第13話「なぜ、彼女なんですか」
「殿下がお呼びです。今すぐに、と」
寮の扉の外で、キリアン様はそれだけ言った。時刻はとっくに消灯を過ぎている。私は外套を羽織って、袖の中に破いたばかりの紙をねじこんだ。
空き教室の灯りは、燭台が1本きりだった。
机も椅子も昼のままの位置にあるのに、影の伸び方が違うだけで別の部屋に見える。窓の外は暗くて、ガラスがこちらを映していた。
殿下は窓辺に立っていた。上着の前は開いたままで、襟の留め金だけが外れている。あの几帳面な人が、留め金を直さずに人を呼びつけた。
「こんな時刻に、何事です」
「明日では遅い」
「そんなに急ぐご用が、おありなんですか」
殿下は答えなかった。答えないまま、何か言いかけて、それを飲みこんだのが分かった。
だから私は先に言うことにした。今日ならもう、遠慮する体力が残っていない。
「殿下。私も伺いたいことがありました。……そもそも、なぜリーゼ嬢なんですか」
「君が、そう決めた」
「はい、私です。手引きを作って、段取りを組んで、毎日押し出しているのも私です。でも、好きになるのは殿下でしょう。理由を一つ、ご自分の言葉でおっしゃってください」
沈黙が落ちた。
「……薬草に詳しい」
「それは私が渡した情報です」
「馬の脚のことを知っている」
「それはお茶会でご本人から聞いた話です。殿下がご自分で見つけたことを、伺っています」
殿下の唇が動いた。音にならずに閉じる。もう一度動いて、また閉じた。
一つも出てこない。
剣も政務も国でいちばんの人が、19年生きてきて、好きだと言うつもりの相手について自分の言葉を一行も持っていない。
(……ひどい。ひどいけど、私が作った状況だ)
私は袖から1枚の紙を出した。破いた手引きではない。もっと古い、四隅の柔らかくなった紙だ。今夜、鏡台の引き出しを開けて、しまってある手紙の下から引っぱり出してきた。
机の上へ広げる。
婚約の書付だった。羊皮紙ではなく、ただの紙の控え。下のほうに署名が二つ並んでいる。
「12歳です、これ。私の字は、名前を書き損じて上から書き直してあります。殿下の字は——」
「……最後の一画が、長い」
「そうです。長すぎて枠から出ています」
テオドールが紙の縁に指を置いた。灯りが揺れて、古い字の影が動く。
「なぜ書き損じた」
「手が震えていましたから。12歳でしたので」
「私もだ」
「殿下の字は、少しも揺れていません」
「そう見えるまで、前の晩に何十回も書いた」
私は紙の上の、長すぎる一画をもう一度見た。枠からはみ出したその線が、さっきとは別のものに見えてくる。
12歳のこの人は、名前を書くだけのために前の晩をまるごと使っている。私はといえば、当日の朝まで何も考えずに邸を出た。言われたとおりに書いて、書き損じた。
「この日、私たちは何も選んでいません。並んで立たされて、書けと言われて、書きました。それだけの日です」
言ってから、自分の言い方の冷たさに驚いた。冷たいのは事実だからだ。事実は、だいたい冷たい。
「殿下。だから今度は、ご自分でお選びになる番なんです。理由がないなら、それは恋ではありません」
「0点です」
「……何がだ」
「その恋がです。今日は、恋そのものに点をつけました」
手帳の頁の端を人差し指で押さえて、ゆっくり裂いた。夜の教室だと、紙の音は昼の倍ほど大きく鳴る。
『不合格・要再訓練』
8枚目を、婚約の書付の上へ置いた。
テオドールは、しばらくその2枚を見おろしていた。
「ヴィオレッタ。リーゼ嬢の名を、下ろす」
「私は彼女を本気で好きにはなれない。名を借りていただけだ。明日の朝、本人に詫びる」
窓の外で、風が木の枝を鳴らした。
私はその音を、計画が崩れる音として処理した。処理しないと、次に何を言えばいいのか分からなかったからだ。
「では、伺います。殿下の本命は、どなたです」
「言わない」
「言っていただかないと、教えようがありません。相手が誰かで、渡す花も、言葉も、間合いも、全部変わるんですよ」
「知っている。それでも言わない」
「なぜです」
「言えば、君は段取りを組む。組まれた段取りに乗って落とした相手を、私は自分で選んだと言えなくなる」
息が、喉の途中で止まった。
私は口を開いて、閉じた。反論の材料が一つも出てこない。今しがた自分で言ったばかりだ。ご自分でお選びになる番です、と。
「条件を出す。婚活は続ける。相手の名だけ、伏せる。それでも君は教えられるはずだ。……できないか」
(できるわけが、ないでしょう)
「……できますよ」
言ってしまった。
理由なら山ほどある。断れば取引が終わる。取引が終われば、夜会までの道が消える。どれもそれらしいけれど、たぶん全部あとづけだ。
本当のところ、私はさっき「自分で選んだと言えなくなる」と言われたときに、うっかり感心してしまった。感心した人間は、だいたい安請け合いをする。
翌朝の中庭の隅は、まだ露が残っていた。
殿下は「離れていてくれ」と言った。だから私は花壇の縁の、声の届かないあたりに立っている。掘り返したばかりの黒い土の上で、靴の先がすこし沈む。
リーゼ嬢が来た。殿下が何か言っている。風の向きで、切れ端だけがこちらへ届く。
名を、借りて。私の落ち度で。詫びる。
リーゼ嬢は驚かなかった。うつむきもしない。腕を前で組んで、最後まで殿下の顔を見て聞いていた。それから小さく頭を下げて、こちらへ歩いてくる。
殿下は反対側の回廊へ消えた。上着の前は、今朝はきちんと留めてあった。
「ヴィオレッタ様」
「……あの、リーゼ嬢。これは私の不手際で」
「知っていました」
土の上で、私の踵が半歩さがった。
「殿下がわたしを見ていないのは、はじめの頃から分かっていました。人は、見ていない相手にはああいう目をしますから。馬も同じです」
「……なぜ、おっしゃらなかったんです」
「訊かれませんでしたので」
風が花壇の土のにおいを運んできた。
この子はいつも、私の質問の一段下から返してくる。訊かれなかったから言わなかった、というのは、嘘を一つもついていない人の言い方だ。
「ヴィオレッタ様。お願いがあります」
「……なんでしょう」
「殿下の代わりに、わたしの恋を手伝ってください。あなたは人の恋にお詳しいですから」
「お相手は、どなたです」
「今は申し上げません。言ったら、たぶん止められますから。身分がどうとか、無理だとか。ですので、まだです」
断られたわけではない。断られたわけではないのに、こちらの手札だけが1枚ずつ減っていく。
朝の光が、芝の露を端から溶かしはじめていた。私の靴の先は、まだ土に沈んでいる。
「先に申し上げておきますけれど、わたし、告白は下手です。馬になら毎朝、好きだと言っているんですが」
「馬に」
「馬は逃げませんので」
(逃げない相手から始めるの、いちばん賢いのでは)
リーゼ嬢は本を胸に抱え直して、露に濡れた芝を横切っていった。栗色の髪が、朝の光の中で一度だけ跳ねた。
生徒が4人になった。そのうちの二人が、相手の名前を伏せている。
(名前のない人に、いったいどうやって花を選べばいいんだろう)
それに——私はどうして、どちらの依頼も断らなかったんだろう。




