第15話 二人の薬師の苦手なもの
気がつくと、すっかり夕暮れになっていた。
辺りの山も薬草畑も茜色に染まっている。
「……あら、まだお話しされていたんですね」
振り向くと、千代さんが立っていた。
「あ、千代さん! お帰りなさい!」
「ただいま戻りました。ずいぶん楽しそうにしてますね」
「そうなんですよ! 俺、今日ここに来られて本当によかったです。松庵先生、薬草のこと本当に何でも知ってるんですよ!」
「はっはっは! それはこちらの台詞じゃ! 信之殿の話は、わしには思いもよらぬものばかりでのう、一日中話しておっても話が尽きんわ!」
松庵先生は上機嫌だった。
「お二人とも、すっかり仲良くなられたようですね! 紹介した甲斐がありました」
千代さんもうれしそうだ。
「それで先生、今夜はお世話になります」
「おお、そうじゃったな! 部屋は用意しておるぞ」
「……えっ、先生の家に泊めてもらえるんですか?」
「はい。先生には、前もってお願いしてあります」
そうだったのか。さすが千代さん、抜かりがない。
「それなら今夜は、酒でも飲みながら続きを話そうではないか!」
「……えっ、お酒?」
「決まっておろう! さあ、宴の支度をしよう!」
こうして、俺たちは松庵先生の家に泊まることになった。
◇
「いただきます!」
囲炉裏を囲んでの夕食だ。パチパチと薪が爆ぜ、炎が静かに揺らめいている。
炊き立てのご飯に、季節の野菜がたっぷり入った鳥鍋、そして、囲炉裏の火で焼きながら食べる干物。
……うん、おいしい。
ご飯が進む! お代わりをしようとしたその時、
「さて、信之殿。一杯やろうではないか!」
松庵先生が、例の赤い紐のついたヒョウタンを持ってきた。
「ええっと……」
「どうした? 遠慮することはないぞ!」
「信之殿、お酒はあまり飲めないのではありませんでしたか?」
千代さんが、心配そうにこちらを見ている。
「ああ、大丈夫ですよ。一杯くらいなら」
「そうですか? あまり無理はなさらないでくださいね」
「はい!」
「千代姫様、ご安心くだされ。わしも無理に飲ませるつもりはありませぬ!」
そう言いながら、松庵先生は俺の杯に酒を注いだ。
……相変わらず、なみなみだ。
まあ、今日は楽しかったし、少しくらいならいいか。
「では、いただきます!」
「おう!」
松庵先生が豪快に杯をあおった。
俺も一口飲む……。
やっぱりこの酒、かなり強いな。
「ところで信之殿、昼間の話の続きじゃが……」
酒が入ると、松庵先生は待ってましたとばかりに勢いづいて、次から次へと話を振ってくる。
俺も一緒に答えを考えるのが楽しくて仕方がなかった。
そんな調子で、夕食の間も薬の話は尽きなかった。
こっちの時代に来てから、こんなふうに薬の話ができるのって、初めてだな……。
「信之殿、杯が空いておるぞ? ほれ」
「あ、ありがとうございます!」
「……信之殿? そろそろ、そのくらいにしておいた方が……」
「大丈夫ですよ、千代さん!」
大丈夫、大丈夫!
今日はすごく楽しいし、まだ飲めそうだ!
「さすがじゃ! そうこなくてはのう!」
あれ? でも、なんだか眠くなってきたぞ……。
「信之殿?」
「はい……?」
千代さんが何か言っている。
ちょっと頭がふわふわするな。
「……あれ?」
そこから先の記憶がない。
◇
翌朝……。
ここ、どこだったっけ?
……薬草の匂いがする。
そうだ、思い出した。松庵先生の家だ!
昨日は夕食をご馳走になって、松庵先生に酒を勧められて……。
「ああ、頭が痛い……やってしまった……」
普段、こんなに飲まないのに。
楽しくなって、つい調子に乗ってしまった。
後悔しながらそのまま横になっていると、戸の向こうから声がした。
「信之殿、大丈夫ですか?」
「……二日酔いです」
「もう、仕方ありませんね。お水をいただいてきましょうか?」
「あ、お願いします……」
しばらくして、千代さんが水の入った器を持ってきてくれた。
「ありがとうございます……」
「昨夜は、ずいぶん楽しそうでしたね」
「……あの、俺、何か変なこと言ってませんでした?」
「変なこと、というと?」
「俺のいた時代の話とか?」
千代さんが少し考えている。
「いいえ。松庵先生とずっと薬のお話をされていて、最後はそのまま眠ってましたよ。松庵先生も普段と変わらない様子でしたから、多分大丈夫です」
「……そうですか」
「はい。ただ、いくら楽しくても、お酒はほどほどにしてくださいね」
「……はい。すみません」
まったく、その通りだ!
◇
少し休んでから、朝食をとることにした。
千代さんと松庵先生は、もう済ませていたようだ。
俺は無理せず、おかゆと梅干しをいただいた。
「おお、信之殿! 昨夜はよく眠れたか?」
「はい。というか、途中から覚えてなくて……。おまけに二日酔いです」
「はっはっは! お主、薬のことはよく知っておるのに、酒の飲み方はまだまだじゃのう!」
「……すみません」
「そうじゃ、ちょうどいい処方があるぞ! すこし待っておれ」
松庵先生は楽しそうに家を出ると、薬草を保管している納屋へ入っていった。
この時代にある二日酔いの薬……。もしかして!?
ほどなくして、松庵先生が戻ってきた。
「ほれ、五苓散じゃ! 飲むと楽になるのが少し早くなるぞ」
松庵先生が、小さな紙包みを持ってきてくれた。
中には、細かく砕かれた生薬の粉末が入っている。
ああ、そうか。この時代なら、エキス剤の五苓散じゃなくて本物の散剤なんだな。
「あっ、五苓散!」
「なんじゃ、知っておるのか?」
「はい、こんな時の定番の薬ですよね! 二日酔いはいつの時代も人類が避けられない重大な疾患ですから」
「何を真面目に言うておる、お主は阿呆か?」
「ははは……」
ああ、笑うと頭が痛い……。
そんなやり取りをしていると、ふと思い出した。
酒豪の薬師……。
家に伝わっていた、あの話だ。
落城時に武功あり。という話だったよな。
「あの、松庵先生」
「なんじゃ?」
「ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「おう、何でも聞いてくれ!」
「松庵先生って……刀とか扱うのは得意なんですか?」
「…………?」
松庵先生が、きょとんとした。
「……信之殿?」
隣から千代さんの声がした。
「はい?」
「薬師の先生に、いったい何を聞いているんですか?」
「あ、いや、その……」
「大丈夫ですか? まだお酒が残っているんじゃありませんか?」
「いやいや! そういうわけじゃないですよ!」
「はっはっは! 剣術のことか? わしは薬師じゃぞ。薬草を刈るのは得意じゃが、さすがに人は斬れんぞ!」
「……ですよね。すみません。ちょっと気になっただけです」
我ながら、唐突すぎた。
でも、松庵先生、酒豪の薬師というところは当てはまってる。
気になるけど、他に聞きようがないし……。
まあ、そのうち何か分かるかもしれないし、今はいいか。
その時だった。
「松爺先生ーっ!!」
外から、子供の叫び声が聞こえてきた。
「助けてーっ!」
俺たちは顔を見合わせた。
家の前に飛び出すと、五人ほどの子供たちが立っていた。
六、七歳くらいの子供たちに混じって、一人だけ小さな男の子がいた。
その子が右手を押さえながら大泣きしている。四歳くらいだろうか。
「痛いよおっ!」
「どうした!?」
「徳丸が……、徳丸が磯で魚に刺されたの!」
「松爺先生、徳丸を診てやって。お願い!」
松庵先生は徳丸と呼ばれている子をじっと見つめていた。
……松爺? ああ、先生のことか。子供たちにも慕われているんだな。
あれ? でも、さっきまでの笑顔が消えている。
「先生?」
「信之殿、ちょっと……」
松庵先生は子供たちから少し離れると、俺の耳元で言った。
「すまんが、お主が診てやってくれんか? わしは子供を診るのがどうも苦手でなあ……」
「えっ、俺がですか?」
「必要なものがあればわしが用意する。頼んだぞ……」
よくわからないけど、そこまで言うなら仕方ないか……。
「わかりました、診ます」
「徳丸、今日は信之という薬師が来ておってな、そっちに診てもらうことにするぞ。わしもそばにおるから、安心せい」
まず、徳丸くんの様子を観察する。
ざっと見たところ、血も傷もひどくはなさそうだから、俺でも診られる。……たぶん。
外じゃ落ち着いて診られない。とりあえず、子供たちを家の中へ入れることにした。
徳丸くんを、土間から上がったところに座らせる。
「魚に刺されたって言ってたけど、どんな魚かわかるかな?」
「オコゼ! うちは漁師の家だから間違いないよ! 磯で捕まえようとして、背びれのトゲに刺されたんだ!」
付き添っていた子供が説明してくれた。
……ああ、あの毒のある魚か!
「刺されたとこ見せてくれる?」
「手! 手のここ!」
徳丸くんが、泣きながら右手を差し出した。
手のひらの親指に近いところに、小さな刺し傷がある。
血は、ほとんど出ていない。
でも、本人はものすごく痛がっている。
「うわああん! 痛いっ! 痛いよお!」
「徳丸くん、もうちょっとよく見せてくれるかな? 大丈夫、すぐ終わるから」
「やだあっ! 痛いから触らないでえっ!」
……参ったな。
傷はかなり浅そうだけど、毒のせいで痛みが強いんだろう。
念のため傷口をちゃんと見ておきたいんだけどな……。
「徳丸、痛いの怖いよね。でも大丈夫、信之先生が優しく診てくれますから」
千代さんは徳丸のそばにしゃがみ、怪我をしていない方の手をそっと握った。
「私もそばにいます。頑張って少しだけ、手を見せてもらえますか?」
「痛いことしない?」
徳丸くんが顔をしかめながら、確かめるように聞いた。
「うん、大丈夫。できるだけ痛くしないようにするよ。まず傷口にトゲが残ってないか見せてね。少し触るけど、もし痛かったらすぐ教えてね」
「わかった……」
徳丸くんが、そっと右手を差し出してくれた。
千代さんは徳丸くんの左手を握ったまま、もう片方の手を背中に添えている。
「じゃあ、触るよ」
「うん」
……ああ、よかった。かなり傷は浅そうだ。
見える範囲でトゲは残ってなさそうだから、傷はこのまま軽く洗うくらいで大丈夫だろう。
一応、中にトゲが残っている可能性はゼロではないけど、今のところはそこまで心配する必要はなさそうだ。
「徳丸くん、よかったね、トゲとかも残ってなさそうだから、今のところ傷は大丈夫だよ」
「ありがと、先生。でも痛いよ!」
問題は毒だ……。
「そうだね、たぶん痛いのは毒のせいだね、お湯で手を温めれば痛みが引くかもしれないから、試してみようか?」
「すみません、松庵先生、お湯を用意してもらえますか?」
「湯?」
「はい。火傷しない程度の、少し熱めのお湯をお願いします」
「それなら、家の裏にちょうどいい温泉が湧いとるぞ」
「では、あとでそこまで案内してもらっていいですか?」
「おう、すぐ裏じゃからな。いつでも案内するぞ!」
そういえば、この子の親はどうしてるんだろ? ちゃんと知らせないと……。
「みんな、ここまで連れてきてくれてありがとね。徳丸くんのお父さんとお母さんは?」
「漁に出とる! 夕方まで帰ってこん!」
「ほかの大人の人は?」
「みんな浜で仕事しとる!」
そうか。
「じゃあ、みんなは近くの大人の人に、徳丸くんが松庵先生のところにいるって伝えてきてくれるかな?」
「うん!」
「徳丸くんは、俺たちが診ておくから大丈夫だよ」
子供たちは顔を見合わせると、勢いよく走っていった。
さて、処置を始めないと。
「徳丸くん、ちょっと水で洗うよ」
「……痛くしない?」
「できるだけ痛くしないようにするからね」
千代さんがそばにいてくれたおかげで、なんとか我慢してくれた。
次は、温めよう! できるだけ早い方が良いはずだ。
「松庵先生、さっきの温泉はどこでしたっけ?」
「おう、案内するまでもないぞ。そこの窓から見えるじゃろ?」
松庵先生が家の裏を指差した。
見ると、ただの溝だと思っていたところから、湯がこんこんと湧いて流れている。
なかなかの湯量だ……全然気が付かなかった、これが温泉!?
すぐに家の裏へ回り、自分の手を湯に入れて温度を確かめてみた。
うん、体感ではちょうど良さそう。
徳丸くんを呼ぶと、千代さんに手を引かれながら歩いてきた。
「徳丸くん、今度はこっちのお湯に手を入れてみようか」
「……うん」
「熱すぎたら無理しないでね」
恐る恐る、徳丸くんがお湯に手を入れた。
「熱いのは平気だけど、痛い……」
「うん。まだ痛いよね。でも、もう少しだけそのままにして、痛みが引くのを待とうか」
「……うん」
千代さんは、ずっと徳丸くんの手を握ってくれている。
「徳丸、今日、磯では魚以外に何か面白い生き物はいましたか?」
「……エビもいた」
「そう、大きいエビですか?」
「ちっちゃい!」
「そうなんですね」
千代さんは、徳丸くんの話をゆっくり聞いている。
そのうち、少しずつ泣き声が小さくなってきた。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「……ちょっと、痛くなくなってきた」
「よかったね!」
効いてきたみたいだ。
もちろん、これですべて解決というわけじゃないけど……。
松庵先生が、驚いたようにお湯を見つめていた。
「湯に浸すだけで、こんなに痛みが引くものなのか? このような治し方は聞いたことが無いぞ」
「はい。オコゼの毒には熱に弱い性質があるんです。毒の種類によっては温めるのが逆効果になることもありますけど」
「なるほど、そういうことじゃったのか……すごいのう」
しばらくすると、徳丸くんはすっかり泣きやんでいた。
「……もう、あんまり痛くない」
「よかった!」
千代さんも、ほっとしたように息をついた。
「信之殿、ありがとうございます」
「いえ、まだ傷の様子は見ないといけないですけど、とりあえずよかったです」
松庵先生が、何かを思いついたように奥へ向かった。
「信之殿、傷の手当てなら、これも使えるかもしれんぞ」
戻ってきた先生が、小さな壺を差し出した。
赤紫色の膏薬が入っている。
「これは?」
「紫草の根を油に移して練った膏薬じゃ。傷や、赤く腫れたところに使っておる」
「……紫根ですか?」
「おお、知っておるのか?」
紫根。
現代でも、火傷や傷に使う軟膏、紫雲膏なんかに配合されている生薬だ。
松庵先生、こんなものまで作っているのか。
「はい。炎症を抑える働きも期待できる薬草ですね」
「ほう! やはりお主、面白いことを知っておるのう!」
もう一度傷の状態を確かめてから、膏薬を少し使わせてもらった。
「徳丸くん、今日はこの手を汚さないように気をつけてね。もしまたひどく痛くなったり、腫れてきたりしたら、すぐ大人の人に知らせてね」
「……うん!」
「徳丸、よかったです、頑張りましたね」
千代さんもうれしそうだ。
ようやく、徳丸くんが笑った。
これで解決するはずだったのに。
まさか、このあと薬の知識がまったく役に立たない難題に直面するとは、俺も千代さんも思ってもいなかった……。




