第5話「邪魔者は、優雅にやってくる」
「お待ちになって、ヴィオレッタ様」
渡り廊下の中ほどで、行く手をふさぐように令嬢が二人。その前にもう一人が進み出て、絵に描いたようなお辞儀をした。膝の落とし方も、扇の角度も、教本の図解そのままだ。
オクタヴィア・レンフィールド侯爵令嬢。学年でいちばん所作の美しい人で、学年でいちばん機嫌の読みやすい人でもある。
「ごきげんよう。急いでおりますので、手短にお願いします」
「わたくし、レンフィールド侯爵家の娘として、申し上げねばならないことがございますの」
(出た、名乗り)
昼の渡り廊下は風の通り道で、扇を広げるには向いていない。それでもオクタヴィア様は広げた。
髪が乱れる。押さえる手がもうひとつ要る。結果として両手がふさがった。うしろの一人が、抱えていた小さな本を素早く開いて、なにやら確かめている。表紙には金の箔で『淑女の心得』と押してあった。
(教本、持ち歩いてるんだ)
「昨日の夕方、空き教室に殿下と二人でいらっしゃいましたわね」
「いました。扉も開けたままでしたから、見ようと思えば誰にでも見られましたね」
「否定なさらないの」
「事実ですので」
扇の陰で、彼女の眉がわずかに寄った。想定していた返しと違ったらしい。
「……婚約者の立場に甘えて、殿下のお時間を私事に費やすなど、王家への不敬ではありませんこと。あなたにその座がふさわしいかどうか、そろそろお考え直しになってはいかが」
(考え直したいのはこっちなんですけど)
言えるわけがない。私は口をつぐんで、代わりに殊勝な顔を作った。
「おっしゃるとおりです」
「……は」
「ふさわしくないというご指摘は、まったくそのとおりだと思います。私も日々そう思っております」
取り巻きの二人が顔を見合わせた。オクタヴィア様の扇が、半分閉じたところで止まる。
用意してきた台詞が、たぶん何往復ぶんか余ってしまったのだろう。追い詰めるつもりで来た人は、相手が最初の一手で降参すると、途端に行き場をなくす。
「なぜ、言い返しませんの」
「材料がないからです」
「そういうところが腹立たしいと、申し上げているんですのよ」
彼女は扇を握り直し、姿勢を整え、頭の中の頁をめくり直したようだった。次に出てきたのは家格の話だった。
レンフィールド侯爵家が王家へ嫁がせた娘の数。歴代の王妃の名。そのあいだアッシュフォード公爵家が何をしていたか。
「わたくしの家は、王家の礎を4代にわたって支えてまいりました。妃に求められるのは、血と、務めと、慎みでございます。そのいずれをも欠いた方が——」
流れるように出てくる。よどみがない。よどみがなさすぎて、暗誦に聞こえる。実際に暗誦だ。うしろの本と、たぶん同じ頁から出ている。
言っている中身がひどいので怒るべきなのに、私の頭に浮かんだのは別のことだった。この人は、この台詞をどこで練習したんだろう。窓に向かってだろうか。
そして私は、ここで黙っていられなかった。
これがいけない。分かっているのに、口のほうが先に動いた。
「オクタヴィア様。それ、逆効果です」
「なんですって」
「家名を先にお出しになったでしょう。肩書きで詰め寄られると、人は身構えるだけで、心は1歩も動きません。相手が動くのは、その人自身の言葉が出てきたときだけです」
渡り廊下が、しんとした。
風が扇の羽を鳴らす。取り巻きの二人はどちらも私を見ていて、どちらも何と言っていいのか分からない顔をしている。教本を抱えたほうは、頁をめくる手を止めていた。あの本にも、たぶんこの状況の項目はない。
私は自分の手が手帳を開いていることに気づいた。習慣というのは恐ろしい。
「今のは、0点です」
(言った。言ってしまった)
「……いま、なんとおっしゃいましたの」
「なんでもありません。癖です。忘れてください」
オクタヴィア様は、しばらく私を見ていた。扇の陰から覗く目が、怒っているのか別の何かなのか、うまく読めない。二番手の家に生まれた人の目だ、と思ってから、その考えを引っこめた。私が言えた義理ではない。
「……覚えておきますわ」
そう言って、彼女は身をひるがえした。所作は最後まで完璧だった。ただ、去り際に扇を握り直した指の力が、来たときより強くなっていた気がする。
夜の王宮の中庭は、昼とは別の場所みたいになる。生垣が黒い壁になり、足元の砂利だけが灯りを受けて白く光る。石の腰掛けは、座ると冷たかった。
「報告します。本日の学園での成果はゼロです。殿下がリーゼ嬢に近づいた回数、0回。会話、0往復」
「動く機会がなかった」
「機会は昼にありました。中庭を通られましたよね。リーゼ嬢は東の窓際にいました」
「……気づかなかった」
テオドールは腰掛けの端に浅く座り、私の報告をきちんと聞いていた。
膝には黒い手帳を開いて、書く準備までしている。書くことなど何もないのに。
「私のほうからも報告がある。今日、廊下で君の名を聞いた」
「どこでです。それと、誰が」
「東の階段だ。名は言わん。誰かが、君は私に取り入っていると話していた」
灯りの届かないところで、砂利が小さく鳴った。
「よくある話です。放っておけば、そのうち別の的を探しますよ」
「気にする」
短い返事だった。あまりに短くて、私は次に言うことを見失った。
殿下は噂を止めに行かなかったらしい。行っていれば、そう報告してくるはずだ。黙って聞き、覚えて、そのまま私のところへ持ってきた。役に立つのか立たないのか分からない律儀さで。
「殿下。私たちは取引をしているだけです。噂の1つや2つ、必要経費のうちに入っています」
殿下は言葉の意味を量るように黙りこんだ。
「私が受け取るのは自由で、こちらが出すのは評判です。釣り合っているんですよ」
「君は、勘定の話ばかりする」
「商談ですから」
夜風が生垣を鳴らした。どこかで水を汲む音がして、それきり静かになる。
テオドールは黒い手帳を閉じた。書かなかった。この人がダメ出しを書き取らなかったのは、たぶん今日が最初だ。
私は膝の上で手を組んだまま、次の課題の話に移ろうとした。移ろうとして、うまく声が出なかった。
先に口を開いたのは殿下のほうだった。
「明後日の夕方、小ホールを空けさせた」
「なぜ、そこを」
「踊りを見てもらう。私の踊りは正確だと言われるが、正確なだけらしい」
殿下は上着の内側から鍵を出し、石の腰掛けの上に置いた。真鍮の、掌に収まる大きさ。灯りを受けて、平たい面がひとつ光る。
「持っていてくれ。私が持っていると、忘れる」
「鍵くらい、ご自分で覚えていてください」
そう言いながら、私は鍵を取らなかった。取らないまま、それは石の上に置かれている。




