第1話「だめですよ、殿下」
「だめですよ、殿下。それじゃ、相手に嫌われます」
私は温室の奥、鉢の並んだ棚を指さした。そっちです。こっちじゃありません。そこにリーゼ嬢が立っていると思って口説いてくださいと、ついさっきお願いしたばかりだ。こっちに突っ立っているのは、あなたの婚約者。(自分の婚約者に、よその令嬢の口説き方を教えている。この午後、私はいったい何をしているんだろう)
王太子テオドール・フォン・グリンデルは、私の指の先をきちんと確かめてから、自分で切ってきた薔薇を両手で捧げ持った。それから、軍議でも始めるような声で言い放つ。
「リーゼ嬢。君の戦闘力を、私は高く評価している」
「0点です」と言いながら、手帳にそのまま書きつけた。
「……なぜだ」
「なぜもなにも、全部です。声の高さから間合いから、直すところしかありません。それに殿下、女性は自分を採点してくる殿方がいちばん苦手なんです」
「では、なんと言えばいい」
「点をつけないでください。特別だと思っている、と伝えてください」
「……特別」
午後の温室は土と若葉のにおいがする。ガラスは陽を溜めこんで、手を当てると生ぬるい。棚の下の如雨露から水がひとしずく落ちて、乾いたタイルに小さな染みを作った。
殿下は薔薇を見おろして低くつぶやいている。真剣な横顔だ。剣を持たせれば国でいちばん、書類を捌かせれば大臣が青くなる。真剣なのに、狙いだけがまるごと逸れている。
「ヴィオレッタ。ひとつ確認したい。間合いは何歩が適正だ」
「……なぜ、そこから訊くんです」
「近すぎれば警戒される。遠ければ声が届かん。適正値を知りたい」
(適正値。花を渡すのに、適正値)
「腕1本ぶんです。それより、口説くのに歩数を測る殿方は嫌われますからね」
殿下は歩幅を確かめるように半歩さがった。それから薔薇を持ち上げてみせる。
「もうひとつ報告がある。この薔薇は棘を全部落としてきた。渡すときに相手が負傷しては本意ではないからな」
(……そこだけは、悪くない)
声には出さない。うっかり褒めたら、この人は明日から棘を落とすことに全力を注ぎはじめる。それで肝心の口説き文句が一行も進まなくなる未来が、はっきり見える。
そもそも、なぜ私がこんなことをしているのか。
前世でさんざん遊んだ乙女ゲーム『きみと至誠の宮廷で』。その舞台がここで、私はその悪役令嬢——公爵令嬢ヴィオレッタ・アッシュフォードに生まれ直した。筋書きでは、殿下が男爵令嬢リーゼと結ばれ、嫉妬に狂った私が卒業の夜会で断罪される。婚約破棄、爵位剥奪、国外追放。
普通なら頭を抱えるところだと思う。けれど、あがくのは疲れる。逆らうのはもっと疲れる。私はできれば座ったまま自由になりたい。
だから、いちばん体力の要らない道を選んだ。殿下が本命を落とせば、殿下は勝手に幸せになり、私は勝手に自由になる。それをそのまま本人のところへ持っていって、取引にした。
「殿下。この婚活がうまくいけば、私たちはめでたく他人です。もう少し真面目にやってください」
「こんかつ、とはなんだ」
しまった。
「伴侶を探す活動のことです。私の——生まれる前の土地の言い方で」
「婚活」殿下が噛みしめるように繰り返す。「よい響きだ。目的がはっきりしている」
(そこ、気に入るところですか)
「では、もう一度。そっちを見て、言ってください」
殿下は薔薇を持ち直した。棚のほうへ向き直り、息をひとつ吸って——それから、まっすぐこちらを見た。
「ヴィオレッタ。私は、君といる時間がいちばん落ち着く」
温室が静かになる。
心臓が変な拍を打つ。指の先が、棘に触れたときみたいにちりっとした。息が半分どこかへ行っている。
……いや、待って。
「今、私の名前を言いましたね」
「練習だ。君に向かって言えと、君が言った」
「そっちです。こっちじゃなくて、そっちを見てください。本番のお相手はリーゼ嬢ですよ。間違えないでください、本気で嫌われますから」
「……ああ。そうだったな」
(落ち着け。ただの言い間違えだ)
殿下が目を伏せる。手の中の薔薇から、花びらが1枚ぽとりと落ちた。私は手帳の頁を1枚切り取って、そこに書いた。
『不合格・要再訓練』
紙を鉢の縁に置いて立ち上がる。置いていくのは意地悪ではなくて、決まりごとだ。0点を残しておかないと、この人は翌日には忘れている。
温室を出しなに振り返ると、殿下がしゃがみこんでいた。落ちた花びらを1枚だけ指でつまみ上げて、上着の内側へしまっている。
(……几帳面すぎませんか)
回廊の窓はもう夕方の色だった。柱の影が床に長く伸びている。
マルタが柱の陰から出てきて、私の歩幅に合わせた。
「本日の首尾は」
「0点ですって言ってきたわ。薔薇を捧げ持って、戦闘力を高く評価してくださったの」
「昨日と同じですね」
「一昨日とも同じよ」
歩きながら手帳を繰る。2頁目からは升目を引いてある。日付と、その日の課題と、点。線は私が引いた。埋まっているのは0ばかりで、右の欄はまだ一度も使っていない。
いちばん最初の頁には、自分の字で写しが取ってある。ひと月前に陛下が仰せになった、たった1行。
『テオドールが卒業の夜会までに、本気の相手を自分で見つけて、自分の口でわしに申し出よ。申し出がなければ、婚約は取り決めどおり進める』
王家と公爵家の縁組は、当人が嫌だと言って壊せるものではない。私が放り出せば家ごと転ぶ。ほどける道はこの1行しかない。殿下が誰かを本気で好きになって、陛下の前で口を開く。ほかに抜け道はなかった。
「殿方に恋を教えるのは、侍女の仕事の内には入っておりません。もっとも、わたくしは見張りをしているだけですから、せいぜい同罪どまりでございますけれど」
「同罪って言った、今」
マルタは手すりの埃を指でなでてから、袖口の糸くずをつまんで捨てた。
「お嬢様。ひとつ伺ってもよろしいですか。その取引、殿下のほうから断られたらどうなさいます」
……考えていなかった。
「そんな心配は要らないわよ。あの人、藁にもすがる顔で頷いたもの」
「藁のほうが、案外うれしそうでしたけれど」
「なにそれ」
「それと、首尾よくまとまったあとのご予定は」
「領地に帰って、本を読んで暮らすの。誰にも断罪されず、誰にも憎まれず、寝台の上で。最高でしょう」
「たいそう風通しのよいご老後で」
マルタはそれ以上答えず、私の肩掛けの位置を直した。庭のほうから土のにおいが流れてくる。温室で嗅いだのと同じにおいだ。あの人はまだあそこにいるんだろうか。花びらなんか拾って、何に使うつもりなんだろう。
(……いや、どうでもいい)
どうでもいい。私は座ったまま自由になる。ほかに用はない。
窓辺で立ち止まり、手帳の新しい頁を開いた。夕日で紙が橙色に見える。私は上の隅に、今日の分を書きつけた。
『1日目。0点。あと28日』




