第9話「わたくしを誰だとお思い?」
噂の出どころは、たぶん東の階段だ。
『公爵令嬢は、殿下のお時間を私物になさっている』
そこまでは前から聞いていた。今朝はそこに一行ぶん足されているのだと、マルタが繕い物の手を止めずに教えてくれた。殿下がそれをお叱りにならないから、いよいよ本当らしい、と。
(叱らないのは、本当だからです)
否定できないのが困る。私は毎日あの人の時間を借りて、別の令嬢の落とし方を仕込んでいる。噂のほうが、事実に対してよほど控えめだ。
昼休みの中庭は、風の抜けるほうに人が寄る。噴水のふちの生徒が二人、私を見た。それから顔を見合わせて、もう一度こちらを向いた。
そして正面から扇が来た。
「ごきげんよう、ヴィオレッタ様。少しよろしくて」
オクタヴィア様。取り巻きは前より増えている。うしろの芝には、昼食の包みを持ったままの野次馬が10人ばかり。時刻の選び方も場所の選び方も、隙がなかった。
(練習してきましたね、これは)
「わたくし、皆さまの前であなたに伺いたいことがございますの」
「どうぞ」
「あなた、放課後の空き教室で、殿下と何をなさっておいでですの」
芝の上で、包みを開く手が途中で宙に浮いた。
追い詰められた人間は必ず言い訳をする。教本にはたぶん、そう書いてある。書いてあるとおりに、この人は完璧な段取りで運んできた。
ただ、私は言い訳を用意していない。用意するのが面倒だったからだ。
「稽古です」
「……なんの、稽古ですの」
「口説き方の」
野次馬がまとめて息を吸った。
昼の中庭は、刈った草と、誰かの弁当の酢のにおいがする。日向に立っていると首のうしろが焼ける。こういう場所で口にしていい言葉ではなかったと、言い終えてから気がついた。気がついても遅い。
オクタヴィア様の扇が、開いたまま風に鳴る。
「そのような戯れ言で、この場をお逃げになれるとお思い。わたくしを誰だとお思いですの」
「レンフィールド侯爵家のご息女です。王家の礎を4代にわたって支えられたお家柄で、歴代の妃を——」
「結構ですわ」
以前、渡り廊下で最後まで聞かされている。人は同じ話を二度されると覚えてしまう。覚えたほうが悪いという法はないと思う。
取り巻きの一人が、抱えていた『淑女の心得』をそっと閉じた。今日も頁が間に合っていない。
「殿下がお認めになるはずが——」
「認める」
人垣が割れた。
殿下が敷石を鳴らして入ってくる。半歩うしろにキリアン様。噂の的が二人そろって現れたので、野次馬の昼食は今年いちばんの当たりになった。
「彼女に頼んだのは私だ。落ち度は一つもない。以後この件を口にする者は——」
「だめですよ、殿下」
自分でも意外なくらい、するりと出た。
殿下が言葉を切る。中庭がしんとして、噴水の水音だけが残った。
「0点です」
「……庇ったつもりだった」
「存じています。庇い方が0点なんです。身分で口を閉じさせると、閉じた口は陰でもっと大きく開きます。明日には、私が殿下に泣きついて黙らせたという話になっていますよ」
「では、命じてくれ。何をすればいい」
「なにも。ここから先は、こちらでやります」
野次馬のほうへ向き直った。喉が渇いている。渇いているのに、声だけはちゃんと出た。
「私が殿下に稽古をつけています。婚約者としてではなく、雇われた指導者として。文句のある方は私に直接どうぞ。殿下は関係ありません」
誰も何も言わなかった。言わないまま、包みを持った手がじわじわ下がっていく。
手帳の頁に指をかけて、まっすぐ下へ引いた。破る音は、中庭の真ん中だと思ったよりよく鳴る。
『不合格・要再訓練』
噴水のふちにそれを置いて、私は歩き出した。6枚目を、人の見ている前で置いたのは今日が最初になる。
「……ヴィオレッタ様」
呼び止められて振り返ると、オクタヴィア様は扇を胸の高さに構え直していた。所作は最後まで崩れていない。崩れていないぶん、声の高さだけが浮いて聞こえる。
「卒業の夜会には、申し開きの場がございますでしょう。あなたのなさったことを、そこで一つずつ並べて差し上げますわ」
風が噴水の水を横へ流した。膝から下が急に涼しくなる。
夜会。断罪。並べる。前世で何十回も眺めた場面に、日付がついた。今日、この人が付けていった。
放課後の噴水は、昼とまるで違う音を立てる。人がいなくなると水の音だけが太くなって、園の奥のほうまで届いていく。
裏側へまわったのは、置いてきた紙を回収するつもりだったからだ。掃除の者に拾われる前に片づけたかった。
紙はなかった。代わりに、オクタヴィア様が石の縁に座っていた。
一人だった。扇は膝の上で閉じたままで、取り巻きは影も見えない。
「……お笑いになって結構ですわ」
「そのつもりはありません。隣、よろしいですか」
返事を待たずに腰を下ろした。石が冷たい。
「あの方たち、勝った日しかついてまいりませんの。今日は負けましたから」
「よくご存じですね」
「4年、数えておりますもの」
(数えてたんだ、この人も)
私の手帳と、どこか似ている。似ていると思った時点で、たぶん私は油断している。
「オクタヴィア様。伺ってもいいですか。なぜ、殿下でなければいけないんです」
「この国でいちばん上の席だからですわ」
「今、殿下ではなく、座るところの話をなさいました」
扇の骨がきしんだ。
「言葉の綾ですわ。侯爵家の娘が、椅子の心配などしてはいけませんこと」
「では、殿下の笑い方が下手なのはご存じですか」
「……なんですって」
「口の形が先に上がって、目が置いていかれるんです。それから、女性に近づくときに歩数を数えます。腕1本ぶんが適正だとご自分でおっしゃって、いちいち測ってから寄ってくるんですよ」
オクタヴィア様の口が半分開いて、そのまま止まった。
「そんな話、聞いたこともございませんわ」
「ええ。だから0点です」
「……なにが」
「あなたが欲しいのは、殿下ではありません。一番に選ばれることです。それは別のものですよ。同じ顔をして並んでいるだけで、中身はまるきり別です」
水音が、私たちのあいだを埋めた。
オクタヴィア様は長いこと噴水を見ていた。指が扇の要をなでている。何度も、同じところを。
「……そのようなことをわたくしに申し上げた方は、あなたで二度目ですわ」
「では、その前におっしゃったのは、どなた」
「乳母ですわ。ずいぶん昔に暇を出しました。泣かせてしまいましたの。……あの日、わたくしは謝り方を知りませんでしたのよ」
扇が膝の上で開いて、また閉じた。開くたびに骨のあいだから、白粉と、乾いた花のにおいがする。侯爵家の令嬢は、扇にまで香を焚きしめておくものらしい。
「今はご存じですか。……その、詫び方のほうは」
オクタヴィア様は答えなかった。噴水の水が石の縁で跳ねて、上等な靴の先を濡らしていく。濡れているのに、足を引かない。
(……あ。私、また教えてる)
やめておけばよかった。この人は敵で、当て馬で、私を夜会で並べると宣言したばかりの相手だ。渡り廊下でも同じ失敗をしたのに、口のほうが先に動く。
立ち上がって、裾の砂を払った。
「では、私はこれで」
「お待ちになって」
扇が伸びてきて、私の袖を押さえた。
「……もう一度おっしゃって。今度は、覚えますから」




