第1話 酒豪の薬師
俺の名前は山﨑信之。二十五歳。
地元の病院で働く薬剤師だ。
「おーい、薬屋の兄ちゃん、ちょっとこれ見てくれんか」
「はい?」
声をかけてきたのは、俺が担当している入院患者の上ノ坊さんだった。
俺は薬を棚へ戻す手を止めた。
「あっ、上ノ坊さん。どうしました?」
「さっき、そこで引っかけてな」
お爺さんが右手を差し出す。
人差し指に巻かれたティッシュ。
その一部が赤く染まっている。
「うわっ」
反射的に体が引けた。
「……おいおい、大丈夫か?」
「いや、その……血が」
「血くらい出るやろ。切ったんやから」
「それは分かってます」
「病院の人やろ?」
「薬剤師です」
「同じやろ」
「全然違います」
俺は血が苦手だ。
正確には、傷口も、針も……。
傷の処置、ましてや手術なんてとんでもない。
幸い――と言ったら言い方は悪いかもしれないが、薬剤師が患者さんに直接処置をすることは、基本的にはない。
自分が採血されるときだって、針を刺すところは絶対に見ない。
「ちょっと見てくれんか」
「無理なんです」
「即答かい」
「看護師さん呼びますから」
「薬剤師やろ?」
「薬剤師は傷の処置はできません」
「頼りないなあ」
「よく言われます。ごめんなさい」
近くを通りかかった看護師さんを呼ぶ。
「あ、すみません。この方、指を切ったみたいで」
「はい。じゃあ見せてくださいね」
「これくらい大したことないんやけどな」
「そうですね、すぐ消毒して絆創膏を貼りましょうか」
お爺さんが看護師さんについていく。
途中で振り返った。
「兄ちゃんより頼りになるな」
「看護師さんは専門家ですから」
「お前も専門家やろ」
「分野が違うんです!」
笑いながら去っていった。
まったく。
薬なら分かる。
錠剤、粉薬、水薬……。
たとえ劇薬、毒薬の注射薬だとしても、見た目は怖くない。
何なら輸血用の血液でも、バッグに入った製剤の顔をしているうちは平気だ。
自分でも怖いの基準がよく分からないが、とにかく傷と出血は無理なのだ。
そんな情けない俺が、なぜ地元の病院で働いているのか。
大学進学で一度は地元を離れた。
卒業して薬剤師免許を取るころには、そのまま都会で就職する選択肢もあった。
でも、なぜか帰ってきた。
昔から、なんとなく思っていたのだ。
いずれ地元へ帰る。
家を守る。
一応、長男だし……。
たぶん、それが自分の役目なんだろう、と。
別に誰かに言われたわけじゃない。
ただ、そういうものだと思っていた。
少なくとも、このときの俺は「家を守る」という言葉の意味を、たいして考えたこともなかった。
◇
「遅い!」
数日後。
休日の朝っぱらから、祖母に怒られた。
「まだ八時だよ」
「八時にもなって何を言うとる。暑うなる前に終わらせるぞ」
「もう暑いんだけど」
「若い者が情けない」
祖母は八十をとうに越えている。
なのに家の墓へ向かう坂道では俺より元気だ。
俺は鎌と箒を持たされ、その後ろをついて歩いていた。
「そもそも、なんで俺まで」
「盆前じゃ。ご先祖様が帰ってくるのに、墓に草など生やしていては失礼じゃろ」
「ばあちゃん一人でやるつもりだったの?」
「当然、お前に手伝ってもらうつもりじゃった」
「最初から俺の仕事じゃん」
「若い者は働け」
この人には勝てない。
墓地は家からそう遠くない。
子供のころから何度来たか分からない場所だ。
草を抜き、落ち葉を掃き、古い花を片づける。
蝉がうるさい。
汗が止まらない。
「そっちも綺麗にせい」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
墓石の苔を落としていると、背後から祖母の声がした。
「家のご先祖様にはな、立派な薬師がおったそうじゃ」
来た。
俺は手を止めなかった。
「はいはい」
「はいは一回じゃ!」
「その話、もう何十回も聞いたよ」
「何度聞いてもよい話はよい」
「大酒飲みの薬師でしょ」
「そうじゃ」
祖母の声が少し得意げになる。
うちには、妙な口伝がある。
いつの時代の誰なのか。
正確な名前すら分からない。
古い記録も残っていない。
それでも祖母によれば、戦国のころ、この辺りに一人の薬師がいたらしい。
そして、その薬師は――
「大変な酒豪でな」
「知ってる」
「薬師としてこの辺りでたいそう名を馳せておられてな。それだけではない。尋常じゃない量の酒を集めて飲んでおられたそうじゃ」
「それも何回も聞いた」
「豪気な方じゃったんじゃろうなあ」
祖母はなぜか誇らしげだ。
昔の人は、どうして酒が強いというだけで、人間まで立派になったように語るんだろう。
「でもさ。今どき酒が飲めても、別にすごくも何ともないでしょ」
「何を言う。男なら酒の一升くらい――」
「その価値観、いつの時代だよ」
「お前が弱すぎるんじゃ」
「俺は一杯で十分なの」
「二杯も飲めんのか?」
「たぶん寝る」
「情けない!」
「だから、酒の強さで人間を評価する時代じゃないんだって」
「まったく。今どきの若い者は」
「その台詞を言いたいだけでしょ」
「その薬師様は酒だけではないぞ」
「まだ何かあるの?」
「落城の折には、武功まであげられたそうじゃ」
「はいはい。酒豪の薬師の武功ね」
「だから、はいは一回じゃ!」
俺は笑いながら墓石を拭いた。
「でもさ」
「なんじゃ」
「落城してるのに、武功も何もないでしょ」
祖母の動きが止まった。
「……お前」
「何?」
「ご先祖様の墓の前で、なんと失礼なことを……!」
「いや、だって落ちたんでしょ、城」
「そういう話ではない!」
「じゃあ、どういう話なの」
「知らん!」
「知らないんじゃん!」
「詳しいことが残っておらんだけじゃ!」
理不尽だ。
祖母は箒を握ったまま俺を睨んだ。
「とにかく、そのお方は立派な方じゃった」
「はいはい」
「お前みたいな者とは違う」
「なんで急に俺が比較されるの」
「同じ薬を扱う者でも大違いじゃ。知識もそうじゃが、肝の座り方が違う」
「見たことあるの?」
「口答えするな」
「無茶苦茶だな」
「お前みたいな今どきの薬屋がその末裔かと思うと、情けなくなるわ」
「そもそも昔の薬師と現代の薬剤師じゃ、名前は似てるかもしれないけど、だいぶ違うでしょ?」
「同じじゃ」
「違うって」
「同じじゃ!」
病院のお爺さんと同じようなことを言われた。
俺は墓石に向かって軽く頭を下げた。
「えー……名前も知らない薬師様。うちの祖母がうるさくてすみません」
「お前!」
「冗談だって」
怒る祖母を横目に、俺は笑った。
このときは、本当にただの昔話だと思っていた。
◇
その夜。
冷房の効いた部屋で、缶ビールを一本だけ開けた。
酒は嫌いじゃない。
むしろ好きだ。
ただし、気分よく飲めるのは一本まで。
二本目に手を出せば、たぶんそのまま寝る。
「……落城のときに武功、ねえ」
なんとなく気になって、スマートフォンで調べてみた。
城の名前。
地元の古い地名。
戦国。
落城。
「あ……出てくるじゃん」
翌日には図書館にも寄った。
町史。
郷土史。
普段ならまず開かないような本を読む。
これが意外と面白かった。
自分が毎日見ている山。
子供のころ遊んだ川。
何度も通った道。
そこに四百年以上前にも人が暮らしていた。
当たり前のことなのに、不思議な感じがした。
そして、祖母の話に出てきた落城についても、おおよそのことが分かった。
「……本当にあったんだ」
だが、一族すべてがそこで途絶えたわけではなさそうだった。
落城後、生き残った子供たちは近隣の勢力を頼り、色川という土地へ逃れたらしい。
「色川……」
もちろん名前は知っている。
同じ地域に住んでいれば、地名として目にすることはある。
でも、祖母の昔話と結びつけて考えたことなんてなかった。
城は落ちた。
でも、子供たちは生き残った。
その後も家は続いた。
それがうちの家とどう繋がるのかは、分からなかった。
「……武功って、何したんだよ」
それらしき記録はない。
祖母の話に出てくる薬師らしき人物も、史料には見当たらなかった。
名前すら分からない。
そもそも口伝だ。
何百年も前の一人の薬師について、すべてが記録に残っているはずもない。
「まあ、そんなもんか」
本を閉じた。
それ以上、深く調べるつもりはなかった。
◇
盆になった。
墓掃除をした数日後。
今度は家族で墓参りに来ていた。
花を供える。
水をかける。
線香に火をつける。
煙が、夏の湿った空気の中へ細く昇っていった。
「ちゃんと手を合わせい」
「分かってるよ」
祖母に言われるまでもなく、俺は墓前で手を合わせた。
別に信心深いわけじゃない。
それでも、こういうことはする。
昔からそうだった。
目を閉じる。
ふと、数日前に調べたことを思い出した。
城が落ちたこと。
子供たちが色川へ逃れたこと。
そして、どこにも記録のない薬師。
俺は目を開けた。
「なあ、ばあちゃん」
「なんじゃ」
「例の薬師って、この中にいるの?」
祖母が墓石を見渡した。
「名前とか分かってるの?」
「さあな」
「分からないの?」
「古いことじゃからな」
「散々偉そうに語ってたのに」
「ご先祖様を敬うのに名前など関係あるか」
「便利な理屈だなあ」
「また罰当たりなことを」
「分かった分かった」
俺はもう一度、墓へ向き直った。
「じゃあ、どこにいるのか知りませんけど」
「おい」
「酒豪の薬師様」
祖母がため息をついた。
「この前は失礼なこと言ってすみませんでした」
「心がこもっとらん」
「うるさいなあ」
少し考える。
「……落城したのに、どんな武功だったのか」
蝉の声が響いている。
「機会があったら、教えてください」
もちろん返事なんてない。
あるわけがない。
「ただし」
俺は小さく笑った。
「俺、酒は好きなんですけど、ほとんど飲めないので、もし一緒に飲む機会があれば、一杯まででお願いします」
「ご先祖様にまで酒が弱いと言い訳するな」
「だから、その人が先祖かどうかも分からないんでしょ」
「屁理屈ばかり達者になりおって」
いつもの祖母だった。
いつもの墓だった。
いつもの夏だった。
そのはずだった。
◇
最初に感じたのは、暑さだった。
墓地から戻ったあとだったと思う。
頭が重い。
体が妙にだるい。
「……暑いな」
冷房はついている。
なのに暑い。
喉が渇く。
水を飲もうとして立ち上がった。
そこで床が揺れた。
「……あれ?」
いや。
揺れたのは俺だ。
壁に手をつく。
力が入らない。
遠くで誰かの声がした。
何を言っているのか分からない。
視界が狭くなる。
黒くなる。
まずい。
貧血? 熱中症?
病院で働いているくせに、自分に何が起きているのかさっぱり分からなかった。
最後に思い出したのは。
なぜか、あの墓だった。
――機会があったら、教えてください。
「……いや」
そんな機会はいらない。
訂正しよう。
やっぱり知らなくていい。
そう思ったところで。
俺の意識は、完全に途切れた。




