第14話「妃にふさわしく、なんて」
『明後日の昼、邸へ戻られたし。 母』
書きつけはそれきりだった。用件も理由も、何刻までとも書いていない。母の字はいつも短い。短いぶん、断る余地のほうも短くできている。
公爵邸の応接間は、樟脳のにおいがする。
年に何度かしか使わない部屋で、椅子の掛け布は毎朝はたかれているのに、座った跡は一つもない。私は勧められた椅子に座り、勧められた茶を飲んだ。渋い。渋いので2杯飲んだ。
母は座らなかった。
窓のそばに立って、壁の額のほうを向いている。額の中身は王家から来た古い書状で、縁は金で、硝子は曇り一つない。
「ヴィオレッタ。学園であなたの名が出ているそうですね。殿下のお時間を、私事にお使いになっている、と」
「事実です」
母の肩が動いた。振り向きはしない。
硝子に映った母の顔が、こちらを見ている。額の中の書状より、映った顔のほうがよほど古びて見えた。
「……否定なさい」
「事実でもですか」
「事実であればこそです。人は、認めた者から順に軽く扱います」
(そこは、たぶん本当だ)
否定しなかったから、私は今、中庭で公開の場を持たれる立場になっている。母の言うことにはたいてい根拠がある。根拠があるところが、いちばん厄介だ。
「妃にふさわしくあれと、わたくしは何度申しましたか」
「数えたことがございません」
「わたくしのほうは、覚えております」
母が額の縁を指でなでた。埃を拭き取る動きだった。拭いたそばから、また同じところをなでる。
「この額に、去年から誰も触れていません。それでも毎日、埃が乗ります」
「……お母様が拭かれるからでは」
「そうね」
そうね、で終わった。母はそういう終わり方をする。
言い返されるのを待たない。待たないので、こちらの言葉はいつも宙に浮いたまま床へ落ちる。
「ヴィオレッタ。この家の領地は、お父上の代で半分になりました。残っているのは縁組だけです。あなたが選ばれなければ、次の代でこの家は終わります」
(選ばれる前提で、話が進んでいる)
言えるわけがなかった。私は自分が選ばれないよう、毎日せっせと段取りを組んでいます、とは。
「お母様。もし私が選ばれなかったら、お母様はどうなさいます」
母は少しのあいだ黙った。
「考えたことがありません」
「一度も、ですか」
「ええ。考える暇があるなら、拭いておりました」
「わたくしの申していることは、冷たく聞こえるでしょう。……聞こえます。わたくしにもそう聞こえます」
母がようやくこちらを向いた。
歩いてきて、私の前で止まる。襟のリボンに手が伸びた。ゆるんでいたらしい。結び直す指は、額を拭いていたときよりずっと速い。
「顔を上げていなさい。誰に何を言われても」
声の高さが、そこだけ違った。
私は返事をしそこねた。しそこねているうちに、母は手を離して、また窓のほうへ戻ってしまった。
王宮の庭は、夕方になると土のにおいが立つ。
殿下は評定が長引いているらしい。庭で待つように言われた。薔薇の垣は肩の高さまである。その向こうで鋏の音がしていた。しゃきん、しゃきん、と規則正しい。
垣を回ると、袖をまくった老人が枝を落としていた。上着は近くの石に脱いである。庭師にしては手が大きい。
「あの。こちらで待つよう申しつかったのですが」
「うむ。そこの石に座るとよい。日が落ちるまではまだ温かい」
言われたとおりに座った。石はたしかに温かかった。切った枝が足元に落ちて、青いにおいがする。
「この薔薇はな、うちの倅が10のときに植えたものでな。縄を張って間隔を測っておった。1本ずつ、寸を揃えて」
(……あの、それは)
「剣も強い。字も上手い。物覚えもよい。褒めるところしかない子でな」
「そうですか」
「ただ、あれは笑い方が下手であろう」
鋏の音が止まった。
私は座ったまま、老人の横顔を見た。日に焼けた首。太い指。それから、袖のまくり口から覗いている、庭師が持つには上等すぎる下着の縫い取り。
膝から力が抜けた。抜けたところで立ち上がろうとしたので、私は見事に石の縁でつまずいた。
「よいよい。座っておれ」
「へ、陛下——」
「娘よ。ようやく顔が見られた」
国王陛下は鋏を私の手に握らせた。何がどうなってこうなったのか、まるで分からない。
「そこの、下から2本目を落としなさい。混みすぎておる」
「あの、私は」
「落としなさい」
落とした。青くて硬い音がした。
「さて、娘よ。わしにも点をつけてくれ」
「……点」
「息子に毎日つけておるそうではないか。噂は宮中まで参るぞ」
(宮中まで行ってるんですか)
「40年前のこの庭で、わしは妻に申した。『そなたを娶る。国のためだ』と」
鋏を持つ手が、勝手に下りた。
国のためだ。40年前の春に、この庭で、この人はそう言った。相手の名前も、相手の何が好きかも、一つも入っていない一行だ。
「0点です」
「即答か」
「……失礼しました。癖です」
「よい。わしも40年、そう思うておった」
「娘よ。0点というのは、どのくらい悪いのだ」
「いちばん下です」
「その下は」
「ございません」
「では、わしは底におるのか」
「底です。もっとも、底からはそれ以上落ちませんので、そこはご安心ください」
陛下が笑った。低くて、短い笑い方だった。笑い方の下手な人の父親にしては、上手すぎる。
私は膝の上で手帳を開いた。頁の下のほうに新しい欄を作って、そこに書く。
『陛下——0点。求婚の言葉に、相手の名前が入っていない』
書き終えたところで、陛下が枝を置いた。
「娘よ。倅は、そなたに何を教わっておる」
「挨拶と、笑い方と、恋文と、踊りです」
「ずいぶん基礎からだな」
「基礎しかございません」
陛下は空のほうを見た。日はもう垣の向こうへ落ちかけている。
「あれは、教わるということをせずに育った。教わるには、できぬと言わねばならん。できぬと言えぬように育ててしまったのは、わしだ」
返す言葉を、私は持っていなかった。
「娘よ。ひとつ訊く」
「はい」
「亡き妻に、わしは何と言えばよかったと思う」
夕方の風が、垣の葉を鳴らした。
答えなら、いくつも出せる。天候でも国でもなく、その人にしか当てはまらないことを言えばいい。私は殿下にそう教えたし、たぶん明日も同じことを教える。
それなのに、口の中で言葉がばらばらになった。
この人の妻はもういない。渡す相手のいない台詞を、私は一度も採点したことがなかった。
「……申し訳ありません。今は、出てきません」
陛下は薔薇を1輪切って、私に差し出した。棘はついたままだった。
「棘は自分で落としなさい。倅は落としてから渡すそうだが、あれは甘やかしすぎる」
「……はい」
「よい。急がずともよいのだ。答えは、夜会の夜までに聞かせてくれれば足りる」




