだから」


「…………」


 作兵衛さんが俺を見る。


「薬師殿……」


「……腕、切るのか?」


「俺たちでは決められません」


「…………」


「源右衛門さんの言うように、今、腕を落とす方法があります。それにも命の危険があります」


 作兵衛さんの顔が強張る。


「もう一つ。腕を残して、傷をできるだけきれいに洗って、治るのを待つ方法があります」


「腕を……残せるのか?」


「分かりません」


 期待させるような嘘は、つけなかった。


「傷が腐らないとは言えません。もし腐れば、そのせいで命を落とすかもしれない」


「…………」


「どっちが絶対に正しいかは、分かりません。作兵衛さんが納得できる方を選んでください」


 作兵衛さんは黙って自分の腕を見る。


「源右衛門様は……どう思われます?」


「儂なら落とす」


 源右衛門は迷わなかった。


「こういう傷で死んだ者を、儂は何人も見ておる。それは変わらん」


「…………」



 作兵衛さんが今度は俺を見る。


「薬師殿は?」



「俺は、残せる可能性があるなら試してみたいです」


 一度、息を吸う。


「でも、助かるとは約束できません」


「…………」


「だから、作兵衛さんに決めてほしいんです」



 しばらく、誰も口を開かなかった。


 作兵衛さんは自分の腕を見ている。


 やがて。


「……残したい」


 小さな声だった。


「残せるかもしれねえなら……残したい」


「…………」


 源右衛門が作兵衛さんを見る。


「腕を残すのだな」


「……はい」



 源右衛門はしばらく黙っていた。


「……分かった」


 それから俺を見る。


「やってみろ」


「……はい」


 怖い。


 何とかなるなんて、全然思えない。


 それでも。


 やることは決まった。


 俺は周囲を見回した。


「お湯、沸かせますか?」


「湯?」


「なるべくたくさん。蓋をしたまましっかり沸かして、蓋は取らずに冷ましたのを持って来てください。それと、新しい布か、なければなるべくきれいな布も」


 周囲の人が俺を見る。


「早く!」


 自分でも驚くくらい大きな声が出た。


「は、はい!」


 何人かが駆けていく。


「湯が冷めるまでに使うのに、飲めるくらいのきれいな水もお願いします。それと、もう少し明るくできますか」


「分かりました」


 姫もすぐに動いた。


 俺は作兵衛さんの横に座る。


 

「作兵衛さん」


 まぶたが動いた。


「……おう」


「これから傷をきれいに洗います。しみると思うけど、大丈夫だから頑張りましょう」


 今、俺にできるのは作兵衛さんの傷をきれいにすることだ。


 まだ血や傷は怖い。


 でも、今は、それより作兵衛さんの傷の方が気になった。



 それから、どれくらい時間が経ったのか分からなかった。


 水。


 布。


 冷ました湯。


 次々と頼んだ材料が用意された。



 俺は、今あるもので、できる範囲のことをした。


 完璧なんて無理だ。


 そもそも、専門でもないし、処置の経験もない。


 ただ、今できること……。


 今より少しでも危険を減らす。


 できる限り、傷をきれいに洗う。


 それだけを考えて、処置を終えた。


「作兵衛さん、終わりましたよ。よく頑張りましたね。今日はもう大丈夫だから、ゆっくり休んでくださいね」


 そう言ってから、俺は外に出た。

 


 やっと、終わった。


 自分で言うのもなんだが、俺も頑張った。


 あまりの疲労で、ぼーっとしていると。


 

「終わったか?」


 源右衛門が声をかけてきた。


「……はい。今できることは」


「これで助かるのか」


「分かりません」


 それしか答えられなかった。


「明日かもしれない。明後日かもしれない。熱が出たり、傷の周りが腫れたり、色が変わったり……そういう症状が出ないか見ていかないと」


「あと、傷もきれいになるまでは、今日のように朝夕2回洗います。」


「では、お前も見るのだな」


「え?」



 そうだった。



 処置を終えれば、それで終わりだと思っていた。


 違う、これで終わりじゃない。


 本当に大変なのはここからだ。


 誰かに引き継ぐわけにもいかない。


 作兵衛さんは俺が診ないといけない。



 だが、そう決心したところで、ある意味それより大変なことを思い出した……。



 俺、この世界に家、無いんだった!



「俺、今日はどこに泊まればいいんだ……」


 思わず呟いてしまった。



「それでは、しばらくここに泊まれるようにしておきましょう」


 姫が言った。


「……いいんですか?」


「作兵衛を診るのでしょう?」


「あ……はい」


「なら、ここにいた方がよいでしょう。宿の主人に伝えておきます」


「ありがとうございます」


 危うく野宿になるかと思ったけど、助かった。




 姫ってやっぱりすごい!


 ……名前は知らないけど。



          ◇


 夜。


 見慣れない天井を見ながら、俺は眠れずにいた。


 作兵衛さんは、この先どうなるかは分からない。


 傷が悪くなるかもしれない。


 熱が出るかもしれない。


 俺が今日したことが正しかったのかさえ、確信はない。


 それは明日から見ていくしかない。



 でも、一つだけ、他に大きな心配があった。


 俺は今日、


 この時代の人間の命に関わってしまった。


「…………」


 作兵衛さん。


 俺の知っている歴史に、その名前はない。


 当然だ。


 教科書や歴史書に載るような人ではない。


 だからといって。


 歴史に関係がないとは限らない。


 もし。


 本当なら今日、死ぬ人だったとしたら。


 俺が助けたことで、生き延びたとしたら。


 この先、誰かと出会うかもしれない。


 子どもが生まれるかもしれない。


 その子どもが、また誰かと出会うかもしれない。


 逆に出会うはずだった人と人が出会わなくなるかもしれない……。


 何十年。


 何百年。


 四百年。


 その影響は広がる可能性がある。


 急に背筋が寒くなった。


「俺……何やってんだ」


 未来が変わる。


 そんなの、映画や小説の話だと思っていた。


 過去へ行って歴史を変える。


 未来が消える。


 違う未来になる。


 実際にそんなことが起きるのか、俺には分からない。


 そもそも。


 本当にここが過去なのか。


 俺が本当に四百年以上前の那智にいるのか。


 それさえ、まだ完全には信じられない。


 夢かもしれない。


 幻覚かもしれない。


 何か別の説明があるのかもしれない。


 でも。


 もし、本当に過去なら。


 俺が何かするたびに。


 俺の知っている未来が変わっていく可能性がある。


 ばあちゃんは?


 家は?


 家族は?


 俺の知っている人たちは?


 そもそも。


 ……俺自身は?


「…………」


 帰れるのかどうかも分からない。


 帰る方法なんて、見当もつかない。


 でも。


 帰れる可能性がゼロだと決まったわけじゃない。


 もし帰れたとして。


 そこが、俺の知っている場所じゃなくなっていたら。


「……怖いな」


 初めて、はっきりそう思った。


 この時代に来てしまったことより。


 自分が何かを変えてしまうことが……。



 でも、今、この宿に泊めてもらっているように、この時代で誰にも干渉せずに生きていくのも無理だ。



 だったら。


 決めておくしかない。




 未来の出来事は、人に話さない。


 未来の知識を、必要もないのに広めない。


 歴史を変えることを目的に行動しない。




 完全に守るのは無理なのは分かってる。


 でも、自分がこの時代で生きていられる範囲で、できるだけ。


 この時代に余計な影響を与えない。


 頭の中で、一つずつ並べる。


 我ながら、ずいぶん都合のいい決まりだ。



「……もう作兵衛さんに関わっちゃったし」


 最初から破っているようなものだった。


 でも。


 もう一度、同じ場面に戻ったとして。


 血を流している作兵衛さんを見て。


 俺は何もしないでいられるだろうか。


 しばらく考えた。


 いや、考えるまでもなかった。


「無理だな……」


 目の前で人が死にそうになっている。


 自分に何かできるかもしれない。


 それを分かっていて。


 何もしない。


 俺には無理だ。


 だったら。


 そこは、例外にするしかない。





 未来のことは話さない。


 未来の知識を、むやみに広めない。


 歴史を変えようとしない。


 でも、目の前の命は、見捨てない。




「……矛盾してるな」


 天井を見上げる。


 答えはない。


 たぶん。


 それでも今の俺には。


 これくらいしか決められなかった。


 俺は再び横になった。


 見慣れない天井。


 四百年以上前の那智。


 これ以上考えても仕方ない。



 少なくとも、俺は今日、一人の人間の命に関わった。



 それが何を意味するのか。


 このときの俺には。


 まだ分からなかった。


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