第10話「ずるくなんて、ないです」
藁と、馬の汗と、蹄に塗る油のにおい。
どれも混ざってしまうと、思っていたよりも甘い。手のひらに湿った熱が伝わってくる。ブラシの毛は硬くて、押しつけるたび、指の付け根のあたりが少しずつ痛くなっていく。
「もっと強くて大丈夫です。撫でると、くすぐったがりますから」
「……これ以上ですか」
「体重を乗せてください。腕だけだと明日、上がらなくなります」
厩舎の奥の一頭は、私の肩ほどある葦毛だった。首を洗ってやると、たしかに鼻先で肩を押してくる。もっと洗え、という意味らしい。押される力が想定の倍あって、私は半歩よろけた。
(重い。ものすごく重い)
隣でリーゼ嬢は、片手で桶を持ち上げている。腕が細いのに、どこから出ているのか分からない。
「ヴィオレッタ様、ほんとうにいらっしゃると思っていませんでした」
「言われたので来ました。腕が上がるくらい重たいですけど、と伺って」
「明日はもう、肩から先が言うことを聞きませんよ」
「その忠告、今ので二度目です」
リーゼ嬢が笑った。汗で額に張りついた髪を、手の甲で払っている。学園の廊下ですれ違うときの彼女とは、歩き方からして違った。ここでは半歩さがらない。
「ヴィオレッタ様。わたし、恋というのは要するに餌付けだと思うんです」
「……いま、なんとおっしゃいました」
「毎日、同じ時刻に、同じものを少しだけ持っていくんです。半年やると、向こうから寄ってきます」
「……それ、どの生き物のことでしょうか」
「馬の話です。でも人も、たぶん同じです」
(同じであってたまるものですか)
そう思いながら、頭のどこかでは書き取っていた。毎日、同じ時刻に、少しだけ。私が殿下にやらせていることと、気味が悪いくらい形が似ている。
葦毛の首筋に水を流す。日向の水は生ぬるくて、跳ねたぶんが私の袖を濡らした。
「リーゼ嬢。伺ってもいいですか」
「どうぞ」
「殿下のこと、好きですか」
桶を置く音がした。
こういう訊き方は下手だと自分でも分かっている。ただ、遠回りに訊いて遠回りに外された経験なら、もう充分に積んだ。私の手引きは全部外れたし、お茶会は成功したのに二人とも別のほうを見ていた。もう当てずっぽうで作戦を組みたくない。
リーゼ嬢は葦毛の前脚をなでていた。指が蹄の際まで下りて、そこで止まる。
「この子、去年、右の前を庇って歩いていました」
(……あれ。話が変わった)
「痛いとは言いません。馬ですから。でも地面につく音が違うんです。ぱか、ぱか、じゃなくて、ぱ、かって」
「それは、どこかが悪いという意味ですか」
「そうです。言えないので、音で言います」
私は水の桶を持ったまま、次の言葉を待った。待っても続きは来なかった。彼女はまた葦毛の脚をなでている。
答えたくないことは飲み込む。誰でもやる。私は毎日やっている。
「リーゼ嬢。飲み込んだ言葉は、喉に刺さったまま残りますよ」
「……刺さります?」
「刺さります。しかも抜けません。しばらく経つと、刺さっていること自体を忘れます。忘れても、飲み込みにくさだけは残るんです」
自分でもよく言えたと思った。今日いちばんの出来だ。これは持って帰って、そのまま殿下に使い回せる。
リーゼ嬢は手を止めて、こちらを見た。
「では、言います」
「どうぞ」
「ヴィオレッタ様って、ずるいです」
葦毛が首を振った。水が飛んで、私の頬に当たる。
厩舎の空気は、日向のところだけ埃が浮いて見える。桶の底で水が揺れて、縁のあたりが白く光った。私はその光を見ていた。見ていれば、次に何を言うか考えなくて済むからだ。
「……ずるくなんて、ないです」
出てきたのが、その一言だった。指導者らしくもなければ、公爵令嬢らしくもない。まるきり子どもの反射だ。
「ずるいです。ヴィオレッタ様はいつも、人の恋の話ばかりなさいます。わたしの話も、殿下の話も。ご自分の話は一度もなさいません」
「……それは、私が指導する側だからで」
「訊く側にいれば、答えなくて済みますよね」
厩舎の梁で、鳩が羽ばたいた。藁の粉が日の筋の中を落ちていく。
「わたし、馬の脚は見れば分かります。庇って歩いている脚は、音でわかるんです」
リーゼ嬢はブラシを桶に戻して、両手を腰の後ろで組んだ。
「ヴィオレッタ様、ずっと庇って歩いていらっしゃいます」
私は口を開いた。返す言葉が出てこない。出てこないうちに、喉のほうが先に詰まった。
飲み込んだ言葉は喉に刺さる。たった今、私が教えたばかりの文句だ。教えた本人に、その日のうちに突き刺さるとは思っていなかった。
手帳を出して、頁を開く。指が藁のかけらで汚れていたので、いったん袖でぬぐった。
「60点です」
「え」
「言えましたから。苦手なことを、苦手な相手に。私はそれができません」
丸をひとつ、リーゼ嬢の欄に書いた。書きながら、点をつける手のほうが震えているのを見ないふりをした。
「ヴィオレッタ様は、何点なんですか」
「私は、生徒じゃありませんので」
夕方の中庭には、井戸の縁に桶が一つ置いてあった。水がなみなみと張ってあって、日の落ちかけた色を映している。
そばの石に、乾いた布がたたんで置いてあった。
「どうぞ。馬房の帰りは、手が油くさくなりますので」
キリアン様が、少し離れたところで剣の柄を布で拭いていた。こちらを見ていない。
「……なぜ、私があちらへ行ったとご存じなんです」
「昼に馬房のほうへ歩いていかれるのを、見ました」
「見て、それで水を汲まれたんですか」
「はい」
それだけだった。手を洗えと言うでもなく、恩に着せるでもなく、必要なものが必要な場所に置いてある。私は黙って手を浸した。冷たい。井戸のいちばん下から汲んだ水だ。
(この人、ぜんぶ先にやってしまう)
「キリアン様は、そういうことをよくなさるんですか」
「なにをです」
「先に、黙って、済ませておくことです」
「……気づかれない程度であれば」
「見つかってしまったら、どうなさるんです」
「次から、場所を変えます」
反省の方向が根本的におかしい。おかしいのに、本人はいたって真面目な顔をしている。
騎士というのは、こういう訓練を受けるものなのだろうか。それとも、この方が一人でこうなったのか。訊いたところで答えが返ってこないのは、もう分かっている。
「キリアン様。殿下に、何かお伝えすることはありますか」
「ありません」
布で手を拭いた。乾いた布は、洗いたてのにおいがする。井戸の水も、この布も、私がここへ来る前から用意されていたものだ。
「では、こちらから一つだけ。殿下は最近、上着が重そうです」
「……お召し替えでもなさいましたか」
「同じものです」
キリアン様は剣を鞘に納めた。それきり説明しない。
「どういう意味です」
「殿下にお訊きください」
「訊いて答えるような方ではないでしょう」
「そうですね」
私は桶に映った空を見た。もう半分が藍色になっている。
「もう一つだけ。今のは、私に言っておこうと思われたことですか。それとも」
キリアン様は少し考えて、それから一礼した。
「独り言です」
そう言うと、桶の水を花壇へ空けた。桶は伏せてある。布はたたんである。来たときと同じ形にぜんぶ戻すと、キリアン様は行ってしまった。
自室へ帰る馬車を待ちながら、私は手帳を開いた。
殿下の欄には今日、書くことがない。稽古をしていないのだから当たり前だ。それなのに、頁の余白がやけに広く見える。
余白の隅に、私は一行だけ書き足した。
『殿下の上着。重い。理由不明。要確認』




