第11話「エスコートの行き先」
「本日の目的を、もう一度おっしゃってください」
「学園の小舞踏会に出席し、リーゼ嬢と1曲踊る」
「よろしい。それだけです。それ以外は何もしないでください」
控えの間は、蝋と、磨いた床の油のにおいがした。壁の燭台がまだ半分しか灯っていない。広間のほうから楽士の音合わせが漏れてくる。弦を締める音は、いつ聞いても不吉だと思う。
殿下は正装だった。銀糸の刺繍が肩から袖へ流れていて、灯りを受けるたびに線が動いて見える。背も肩幅も、正面から見るとよけいに厄介だ。
「確認したい。入場は誰と組む」
「私です。婚約者ですので、そこは仕方ありません」
「では、最初の1曲は」
「リーゼ嬢です。入場したら私の腕を離して、まっすぐ向かってください。そっちです。こっちじゃなくて、そっちを見てください」
「離す位置に基準はあるか」
「ありません。適当でいいんです」
「適当が、私はいちばん苦手だ」
この人の苦手なものの一覧なら、そろそろ手帳の1頁が埋まる。剣より難しいものが、毎日ひとつずつ増えていく。
「では、予行をします。私を彼女だと思って、腕を差し出してみてください」
殿下が半歩さがり、姿勢を整え、肘を折って腕を出した。
まっすぐで、揺れがなく、高さもちょうどいい。図解を写し取ったような形だ。ここまでは満点である。
問題は、腕を出したあと、殿下が私の目を見て言った台詞のほうだった。
「一曲、お相手願いたい。なお、退路は2箇所確保してある」
「……退路」
「東の扉と、給仕の出入口だ。曲の途中で彼女が逃げたくなったとき、行き先がないのは気の毒だろう」
私は一度、天井の梁を見上げた。
(この人、ちょっといいこと言った)
いいことを言った。言ったのだけれど、そのあとに扉の数を報告しなければ、もっと良かった。
「殿下。前半は悪くありません。後半で全部こぼしました。0点です」
「では、備えは無用か」
「必要です。黙ってなさってください。口に出した時点で、相手は逃げてよい場所のほうを探しはじめます」
殿下が黒い手帳を開いた。几帳面な字で何か書き足す。口の中で「黙って」と繰り返しているのが、こちらまで聞こえてくる。
「話の種も揃えてある。薬草と、馬の脚と、鉢の底に入れる石だ」
「石は前に使いました」
「一度使った話は、再度使えないのか」
「使えます。ですが、同じ話を二度される側は、自分が覚えられていないのだと受け取ります」
殿下のペンが紙の上で浮いた。書き足す前に、顔のほうがわずかに曇る。同じ話を二度した心当たりが、たぶんある。
私は自分の手帳を開き、爪で折り目をつけてから頁を離した。紙の切れる音が、控えの間ではやけに乾いて聞こえる。
『不合格・要再訓練』
7枚目を燭台の台座に立てかけた。それから手帳の隅へ、今日のぶんを書く。夜会まで、あと17日。
数字を見ると、いつも胸のあたりが少し軽くなる。あと17回このやりとりをすれば、私は座ったまま自由になる。そのはずだった。
広間の扉が開いた。
学園の小舞踏会は、要するに卒業前の予行演習だ。本番の夜会と同じ順序で入場し、同じ順序で踊る。違うのは、失敗しても笑い話で済むというところだけ。
殿下の腕に手を掛けて入ると、話し声がひとまわり小さくなった。慣れている。この程度の視線は10年浴びている。
楽士が最初の和音を置いた。私は指を離し、壁際へさがった。
壁際で、少しだけ待った。この一連を、私は何十回も頭の中で組み立てている。殿下がリーゼ嬢のところへ歩く。腕を出す。彼女が受ける。そこで私の仕事はいったん終わって、あとは回数を重ねるだけになる。
殿下は歩いた。歩幅も速さも、教えたとおりだった。
リーゼ嬢の前で止まる。肘が折れて、腕が上がる。高さもちょうどいい。
「ヴィオレッタ。一曲、願えるか」
弦が、1本外れた。
広間の話し声が、端から順に消えていく。消えたあとに残ったのは、床を擦る誰かの靴の音だけだった。
リーゼ嬢は差し出された腕を見て、それから私のほうを見た。困っている。当たり前だ。目の前の王太子が、この場にいない人の名前を呼んだのだから。
いない人ではない。私は壁際にいる。名前を呼ばれて、返事もできずに立っている。
心臓が、耳のうしろで打っている。
落ち着け。よくある言い間違えだ。温室でもやった。あのときは二人きりだったから笑い話で済んで、今日は広間じゅうが聞いていた。違うのは人数だけで、中身は同じもののはずだ。
同じだと思っておかないと、私は次の一手が打てない。
戸口のあたりで、キリアン様が短く咳をした。
殿下の肩が動いた。それから、腕を下ろさないまま、はっきり言い直す。
「……失礼した。リーゼ嬢」
「は、はい。よろこんで」
楽士が調子を拾い直し、曲が続いた。二人は踊った。技術に問題はない。距離も拍も、支える手の位置も、私が直したとおりに直っている。
(見て。ちゃんと相手の目を見てる)
見ている。私が教えたことを、この人は今日も一つ残らず実行している。
それなのに、広間の空気だけが元に戻らなかった。
扇の陰でささやく人がいる。オクタヴィア様は柱のそばに立って、こちらを見ていた。今日は何も言ってこない。言わないほうが、よほど効く場面だと知っているのだと思う。
私は壁際で手帳を開いた。
今日の欄に、何を書けばいいのか分からなかった。
腕の出し方は満点だ。歩き方も、間合いも、目を見たことも。減点する項目が一つもない。ただ、名前だけが違った。名前だけが違うというのは、採点のどこに書けばいいのだろう。
0を書きかけて、途中でやめた。丸も書けない。
私は結局、横に線を1本だけ引いた。点でもなければ、丸でもない。棒が1本あるだけ。
曲が終わり、拍手が起きた。私も手を叩く。自分の手が思ったより冷たい。
人が引けた控えの間には、燭台の芯の焦げるにおいだけが残っていた。
卓の上に、角の擦り切れた黒い革が伏せてある。
「キリアン様。これ、殿下の」
「お預かりします、と申し上げたのですが」
キリアン様は手を出さなかった。出さないまま、こちらを見ている。
「殿下はもうお発ちになりました。明日の午後は、訓練場においでです」
「……つまり、私が持っていろと」
「そうは申しておりません」
言っていないのに、話がそこへ着いている。キリアン様と喋っていると、いつもそうなる。
私は黒い革を手に取った。表紙は思ったより温かい。ずっと内側に入れていたからだろう。
開けば、今日の一行が書いてある。「黙って」と書き足したところが。
指が表紙の縁に掛かって、そこで止まった。
私は開かなかった。人の手帳を勝手に読むのは、指導者としてではなく、人としてやってはいけないことだ。
袖の中の黒い革は、歩くたびに肘の内側へ当たった。明日の午後まで、開けないまま持っていることになる。




