第3話「ゲームと、違う彼女」
机の上に、書きかけの紙が4枚。羽根ペンの削りかすと、蓋を開けたままのインク壺。窓はまだ閉めてある。朝いちばんの明るさは薄くて、紙の白がすこし灰色に見えた。
いちばん上の紙に、私は表題を書いた。
『リーゼ嬢 攻略の手引き』
我ながらひどい代物だ。けれど要る。殿下に本気で誰かを口説かせるなら、まず相手の好きなものを知らなければ始まらない。そして私は、この学園の誰よりもリーゼ嬢に詳しいはずだった。
「好きな花は、すみれ」
書いてから、ペンが止まる。
すみれで合っていただろうか。前世で何周も遊んだあの物語には、たしかに花を贈る場面があった。あったのだけれど、贈った花の色までは出てこない。青だった気もするし、白だった気もする。記憶は虫食いの布みたいで、肝心なところにばかり穴が開いている。
「……まあ、すみれでしょう。たぶん」
『好きな菓子=甘さ控えめ』『得意な話題=刺繍』『苦手なもの=馬』
書き並べると、それらしく見えてくるから不思議だ。私は紙の右端に細い線を引き、検証欄を作った。当たったら丸、外れたら罰。昼までに答え合わせを済ませて、明日の稽古の材料にする。
2枚目には『殿下の課題』と書く。挨拶。所作。会話。贈り物。並んだ欄はどれも0だ。壮観ですらある。
試しに、すみれの花束を捧げ持った殿下を思い浮かべてみた。片膝をつく。低く通る声で「すみれである。受け取られよ」と言う。リーゼ嬢が半歩さがる。
……先に直すのは、花より声かもしれない。
こういう下ごしらえは嫌いではない。というより、これがいちばん体力を使わない。人の心を動かすのは大変だけれど、人の好みを書き写すだけなら机の前でできる。座ったまま片づく仕事から先に片づける。私の人生の方針は、だいたいこれで説明がつく。
3枚目には、自分の予定を書いた。『婚約が解ける』『領地へ帰る』『本を読む』。我ながらつつましい欲だ。4枚目は、まだ白いままにしてある。
「あとは殿下が、この紙のとおりに動いてくださればいいだけ」
言った瞬間、昨日の「拾った。返す」がよみがえった。
……紙のとおりに動く人だろうか、あれは。
考えるのはやめた。紙を4つ折りにして袖へ入れ、私は椅子を引いた。
中庭のベンチは、日向と日陰の境目にあった。リーゼ嬢はその日陰側に座って、膝に分厚い本を広げている。近づいて覗きこむと、頁いっぱいに草の絵と、細かい注意書きが詰まっていた。
「ごきげんよう、リーゼ嬢。それ、刺繍の図案ですか」
「あ、ヴィオレッタ様。いえ、薬草の本です」
私は袖のあたりを、そっと押さえた。
「根の張り方が面白いんです。水をやりすぎると腐りますし、やらなすぎても駄目で。そのへんの匙加減が、ちょうどいいところで釣り合っている感じが好きで」
得意な話題、刺繍。1つ目の欄に、頭の中で罰がついた。
「では、お花はいかがです。すみれとか」
「すみれは苦手です」
即答だった。
「虫がつきますから。摘んで部屋に置くと、次の日には机の上を小さいのが歩いています」
(そういう理由)
「お菓子は。甘さ控えめのほうがお好みでしょう」
「蜂蜜をたっぷりかけたやつが好きです。歯が溶けそうなくらいの」
罰。また罰。せめて最後の1つは当たっていてほしい。私は祈るような気持ちで、いちばん自信のある項目を出した。
「馬は、どうです。苦手ですよね」
「大好きです」
リーゼ嬢の目が、そこでようやくきらりと動いた。
「厩舎の子の首を洗ってやると、こう、鼻先で肩を押してくるんです。もっと洗えって。あれが可愛くて。ヴィオレッタ様も一度いらしてください、腕が上がるくらい重たいですけど」
全滅だった。
日向と日陰の境目で、私は立ち尽くしていた。刺繍でもなければ、すみれでもなく、甘さ控えめでもない。私が何周もかけて覚えたはずの女の子は、目の前にいない。
いや、いる。いるのに、私の知っている彼女ではない。
袖の中の紙が、急に薄っぺらく思えてきた。あの手引きに書いたことが1つ残らず外れているなら、私が知っているつもりでいた筋書きは、どこまで信じていいんだろう。断罪の場面も。追放の行き先も。
そこまで考えて、私は首を振った。今すぐ困るのは花と菓子と馬の話だ。世界の作りを疑うのは、もっと元気な日にやればいい。
「ヴィオレッタ様。どこか、お加減でも」
「いえ。……リーゼ嬢。ひとつだけ伺ってもいいですか。その、殿下のことは、どう思われます」
我ながら間の抜けた質問だ。婚約者が、婚約者の恋の相手に、恋の話を振っている。
リーゼ嬢は本を閉じ、しばらく考えた。それから、まっすぐこちらを見た。
「少し、苦手です」
あたりの音が、ひとつ残らず遠のいた。
「怖い方ではないんです。ただ、話しかけられると心臓が変になります。あれ、たぶん好きとは違うと思うんですけど。馬の背に乗せてもらった日と、揺れ方がそっくりなので」
私は口を半分開けたまま、しばらく声が出なかった。
苦手だと言った。王太子殿下を、その婚約者の前で、苦手だと。取り繕いもしない。逃げもしない。自分の心臓の揺れ方を、薬草の水やりと同じ調子で説明してみせた。
(……この子、強くない)
気がつくと手帳を開いていた。新しい頁のいちばん上に、私は『リーゼ嬢』と書いている。
「60点です」
「え」
「あ。いえ、なんでもありません。独り言です」
「変なヴィオレッタ様」
リーゼ嬢が笑った。栗色の髪が揺れて、日向のほうへ半分こぼれる。
「わたしからも、ひとつ伺ってもいいですか。ヴィオレッタ様は、殿下とご婚約なさっていて、毎日楽しいですか」
不意打ちだった。楽しいかどうかで考えたことが、そもそもない。
「……仲は、悪くありませんよ」
「それ、お答えになっていない気がします」
「よく言われるわ」
苦手を苦手と言える人は強い。前の人生でも今の人生でも、私にはそれができたためしがない。「どちらでもいいです」と言い続けて、言い続けているうちに、本当にどちらでもよくなった。楽ではある。楽なので、やめられない。
そして今日、私の手引きは全部外れた。彼女は私の書いた紙の外にいて、たぶん最初からずっと外にいた。
こういうとき、有能な指導者なら手引きを書き直すんだと思う。私は書き直さなかった。書き直すには、彼女のことをこれからちゃんと知らないといけないからだ。それはたぶん、楽ではない。
「わたし、そろそろ授業なので」
「ええ。……あの、リーゼ嬢。薬草の話、また聞かせてください」
リーゼ嬢は少し驚いた顔をした。それから本を胸に抱え直し、日向を横切っていく。影が短くなって、見えなくなった。
ベンチにひとり残って、私は袖から紙を引き出した。丸が1つもない検証欄を、しばらく眺める。
それから手引きを裏返し、まっさらな面に、線を1本引いた。




