第17話 薬師の薬箱と試用期間終了
「さて、お主ら。ちょっとこっちへ来てくれんか」
松庵先生が、家の方から声をかけてきた。
「はい。何でしょう?」
「お主らに渡しておきたい物があるんじゃ」
「渡したい物?」
「まあ、入ってからのお楽しみじゃ。はっはっは!」
千代さんと顔を見合わせてから、松庵先生の家に入った。
案内されたのは、昨日も薬草の話を聞いた部屋だった。
壁際には乾燥させた薬草が吊るされ、棚には小さな壺や包みが並んでいる。
「そこに座っておれ」
松庵先生はそう言って、奥の棚をごそごそ探し始めた。
「確か、この辺に……おお、あったあった!」
取り出したのは、使い込まれた薬箱だった。
松庵先生はそれを俺の前に置いた。
「開けてみい」
「はい……?」
蓋を開けると、中には紙に包まれた薬草が、いくつも入っていた。
小さな壺も二つ。それに、木製の小さな匙や、薬を包むための紙も入っている。
「先生、もしかして、これを俺に?」
「おう。お主に使ってもらおうと思ってな」
「本当にいいんですか!?」
「桔梗、陳皮、黄連、麻黄、甘草、大黄、芍薬……。それに、今日、徳丸に使った紫根の膏薬も、少し入れてある。ほかにもあるが、全部お主に教えたものじゃ」
この時代に来てから、俺がずっと欲しかったものだ。
「わしが往診に使っておった薬箱じゃから、ひと通りの薬は揃っておる。きっと役に立つじゃろう」
「ありがとうございます!」
頭を下げた。
「はっはっは! そこまで喜んでもらえるとはのう!」
松庵先生が豪快に笑った。
「じゃが、信之殿。一つ、言っておきたいことがある」
「……はい?」
松庵先生が、箱の中の薬草を指差した。
「ここにあるものの中には、遠くから取り寄せねばならんものもある。使ってしまえば、すぐに同じものが手に入るとは限らんのじゃ」
「そうですよね」
「薬は貴重な物じゃ。本当に必要かどうか見極めて使ってくれ。じゃが、もし足りなくなりそうなら、早めにわしのところへ相談に来ればよい」
「……はい!」
「それから、お主は大丈夫じゃろうが、よく知らぬ薬を分かったつもりで使うことだけはするなよ」
その言葉には、さっきまでの豪快さとは違う重みがあった。
それは、現代でも戦国時代でも同じだ。
「はい」
「分からんことがあったら、いつでも聞きに来い! わしもお主から聞きたいことが山ほどあるからのう!」
「えっ、俺にですか?」
「当たり前じゃ。今日の徳丸の手当てもそうじゃが、お主の考え方は、わしの知っておる薬師とはずいぶん違う。これからが楽しみじゃ!」
「では、これからもよろしくお願いします!」
「おう! こっちこそ、頼んだぞ!」
松庵先生が、満足そうに頷いた。
「ところで先生、一つ相談があるんですが」
「おお、何でも言ってみい」
俺は、もう一度薬箱を見た。
「薬を使ったあとの補充なんですけど、俺、今のところお金がないんですよ」
「ふむ、その辺で取れる薬草なら分けてやれるが、遠くから取り寄せる薬には金がかかるからのう」
「もうお主は薬師なんじゃから、患者から薬代をもらえばよいではないか?」
「あっ、確かにそうか!」
「それでしたら、父上に相談してみましょうか」
「千代さんのお父さんに?」
「はい。屋敷の仕事で使う薬なら、家の費用で賄えるようにできると思います」
「なるほど、お願いします」
「よし! ならば、わしからも一筆書いておこう!」
「……一筆?」
「薬のことだけではないぞ。お主についても、殿に伝えておきたいことがあるのでな」
「先生!? そこまでしていただけるんですか?」
「はっはっは! なに、難しいことではない。お主に薬を持たせるなら、これからも使えるようにしてやらんとのう!」
松庵先生は紙と筆を取り出し、部屋の隅にある文机に向かった。
しばらく筆を走らせ、最後に書状を折りたたんだ。
「千代姫様。これを父君に渡していただけるか?」
「はい。確かにお預かりいたします」
千代さんが、両手で書状を受け取った。
「それから、信之殿」
「はい!」
「薬を使ったときは、病人の具合がどうなったか、あとから教えてくれんか?」
「もちろんです!」
「おう! 楽しみにしておるぞ!」
……何だか、すごいことになってきたな。
これなら、この時代でも薬師としてやっていけるかもしれない。
◇
その夜は、もう一晩、松庵先生の家に泊めてもらうことになった。
予想どおり、松庵先生は上機嫌で何度も酒を勧めてきたけど、千代さんがうまく止めてくれたおかげで、何とか酔いつぶれずに済んだ。
翌朝。
「先生、本当にありがとうございました!」
「おお! またいつでも来い!」
「はい、絶対また来ます!」
「千代姫様も、また遊びに来てくだされ!」
「はい。先生も、どうぞお元気で」
千代さんが丁寧に頭を下げた。
松庵先生のいつもの豪快な笑い声に見送られ、那智の屋敷へ出発した。
ボラが泳いでいるゆかし潟のほとりを、俺は薬箱を大事に抱え、千代さんと一緒に歩いた。
「信之殿」
「はい?」
「ずいぶん嬉しそうですね」
「あ、分かります?」
「はい。先ほどから、ずっとその箱を見ていらっしゃいますから」
……そんなに見てたかな?
「いやあ、嬉しくて。今までは実際に使える薬がほとんどなかったので……」
「そうでしたね」
「これがあるだけで、できることがずいぶん増えると思うんです」
千代さんが、薬箱に目を落とした。
「でも、信之殿。あまり無理はしないでくださいね」
「……え?」
「助けられる人が増えたら、その分頑張りすぎてしまいそうですから」
……ああ、また無理すると思われてるんだな。
「大丈夫ですよ。分からないことは松庵先生に聞きますし、俺の手に負えなければ、医者の先生にも診てもらいますから」
「それなら安心です」
「それに、千代さんにも助けてもらいますよ」
千代さんが俺の方を見た。
「この辺の人や土地のこととか、まだ分からないことが山ほどあるんです。千代さんがいてくれると、本当に心強いですから」
「それなら、お安い御用です。私も信之殿には、ずいぶん助けていただいていますから」
「……あれ? なんか改めて話したのに、結局俺たち、いつもどおりってことになっちゃいましたね」
「ああ、本当ですね。でも、それでいいじゃないですか」
顔を見合わせて、二人で笑った。
◇
那智に戻ると、松庵先生から預かった書状を持って、殿の屋敷へ向かった。
千代さんが取り次いでくれたので、すぐに奥の部屋へ案内された。
開け放たれた障子の向こうには、きれいに手入れされた庭が見える。
……やっぱり緊張するな。
でも、屋敷の薬代の話、ちゃんと聞いてもらわないと!
「信之、戻ったか。ご苦労であった」
「は、はい! ただいま戻りました!」
「うむ。話は聞いておる。松庵殿に会ってきたそうだな」
「はい。薬草のことを、いろいろと教えていただきました」
「そうか」
殿が頷いた。
「それから、書状も預かってきたとのことだが」
「はい、父上。こちらです」
千代さんが、松庵先生から預かった書状を差し出した。
殿は書状を開き、ゆっくりと目を通した。
……何が書いてあるんだろう。
あの松庵先生のことだから、変なことは書いてないと思うけど……。
しばらくして、殿が顔を上げた。
「松庵殿も、お主を認めたか」
「はい?」
「わしの見立ては、間違ってはおらなんだようだな」
「どういうことでしょうか?」
「実は、お主を正式に召し抱えようかと考えておった」
「えっ?」
「作兵衛の手当てに鯖の一件。その後の働きぶりも聞いておる。千代も村の者たちも、お主を頼りにしておる」
「以前、お主には千代と共に動き、何ができるか見せてもらうと申したな」
「はい」
「お主の人柄は信用しておる。だが、薬師としての腕までは、わしには見極められぬ。それゆえ、決めかねておった」
殿は松庵先生の書状を置いた。
「その腕を、松庵殿が認めた」
「信之。お主を潮﨑家の薬師として、正式に召し抱えたいと思う」
「ええっと、つまり、薬師としてちゃんと採用されるってことですか?」
「そうだ。なにか不服でもあるのか?」
「い、いえ、とっても嬉しいんですけど……。俺、薬師といっても、できることがかなり偏ってるんです」
「ほう、どういうことだ?」
「病気とか薬とか毒のことなら専門なんですけど、体を切ったり縫ったりするような大けがの治療は、習ったことがないんです。あと、個人的には血が苦手すぎるっていう問題もありますし……」
「ははっ! やはりお主は妙な男だな」
「すみません」
「血が苦手なのは分かっておる。それに、お主にできぬことを無理にさせるつもりもない。怪我の治療なら医者もおるし、源右衛門にも心得があるからな」
「えっ、それでもいいんですか?」
「無論だ。お主には、お主の得意とすることで力を尽くしてもらえばよい」
「あっ、ありがとうございます! それなら、ぜひお願いします!」
「うむ。では、今日よりお主を当家の薬師として召し抱える」
「信之殿、よかったですね! これからも一緒に頑張りましょう!」
……あ、そうだ。薬代の相談!
「あの、殿。薬を補充する費用のことなんですが……」
「うむ。薬にかかる費用は当家で持とう。必要なものは勘定を預かる者に申し出よ」
「ありがとうございます!」
「さて、信之。早速だが、お主に一つ頼みたい仕事がある」
「はい? もうですか?」
「うむ。実は少し前から、色川家より姫君の病について相談が来ておる」
「……色川?」
どこかで聞いたことのある名前だ。
……あっ。
そうだ。勝山城が落ちたとき、子供たちが逃れたという、あの色川だ。
「お主には、その姫君を診に色川へ行ってもらいたいのだ」




