第7話「その手紙は、誰あて」
雨の音がする。
図書室の高い窓を、細かい雨が斜めに叩いている。濡れた石のにおいと、紙のにおいと、開けたばかりのインクのにおい。指先で紙をなでると、湿気を吸ってわずかに柔らかくなっていた。
こういう日は、ペンが走らない。走らないほうが好都合な相手もいる。
「本日の課題は、恋文です」
「文書か。ならば得意だ」
そう言った時点で、私は嫌な予感がした。
殿下は袖をまくり、姿勢を正し、迷いのない手つきでペンを取った。書き出しからひと息も止まらない。書き終えるまでにかかった時間は、驚くほど短かった。
差し出された紙を、私は読んだ。
『リーゼ嬢。貴殿の健勝を喜ばしく思う。先般の書架の一件については、当方の対応に不備があった。以後改善する。天候不順の折、体調に留意されたい。以上』
「0点です」
「なぜだ。誤字も、時候の挨拶の抜けもないはずだが」
「ありません。ただしこれは恋文ではなくて詫び状です。しかも役所の。『以上』で終わる恋文が、この世のどこにありますか」
「締めの一句がなければ、書き物として不完全だろう」
「恋文はお役所仕事じゃないんです。読んだ人が、返事を出す口実をほしくなる。そういう紙のことを言うんですよ」
手帳から破いた紙に『不合格・要再訓練』と一行だけ書き、詫び状の上へ載せた。5枚目。殿下が心外そうに眉を寄せる。
「では、何を書けばいい」
「相手のことを1つ、具体的に書いてください。天候でも健康でもなく、その人にしか当てはまらないことを」
殿下は言われたことを口の中で繰り返し、それきり黙った。
雨の音が長くなる。ペン先が紙に触れる。離れる。また触れる。
書いては丸め、脇へ置き、新しい紙を引き寄せる。丸めた紙が、机の端に4つ、5つと増えていった。
(あ。真剣に悩んでる)
役所の文書なら1息で書ける人が、指2本ぶんの文章で詰まっている。こういう顔を見せられると、こちらは黙って待つしかなくなる。
窓の外で雨脚が強くなった。書架の奥のほうで、誰かが本を戻す音がする。私は自分の手帳を開いて、意味もなく升目を眺めていた。
頭にあったのは升目のことではない。この人が今これだけの時間をかけて、誰かのことを思い出そうとしている。その事実だけが、やけに大きく居座っていた。リーゼ嬢の何を思い出しているんだろう。薬草の本だろうか。厩舎の話だろうか。
胸のどこかが、細く冷たくなる。順調な証拠だ。順調なのだから、これでいい。
やがて殿下がペンを置いた。
「できた。……たぶん」
差し出された紙を、私は受け取った。
『あなたが困っているとき、右の眉だけが先に動く。私はその動きを見ると、次に何を言うべきかを考えるより先に、もう少しここにいたいと思う。』
雨の音が、遠くなった。
うまい、と思った。悔しいくらいうまい。
誰にでも当てはまることが1つも書いていない。飾りもない。上手に見せようとした跡もない。相手をちゃんと見ている人にしか書けない文章だった。
私はこの人に、恋文の書き方を教えている。教えている側が、たった今、教わったほうの紙に負けている。
「……採点不能です」
「不合格ということか」
「違います。私の採点表に、この欄がないんです。0点でも60点でもありません」
「では、どうすればいい」
「どうもしなくていいです。このまま渡してください」
自分の声が、少し変だった。喉のあたりに小石が入っているみたいで、飲み下しても引っかかる。
そこで私は、紙のいちばん上に目を落とした。
宛名が書いてある。
『ヴィオレッタ様』
「殿下。いちばん上をご覧ください」
「宛名がどうかしたか」
「リーゼ嬢です。そこに書いてあるのは、私の名前ですよ」
テオドールの手が、紙の縁で止まった。ほんの短いあいだ、雨の音だけが残る。
「……書き直す」
「お願いします。文はそのままでかまいませんから、上だけ直してください」
殿下は新しい紙を引き寄せた。丸めた書き損じを机の端からかき集めて、上着の内側へ押しこむ。
「まとめてお預かりします、それ」
「いや、私が始末する」
きっぱりした声だった。几帳面な人だから、自分の失敗の始末は自分でつけたいのだろう。
私は宛名の間違った1通を、もう一度読んだ。読んでから、机の上に置いた。置いてから、また取った。
(……いや。証拠として持っておくだけです)
何の証拠なのかは、自分でも説明がつかなかった。
夜の自室は、雨の音が近い。鏡台の前に座ると、窓を打つ音が背中のあたりで鳴っているように聞こえる。
マルタが櫛を持って、私の髪をほどきはじめた。
「本日の首尾は」
「採点不能でした」
「そのような点がございましたかしら」
「今日できたの。私の手帳には、まだ欄がないけど」
鏡台の上には、その手紙が置いてある。宛名の間違った、書き直し前の1通。
持って帰るつもりはなかった。書架のあいだで別れるとき、机の上には確かに置いた。置いたはずなのに、気づいたら袖に入っていて、気づいたらここに置いてある。
紙を捨てられない人間のことを、私は今日の午後、几帳面だと思って眺めていた。
マルタの櫛が、髪の途中で一度だけ引っかかった。
「そちら、お捨てになりませんの」
「あとでね」
「紙は湿ると、くっついて剥がれなくなりますよ」
「……あとでね、って言ったでしょう」
櫛の動きは止まらない。マルタは鏡の中の私を見ていない。手元だけを見て、いつもの手つきで髪を梳いている。
「お嬢様は、困ると右の眉だけ先に動きますね」
指が、櫛の柄を握ったまま動かなくなった。
鏡の中を見る。何も動いていない。今は困っていないからだ。
……いや。待って。
紙の上の一文が、頭の中で勝手に読み上げられた。あなたが困っているとき、右の眉だけが先に動く。
「マルタ。それ、誰でもそうなの」
「いいえ。お嬢様だけでございます。小さい頃からずっと」
私は口を開いた。開いて、何も言わずに閉じた。
考えてはいけない。考えたら、そこから先は全部、期待になる。私は鏡台の上の櫛を、意味もなく端へ寄せた。
だいたい、筋が通らない。あの人には本命がいる。私はその手伝いで雇われている。私が自由になるには、その恋が実らないと困る。手紙の一文で舞い上がるのは、教える側として最低だ。
あれは書き間違いだ。この人は、名前も宛名も、よく間違える。温室でも間違えた。今日も間違えた。それ以上の意味はない。
「マルタ。髪、続けて」
「かしこまりました」
雨が窓を叩いている。櫛が髪を通る音が、そのあいだに何度も挟まる。
私は鏡台の上の手紙を取り、二つに折った。折ってから、引き出しのいちばん奥へ入れる。
そして、鏡台の蓋を閉じた。




