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婚約破棄されたい悪役令嬢ですが、婚活を手伝ったら口説かれ続けています〜だめですよ殿下、こっちじゃなくて、そっちを見てください〜  作者: 夜凪 蒼


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第2話「そこは、砦じゃありません」

朝の図書室は、紙とインクと、うっすら埃のにおいがする。書架の向こうで頁をめくる音がひとつ、ふたつ。授業前のこの時間は人が少なくて、密談にも作戦にも都合がいい。


私は書架の陰にしゃがみ、10歩ほど先をうかがっていた。膝が痛い。公爵令嬢のやることではない。


今日の段取りは単純そのものだ。リーゼ嬢が落とした本を、通りかかった殿下が拾う。ひと言添えて、終わり。


前世のゲームなら、ここで数往復の会話が生まれて、見えない好感度がちょっとだけ伸びる。鉄板の場面で、何周も遊んだから流れは体に染みついている。問題は、私の教え子がこの世のどの殿方よりも不器用だということ。


リーゼ嬢が席を立った。腕に抱えた本が、合図どおりはらりと床へ滑る。よし、投下は完璧。


書架の向こうから殿下が歩み出てきた瞬間、私の背中を嫌な予感が走った。


——歩幅が、おかしい。


軍隊の行進である。背筋を一分の隙もなく伸ばし、一定の歩調を刻んで、まっすぐリーゼ嬢へ距離を詰めていく。獲物を追い込む猟犬の目で。


(そこは、砦じゃありません)


念じても届かない。殿下は落ちた本の前まで来ると、片膝をずんと床についた。叙任式のような重々しさで両手に本を捧げ持ち、低く通る声を宣誓のように響かせる。


「拾った。返す」


リーゼ嬢が半歩さがった。


栗色の髪が、おびえたように揺れる。それでも彼女は健気だった。引きつった笑みをどうにか浮かべ、震える指で本を受け取る。


「あ、ありがとう、ございます……」


「うむ。次は落とさぬよう気をつけられよ」


(よけいなひと言)


胸の前で組んだ手に汗がにじんだ。淑女に本を返すだけの動作で、どうやったらここまで威圧が出せるんだろう。リーゼ嬢は曖昧に頷くと、本を抱えて足早に去っていく。逃げ足だけは、はっきり速かった。


殿下はその背中を満足げに見送り、それから書架の陰の私を迷いなく振り返った。


ばれている。索敵能力だけは超一流だ。こういうときにかぎって王太子の地力を見せつけてくる。


「ヴィオレッタ。どうだった。完璧だったと思うが」


「0点です」


殿下の眉が寄る。心当たりがまるでない顔だ。


窓の外では朝の鐘が鳴りはじめていた。閲覧机には誰かの忘れた羽根ペンが転がっていて、書架の隙間から中庭の木がひとかたまり見える。おだやかな朝だ。おだやかな朝に、私は自分の婚約者を他の令嬢のところへ送り出して失敗している。


「殿下。女性は猟犬に追い詰められたいわけじゃありません。本を渡すのは、話しかけるための言い訳なんです。『拾った、返す』から、どうやって話が始まるんですか」


殿下は不服そうにしながらも、懐から黒い革の手帳を取り出した。そして、世にも真剣な顔でペンを走らせる。


『渡すのは言い訳。ほんとうの目的は、話をすること』


私の言ったことが、一言一句そのまま並んでいた。角の擦り切れた革の手帳で、留め紐の先が毛羽立っている。剣も政務も人に教わる必要のなかった人が、私のダメ出しだけを、宝物みたいに新しい頁へ書き溜めていく。見ていると、こちらの調子が狂ってくる。


「ヴィオレッタ。婚活の続きをしよう」


「使いこなさないでください、それ」


「よい響きだと言ったろう。それで、次はどうする」


「今のは作戦じゃなくて事故です。まず後始末からします」


手帳から紙を1枚破き、いつもの一行を書きつける。『不合格・要再訓練』。閲覧机の隅へ置いて、これで2枚目になった。


口で言うだけだと、この人は翌朝にはきれいに忘れている。紙にして残せば、少なくとも同じ失敗を二度は減らせる。


「では、次までに『おはよう』をまともに言えるようにしてください」


「『おはよう』に訓練が要るのか」


「殿下のは報告ですから」


心外そうに眉が上がった。それでも手帳はしまわない。


次の頁を開いてペンを構えたまま、私の言葉を待っている。深い青の目が、まっすぐこちらを捉えた。


「ひとつ聞いていいか」


「どうぞ」


「女性というのは、なぜ本心と逆のことを言う。『気にしないで』と言いながら、気にしている。あれが、私にはどうしても分からん」


意外だった。ポンコツだポンコツだと思っていたテオドールが、ちゃんと「分からない」を抱えていて、それを恥ずかしげもなく差し出してくる。ごまかす色も、馬鹿にする色もない。


「……宿題にさせてください。適当に答えたら、たぶん殿下は一生それを信じます」


「賢明だ」


殿下は満足そうに頷いて、手帳の頁の隅に小さく印をつけた。あとで確認する印らしい。宿題を出したのは私のほうなのに、期限を管理されている気がしてくる。


昼の食堂裏は、焼けたパンのにおいと洗い場の水音でいっぱいだった。空の桶が積み上げられ、その脇の階段にマルタが敷布を広げて待っている。膝の上には誰かのほつれた袖口と、針。


「本日の首尾は」


「本を返させたら、砦が落ちたわ」


「それはようございました」


「よくないわよ」


敷布に腰を下ろして、経過を全部話した。歩幅のこと。片膝のこと。「拾った。返す」のこと。


マルタは眉ひとつ動かさずに聞いていた。糸を引き、玉留めを作り、それから洗い場のほうを顎で示す。


「お嬢様。あちらをご覧くださいまし。桶を運ぶ者が、いちいち相手の顔を見て運びますか」


「見ないわね」


「殿下も同じでございます。任された物を、決められたところへ、正しく置く。それがお上手すぎるだけかと」


なるほど、と思ってしまった。悔しい。


私は前世でこのゲームを何周も遊んだ人間で、この学園の誰よりも殿下の攻略法に詳しいはずだった。それが今、洗い場の桶に負けている。


「では、どうすればいいと思う」


「わたくしにお訊きになる話ではございません。お給金の内に入っておりませんので」


「同罪って自分で言ったじゃない」


パンの端をちぎって口へ入れる。塩気が強い。そういえば朝から何も食べていなかった。


洗い場では水がずっと流れている。桶がひとつ、また積み上がる。袖口のほつれが、見ているうちに元の形へ戻っていく。


食べながら、私は殿下の宿題を考えていた。なぜ本心と逆を言うのか。答えなら、たぶん知っている。ずいぶん前から知っている。


「……怖いからよ」


「は」


「本心を言って、いらないって突き返されるのが。だったら最初から、欲しくないって顔をしていたほうが安いでしょう」


言ってから、しまったと思った。それではまるで、私自身の話だ。選んでもいない未来を渡された人間が、期待するのをとっくにやめた話。


マルタは針を止めなかった。こちらを見もしない。


「殿下には、なんとお伝えになるんです」


「そのまま言うわよ。それが仕事だもの」


そう答えたのに、口の中のパンが、なぜかうまく飲み込めなかった。


(……あれ)


手帳は膝に載せたままで、今日の欄には0としか書いていない。右の欄は今日も空いている。


あの人の宿題に、どうして私がこんなに本気で悩んでいるんだろう。

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