第6話「近すぎる、ステップ」
右足が下がる。左がそれを追う。腰の高さが、床から測ったみたいに変わらない。
肩の力は抜けている。掌の位置も、指の開き方も、教本の挿絵をそのまま起こしたようだった。手袋越しでも分かる。この人の体は、正しさで出来ている。
「……お上手ですね。驚くほど」
「当然だ。手順は覚えている」
小ホールに楽士はいない。石の上に置かれたままだった真鍮の鍵は、結局あの夜のうちに私が持ち帰った。その鍵で扉を開けた中には、椅子も譜面台もない。磨かれた寄せ木の床が広がっているだけだった。夕方の光が高い窓から落ちて、床に細長い形をいくつも作っている。
音楽の代わりに、殿下が低い声で拍を刻んでいた。
「1、2、3」
拍は正確だ。速くも遅くもならない。私は乗っていればよくて、乗っているかぎりどこにも躓かない。踊りというより、よく整備された荷馬車に乗っている感じがする。
正直に言えば、悪い気分ではなかった。学園の舞踏会でこれほど楽に踊れたことはない。
問題は、殿下の目である。
私の顔の、少し上。ちょうど頭ひとつぶん上のあたりを、まっすぐ見ている。踊っているあいだ、そこから一度も外れない。
「殿下。どこを見ておられます」
「奥の柱だ。飾りの中心を基準に取っている。あれを外さなければ、位置がずれん」
(測量ですか)
技術は満点だ。位置も拍も、支える力の強さも、文句のつけようがない。それなのに、踊っていて楽しくならない。相手が私を見ていないからだ。
正確には、見ていないというより——目の前の人間を、床の目印と同じ扱いにしている。
「止まってください、いったん」
殿下の足がぴたりと止まる。私は手を離して、半歩さがった。
「0点です」
「なぜだ。足運びに誤りはなかったはずだ」
「ありませんでした。私、これほど楽に踊ったのは久しぶりです。技術については文句なしです。それでも0点です。舞踏会でお相手をした令嬢は、家に帰ってこう言いますよ。『あの方、柱がお好きなんですって』」
「柱に興味はない」
「知っています」
殿下は不服そうに立っていた。柱を見ていたのは拍を数えるためだ。数えるのは相手の足を踏まないため。踏まないのは礼儀のため。たぶん頭の中では、そういう筋がきれいに通っている。
通っているからこそ、直しにくい。
私は窓際へ歩いた。書いた紙を窓台に置くと、端が夕方の風に持ち上がって、また落ちた。4枚目。
「相手の目を見てください。そこを直すだけで、点は変わります」
「そうすると、拍が狂う」
「狂わせてください。そちらが普通です」
殿下は少しのあいだ黙っていた。それから、手を差し出す。
私は自分の手を、その上に置いた。手袋の下で、掌がひとつ跳ねる。
「1、2、3」
始まってすぐ、私は自分の言ったことを後悔した。
近い。ここまで近かっただろうか。距離はさっきと変わらないはずなのに、目が合っているというだけで、相手の輪郭がひとまわり大きくなった気がする。深い青が、まばたきもせずこちらを見ている。
逃げ場がない。柱を見ていてくれたほうが、よほど踊りやすかった。
視線を外す口実を探して、私は相手の襟を見た。次に顎を見た。結局また目に戻ってしまう。人の目を見て話しなさいと教えたのは私で、教えた本人が今、まともに見返せていない。
(指導者としてどうなんですか、これは)
「……拍が」
テオドールの声が、ひとつぶん遅れた。
「狂っていますよ、殿下」
「君が、そうしろと言った」
「言いました。私が言いました。責任は全部こちらにあります」
爪先が床に貼りついたみたいになって、私は次の1歩を出しそこねた。殿下が支える。手袋越しの掌が、背中の少し上で止まった。
「すまない」
「いえ。今のは私です。指導する側が転びかけて、どうするんですか」
顔が熱い。夕方の光のせいにしたいけれど、あいにく私たちは窓に背を向けている。
殿下は手を離さなかった。離さないまま、そこに立っている。
「ヴィオレッタ。これでいいのか」
「……何がです」
「相手の目を見ると、動きが鈍る。踊りとしては明らかに劣る。それでも君は、加点するのか」
まっすぐな質問だった。この人はいつもそうだ。ごまかさない。ごまかし方を知らない。
「します。上手さで人を好きになる人は、たぶんどこにもいません」
言ってから、その言葉が自分にも刺さった。私は今日、ずいぶん上手に踊れたと思う。それで何がどうなったわけでもない。
上手にやり過ごすのは得意なのだ。上手にやり過ごして、上手に期待をしないで、上手に何も欲しがらない。そうやって17年やってきた。今日みたいに、たった1歩でつまずくとは思っていなかった。
殿下がようやく手を離した。指の跡が残るほど強く握られていたわけでもないのに、その手だけが妙に軽くなった気がする。
馬車の窓は開けてあった。夜の風が入ってきて、膝掛けの端をめくっていく。車輪が石の継ぎ目を拾うたび、体がひとつ跳ねた。
「お嬢様。お顔が赤うございますね」
「風のせいよ。窓を開けているもの」
「風は冷たいものでございますが」
マルタは向かいの席で、膝の上の繕い物に糸を通していた。揺れる馬車の中でどうやって針の穴を通しているのか、私にはいまだに分からない。灯りは持ちこんでいないので、手元は暗いはずなのに。
「あのね、マルタ。人は近い距離で他人と組み合うと、心臓の打ち方が速くなるの」
「はあ」
「体のつくりの話よ。相手に馴染みがないほど強く出るの。緊張の一種で、誰にでも起きる、ごく当たり前の反応」
「本日は、どなたとお踊りになりましたの」
「……殿下」
「なるほど。馴染みのないお相手で」
私は膝掛けを引き上げて、口元まで隠した。マルタは笑わない。笑わないところがいちばん質が悪い。
車輪の音がしばらく続いた。街道の脇の木立が、窓の外を黒い塊になって流れていく。
やがてマルタが、糸を引きながら言った。
「そのお話が正しいのでしたら、殿下も同じだけ速くなっておいでのはずですが」
膝掛けの端を握った指に、勝手に力が入った。
「……それは、考えなくていいことよ」
「さようでございますか」
さらりと引き下がるのが、この人の恐ろしいところだ。押してこない。押してこないので、こちらが勝手に考え続ける羽目になる。
「先ほどから、同じところを何度もなでておいでですよ」
指摘されて、ようやく気づいた。右手の甲を、左手が何度もなでている。手袋の縫い目のあたりを、行ったり来たり。
私は両手を膝の上で組み直した。組み直したのに、指先の落ち着かなさは残ったままだ。
窓の外を、灯りがひとつ、うしろへ流れていく。今日の成果は0点で、明日も課題はある。段取りは何ひとつ狂っていない。
……緊張って、こんなに長く続くものだったっけ。




