第2話 知らない天井、知らない娘
近くで鳥の声がした。
それから、何かが燃える匂い。
パチ、パチ、と小さく爆ぜる音も聞こえる。
「…………」
ゆっくり目を開けた。
建物の中だというのは、なんとなく分かるが、やけに暗い。
天井が見えた。
見たことのない、知らない天井だった。
「……どこだ、ここ」
声は出た。
頭が少し重い。
身体もだるい。
だが、動けないほどではない。
最後の記憶をたどる。
墓参りから帰った。
暑かった。
水を飲もうとして立ち上がった。
それから――。
「倒れた……?」
ということは病院だろうか。
いや。
それにしてはおかしい。
天井に見えるのは、どう見てもむき出しの木材だ。
黒く煤けている。
照明もない、薄暗い部屋……。
火災にでも遭ったのかと思ったが、プラスチックが燃えるような刺激臭ではなく、薪が燃えたような、どこか懐かしい煙の匂いだ。
俺は身体を起こした。
「う……」
軽く目眩がする。
手をついた。
どうやら、今まで筵の上に寝かされていたようだ。
少なくともここは、病院ではないことだけは、すぐに分かった。
周囲を見回す。
土間がある。
かまどに湯が沸いている。
板の間。
土壁。
知らない家具。
というか、家具と呼んでいいのかすら怪しい。
そして。
「起きましたか」
「うわっ!」
声のした方を振り向いた。
知らない娘がいた。
若い。
二十歳くらいだろうか。
俺より少し下に見える。
長い黒髪。
見慣れない着物。
俺の知識では、それがいつの時代のどんな身分の服装なのかまでは分からない。
ただ一つ分かるのは。
コスプレにしては、本気すぎる。
娘は俺の反応がおかしかったのか、少し笑った。
「ずいぶん驚かれましたね」
「いや……そりゃ驚きますよ」
「そうですか?」
「起きてすぐに知らない人がいたら普通は驚くでしょう」
「確かに……」
娘は妙に納得した顔をした。
なんだ、この人。
「あの」
「はい」
「あなた、誰ですか?」
娘は少し考えた。
「さて、誰だと思います?」
「…………」
今、俺はクイズを出されたのか?
「いや、そういう意味じゃなくて」
「では、私の名前を当ててみますか?」
「難易度を上げないでください。分かるわけないでしょ」
娘が吹き出した。
「すみません。少し面白かったので」
「俺は全然面白くないんですけど」
「そうでしょうね」
「分かってるならやめてください」
悪びれた様子がない。
なんなんだ、このめんどくさい娘は……。
だが、俺が本気で困っていると分かったのか、娘は表情を少し改めた。
「あなたは、川の近くで倒れていたのです」
「川?」
「ええ。村の者が見つけました。ずぶ濡れで、呼びかけても目を覚まさなかったので、ここへ運ばせました」
「……どれくらい寝てました?」
「半日ほどです」
半日。
少なくとも何日も意識不明だったわけではないらしい。
「気分は?」
「ちょっと頭が重いですけど……大丈夫だと思います」
「それはよかったです」
娘は俺の顔をじっと見た。
「何です?」
「いえ。本当に大丈夫なのかと思いまして」
「たぶん」
「たぶん?」
「なんでこうなったのか、自分でも全く分からないので」
そこで気づいた。
「……あれ?」
「どうしました?」
自分の身体を見る。
着ているものが違う。
Tシャツでも、短パンでもない。
見たこともない着物を着ている。
「俺の服……」
「ああ」
娘は何でもないことのように答えた。
「濡れておりましたので、着替えさせました」
「着替え……」
そう言われて、慌てて身体を確かめる。
「…………」
おかしい。
倒れたとき、そんなことになっていただろうか。
いや。
そもそも、なぜ川の近くでずぶ濡れになっていた?
最後に覚えているのは、家の中だ。
水を飲もうとして立ち上がって――。
「……ちょっと待って」
もう一度、自分の身体を見る。
そのときだった。
「…………ない」
「何がです?」
右脚にあるはずの痣。
昔からそこにあったはずなのに、何度見ても、ない。
指で擦ってみる。
当然、何も変わらない。
「……なんで」
「どうしました?」
「いや……」
何が起きているんだ……。
服も建物も何もかも違う。
そして、ほとんど同じように見えていたが、身体まで……。
「今の俺には、分からないことだらけなんですよ」
「そうなのですか?」
「そうですよ。ここ、どこなんです?」
「ここ?」
「はい」
ようやく最初に聞くべき質問へ戻った。
娘は少し首を傾げた。
「那智の近くの宿ですよ」
「……え?」
「那智の近くです」
「那智の?」
「はい」
思わず聞き返した。
「……いや」
それはおかしい。
「冗談でしょ? こんな建物、那智の近くでは全く見たことないです」
娘の眉がわずかに動いた。
「那智をご存じなのですか?」
「知ってるも何も……」
俺の地元だ。
子どものころから住んでる。
山も。
川も。
道も。
知らない土地ではない。
「外、見てもいいですか」
「構いませんが、まだ横になっていた方が」
「ちょっとだけ」
立ち上がる。
足元が少しふらついた。
「あぶない!」
「大丈夫です」
「今、倒れそうになりましたよ」
「大丈夫ですって」
「あなたの『大丈夫』は、あまり信用できませんね」
娘が俺の腕を支えた。
「……すみません」
「いえ」
外へ出る。
眩しい。
強烈な夏の日差し。
空。
山。
木々。
「…………」
知らない景色だった。
建物も、道も違う。
電柱も、アスファルトも、車もない。
見慣れたものが、何一つない。
「やっぱり、ここは那智とはちが――」
言いかけて、山を見た。
「……え?」
あの稜線。
川の位置。
山の重なり方。
細かいところは違う。
でも、大まかな地形は知っている。
「……嘘だろ」
知らないのは、土地じゃない。
そこにあるものだ。
俺はもう一度、周囲を見回した。
「本当に……那智だ」
娘が俺を見ていた。
「やはり、ご存じなのですね」
「いや……」
どう答えればいい。
「知ってる……はずなんですけど」
「はず?」
「俺の知ってる那智と、全然違う」
娘は何も言わなかった。
ただ、その言葉を覚えておこうとするような顔をしていた。
嫌な予感がした。
かなり嫌な予感だ。
知らない建物。
知らない服。
そして、知っているはずなのに知らない故郷の風景。
「あの」
「はい」
「今って……」
聞くのが怖い。
「何年ですか」
娘が答えた。
「永禄四年です」
「……え?」
嘘だろ……。
「平成、とかじゃないんですか?」
「へいせい……? 永禄四年ですよ」
答えは同じだ。
間違いなく同じ答えだ。
いや、でも待てよ……。
その年号、 聞き覚えがある。
戦国時代じゃないか。
つい数日前に見た町史や郷土史の内容を、必死に思い出す。
永禄。
そのあとが……元亀。
たしかその後が、天正だったはずだ。
そして――。
天正九年、西暦だと1581年。
勝山城、落城。
「…………」
今、それから何年前なのか、正確には分からない。
でも――。
「……二十年くらい前か」
もし本当なら、とんでもない時代に来てしまった。
「…………」
「どうしました?」
「ちょっと待って」
まずは落ち着かないと……。
こんなことはありえない。
夢?
幻覚?
何かもっとまともな説明があるはずだ。
俺は自分の頬をつねった。
「痛っ」
娘が目を丸くした。
「何をしているのです?」
「夢かどうか確認しました」
「分かりましたか?」
「痛かったです」
「では?」
「やっぱり、分かりません」
娘が笑った。
「面白い方ですね」
「こっちは笑い事じゃないんですよ」
「すみません。でも、何をそれほど慌てているのですか?」
「……」
「……あなた」
「はい?」
「先ほどから、『分からない』とばかり言ってますが」
「そりゃ、何も分からないから」
「私も今のところ、あなたについて何も分からないのです」
そこで、なんとなく気づいた。
この娘、ふざけているようで、さっきからずっと俺のことを見ている。
「あっ、確かにそうですよね……」
むしろ彼女から見れば、俺の方が圧倒的に怪しい。
川辺で倒れていた、身元不明の男。
しかも那智を知っていると言いながら、何も知らない。
よく追い出されなかったものだ。
「名前は?」
「山﨑信之です」
「やまさき……のぶゆき……」
娘が繰り返す。
「では、どこの者です?」
「それが……」
地名を答えていいのか。
というか、四百年以上前に同じ地名が存在するのかすら分からない。
「ここと同じだけど、違う那智です」
「同じだけど違う?」
「たぶん」
「たぶん?」
「説明すると長くなるんです」
「では、後でゆっくり聞きましょう」
「聞くんだ……」
「もちろん」
やっぱり、逃がす気はないらしい。
「では、普段は何をしているのです?」
「……?」
「何をして暮らしているのです?」
「ああ、仕事のことね」
それなら答えられる。
「薬剤師です」
「やくざいし?」
……通じなかった。
「薬を扱う仕事です」
「薬を?」
「はい」
「では、薬師なのですね」
「いや」
反射的に否定した。
「薬師と薬剤師は違います」
「違うのですか?」
「違います」
「薬を扱うのでしょう?」
「扱いますけど」
「薬について詳しい」
「まあ、それなりには」
「では薬師では?」
「だから、違うんですって」
娘が不思議そうに首を傾げた。
なんなんだ。
病院のお爺さん。
祖母。
そしてこの娘。
時代が変わっても、なぜ誰も分かってくれない。
「では、何が違うのですか?」
「俺は薬を扱う薬剤師です。薬師のように一から薬を作ることはできないし、医者のように傷を縫ったり、手術したりもできな……」
そこまで言いかけたときだった。
「姫様!」
外から大声がした。
娘の顔が変わった。
さっきまでの悪戯っぽさが、一瞬で消える。
「何事です」
声まで違った。
静かだが、強い。
男が駆け込んできた。
「作兵衛が大怪我を! 山で――!」
「どこです」
「こちらへ運んでおります!」
娘――いや、姫と呼ばれた彼女は、すぐに歩き出した。
俺はその場に取り残された。
「……姫?」
やっぱり。
なんか偉い人だった。
俺、さっきこの人に怪しまれることを結構いろいろ話してしまったぞ。
まずい。
非常にまずい。
いや、今はそれどころではない。
外が騒がしくなった。
何人かの男がこちらへ向かってくる。
その中央。
肩を借りて歩く男の姿が見えた。
「うっ……」
思わず声が出た。
遠目でも分かるくらい、腕から血が出ている。
かなりの出血だ……。
服も土や泥で汚れている。
俺が病院で逃げた指先の傷とは、規模が全然違う。
姫が駆け寄った。
「作兵衛!」
「姫様……申し訳……」
「喋らなくてよい。座らせなさい」
人が動く。
誰も迷わない。
姫が指示を出している。
「水を。あと、布を用意して」
「はい!」
俺は動けなかった。
血が苦手だから。
それもある。
だが、それ以上に。
俺は知っている。
これはまずい。
深い傷。
土。
汚れ。
ここには病院がない。
救急車もない。
消毒薬、
麻酔薬、
抗菌薬、
破傷風ワクチン……。
たぶん、何もない。
まともな傷の処置なんか、とてもできそうな環境ではない。
姫がこちらを見た。
目が合った。
嫌な予感がした。
「あなた」
「……はい」
「薬師なのでしょう?」
「いや」
待て。
「薬師と薬剤師は――」
「作兵衛を診てください」
「…………」
血まみれの汚れた腕を見る。
姫を見る。
「…………」
「どうしました?」
俺は一歩下がった。
「だから」
声が裏返った。
「薬師と薬剤師は違うんです!」




