第8話「うまくいくほど、もやもや」
中庭の東屋は、背の高い生垣に囲まれている。外からは屋根の先しか見えない。中に入ってしまえば、学園でいちばん人目のない場所になる。
つまり、お茶会には最適で、盗み見にも最適だった。
私は生垣の裏側にしゃがんでいた。葉のあいだにできた隙間から、ちょうど東屋の卓が覗ける。隣ではマルタが、同じ姿勢で茶器の音を数えていた。
「お嬢様。膝が土でございます」
「言わないで。今それどころじゃないの」
生垣越しに、殿下の声が聞こえた。
「リーゼ嬢。今日は来てくれて助かった」
私は思わず両手を握った。
出だしは合格だ。「来てくれて助かった」は私が渡した文句ではない。自分で組み立てている。しかも「助かった」の一言が入っているのが大きい。相手に役割を渡す言い方で、報告書からはずいぶん遠いところまで来た。
「いえ、こちらこそ。……あの、先日は、その、本を」
「あれは私の落ち度だ。距離の詰め方を誤った。以後は改める」
(そこは謝らなくていいんですって)
声にならない悲鳴を上げてから、私は自分を落ち着かせた。まあいい。誤りを認められる人は嫌われない。
そこから先の展開は、私の予想を上回った。
殿下は薬草の話を振った。私が渡した情報のとおりだ。ただし、渡したのは「薬草が好きらしい」の一行きりで、その先は本人が組み立てている。根の張り方。水のやりすぎ。腐らせた鉢の話。
リーゼ嬢の声が、だんだん軽くなっていくのが分かった。
「殿下、それは水が多すぎたんです。鉢の底に石を入れておくと、ぜんぜん違いますよ」
「石か。覚えておく」
「あと、日陰に置きっぱなしにしませんでしたか」
「置いた。日は当てすぎるより、足りないほうが安全だと思っていた」
「それはもう、ほとんど犯人です」
笑い声がした。ふたりぶんの。
そのあとも会話は途切れなかった。リーゼ嬢が厩舎の話を出せば、殿下は馬の脚の使い方の話で受ける。剣の稽古と手綱の握り方に共通点があるらしい。私の知らない話題だ。
生垣の隙間から見えるかぎり、リーゼ嬢の肩からは力が抜けていた。図書室で半歩さがったときの彼女とは、別人みたいだった。
(……ちゃんと、通じてる)
コーチとして言うことはない。言うことがないというのは、こんなに手持ち無沙汰なものだったろうか。
生垣の裏で、私はぽかんと口を開けていた。
うまくいっている。完全に、私の望んだとおりに。
教えたことは全部働いた。教えていないところは本人が埋めた。指導する側として、これ以上の日はそうそうない。
「お嬢様。ご成功ですね」
「……そうね」
「ご成功でございますよ」
「そう言ってるでしょ。2回言わなくていいの」
マルタは何も言い返さず、私の膝についた土を払った。
そのとき、隙間の向こうで殿下の視線が動いた。
リーゼ嬢が茶器に手を伸ばした瞬間、殿下の目が卓を離れて、まっすぐこちらへ来た。生垣の、私が覗いている隙間へ。
息が浅くなる。見えているはずがない。葉は厚いし、私は影の側にいる。
それでも殿下は、しばらくそこを見ていた。
そして——ほとんど同じ頃に、リーゼ嬢のほうも別の方を見ていた。東屋の外、訓練場のある西の空のあたりを。茶器を持ったまま、ほんの一瞬だけ。
卓を挟んだ二人が、それぞれ違う方向を向いている。
(……なにこれ)
うまくいっているはずの場面で、誰も相手を見ていない。私だけが、この東屋のことを真剣に見ている。
空き教室の窓は、夕方の色を通していた。机の上に手帳を広げて、私はその頁に丸を書いた。
「合格です。60点」
「そうか」
「そうか、じゃありません。今日の殿下は、私が教えたことを全部使ったうえで、教えていないことまで自力でやりました。石を入れる話なんて、誰も仕込んでいません」
「相手が困っている点を聞き、対処を返しただけだ」
「それが会話というものです。殿下、私は今わりと本気で感心しているんですよ」
殿下は椅子に浅く腰かけて、黒い手帳を膝に置いていた。開いていない。ペンも出していない。
私は自分の声が明るすぎることに気づいていた。気づいていて、止められなかった。
「この調子で何回か重ねれば充分です。あとは殿下が陛下に申し出て、私は自由になって、リーゼ嬢は——」
「ヴィオレッタ」
「はい」
「合格を出すと、稽古は終わるのか」
窓の外で、風が生垣を鳴らしている。
私は口を開けたまま、しばらく言葉を選んだ。選んだところで、正しい答えは1つしかない。
「そういう約束です」
「そうか」
同じ言葉なのに、さっきよりずっと短かった。
(……なんで、その顔)
合格を出したのだ。今日はこの人の勝ちで、私の指導の成果で、計画は予定どおり進んでいる。祝うところだ。ここで祝わないと、私は自分の仕事を否定することになる。
なのに、胸のあたりに濡れた布を置かれた気分でいる。
もやもやの正体を探そうとして、私は途中でやめた。探し当てたら、たぶん認めないといけなくなる。認めないでいるかぎり、これはただの疲れで済む。
祝えないぶん、口だけが勝手に喋りだした。
「次の課題ですけど、贈り物の選び方をやりましょう。殿下は絶対に実用品を選びますから、そこを直します」
「役に立つほうが喜ばれるはずだ」
「そのとおりです。ただし恋には効きません。長く使えるものほど、渡した人のことは忘れられていくんですよ」
「では何を贈る」
「その人が、自分では絶対に買わないものです。必要ないから買わない。でも、もらったら困りながら嬉しい。そういう、少し無駄なもの」
「……つまり、要らぬ物を渡せということか」
「そうです。用のある品は、用が済んだ時点で終わります。終わらないのは、いつまでも使い道のわからないほうなんです」
殿下は返事をしなかった。黒い手帳をようやく開き、ペンを出して短く書きつける。書き終えても、顔は上がらない。
「ヴィオレッタ。数で答えてくれ。稽古の回数に、上限はあるのか」
「ありません。私が良しと言うまでです」
「それは、もう出た」
言われて、私は自分の書いた丸を見おろした。頁の上の、小さな丸。私が今日、この人に渡したもの。
渡さなければよかった、と思ってしまった。思ってしまったことのほうに、自分でうろたえた。
戸口で、こつん、と音がした。
「殿下。刻限です」
キリアン様が立っていた。殿下の護衛で、いつも半歩うしろにいる。私がここへ来るときは、たいてい廊下の端で気配を消している。
殿下は立ち上がり、私に短く頭を下げて出ていった。足音が遠ざかる。
キリアン様は一礼して、それから戸口の枠に手をかけたまま、動かなかった。
「ヴィオレッタ様。本日は上出来だったと伺いました」
「ええ。合格を出しました」
「では、なぜお二人とも、そのようなお顔をしておいでなんですか」




