第15話「いちばん恥ずかしい失敗」
20、21、22。
そこで数えるのをやめた。多すぎる。
薔薇園の入口の柱に寄りかかって、私は集まった人の頭を数えていた。園遊の下見という名目で声をかけたら、声をかけた数の倍が来た。学園というのは、こういうところだけ働きが速い。
生垣の内側で、リーゼ嬢が薬草の話を誰かにしている。反対側の日陰にオクタヴィア様が立っていた。今日も後ろに4人ついている。手すりのそばに小柄な下級生が固まっていて、その後ろにも知らない顔がいくつか並んでいた。
作戦は単純だった。
名前を言えないなら、言わずに渡せばいい。殿下が薔薇を切って、渡したい人のところへ歩いていく。歩いた先を見れば、私は名前を訊かずに相手を知ることができる。名を伏せるという条件は守られたまま、稽古だけが進む。
我ながらよく考えたと思った。よく考えたと思っているときが、私はいつもいちばん危ない。
「殿下。手順を申し上げます。花を1輪。棘を落として。渡したい方のところへ、まっすぐ歩いてください」
「名は」
「おっしゃらなくて結構です。歩いた先が答えになりますから」
「……なるほど。合理的だ」
「でしょう。今日の私は冴えています」
殿下は納得した顔で頷いた。納得していただけた、と私は思った。
殿下が薔薇の前に立った。
上着の袖を軽く上げる。それから下から2本目の枝を選んだ。陛下の言っていたとおり、この人は選ぶ前に必ず全体を見る。切ったあとは、指で棘を一つずつ落としていく。
(そこは変わらないんだ)
棘を落とすところだけ、この人は最初から満点だ。
園の話し声が、少しずつ小さくなった。何が始まるのかを、たぶん半分は察している。
殿下が歩き出した。
歩幅は一定。速すぎず、遅すぎず、教えたとおりだった。日陰のオクタヴィア様が扇を持ち上げる。生垣のそばでリーゼ嬢が本を閉じる。園の全員が、どちらへ折れるのかを見ていた。
殿下は折れなかった。
まっすぐ来た。柱に寄りかかっていた私の正面で止まる。そして、薔薇を差し出した。
「ヴィオレッタ」
私は受け取らなかった。
「殿下。相手が違います」
「違わない」
「違います。私は練習台です。本番のお相手は——」
「いない」
薔薇園が、しんとした。
日向のほうで、誰かが持っていた籠を取り落とした。その音がやたらに響いて、そのあと、いくつか笑い声が混じった。
私の頭の中では、段取りが総崩れになっていた。
名前を伏せた相手が、この園にいるはずだ。だから場を作った。歩いた先を見れば分かる。それなのに、この人はまっすぐ私のところへ来て、稽古の相手に花を渡そうとしている。
順番が違う。練習台に本番の花を渡す人がいますか。
読み違えたのは、名前ではない。名前を伏せる理由のほうだ。身分の話だとばかり思っていたから、身分の並んだ場所を用意した。用意した場所で、殿下が困っている。
「殿下。これは稽古です」
言ってしまってから、園の空気が変わったのが分かった。
「今日の課題は、渡す所作の確認でした。ですから、その花は」
「まあ」
日陰から、よく通る声が飛んできた。
「差し出された花を、稽古とお呼びになるの。……ヴィオレッタ様。あなたの稽古は、ずいぶん高くつきますこと。わたくし、覚えておきますわ。今日の一件は、語りでのあるお話ですもの」
笑い声が広がった。押し殺した種類の笑いで、そのぶん長く続いた。
扇が閉じた。閉じる音のほうが、開いていたときよりよく響く。
殿下は花を持ったまま、私を見ていた。怒っていない。それがいちばん悪かった。
リーゼ嬢が半歩前に出て、それから出しかけた足を戻した。
「……失礼します」
私は柱から離れて、園の外へ歩いた。走らなかったのは、走ったら負けだと思ったからだ。負けているのに、そういうところにばかり意地を張る。
夜の回廊は、昼の暑さが石の中にまだ残っている。
窓の並びの端に、殿下が立っていた。灯りをつけていない。手には昼の薔薇。花首がわずかに垂れている。半日、水にも入れずに持ち歩いたらしい。
「殿下」
「来たか。灯りはつけておらん。そのほうが、顔が見えなくてよい」
「今日は、私の誤りでした。あの場を作ったのは私です。名前を訊かずに済ませようとして、いちばん人の多いところへ殿下を出しました」
「そうだな。人を出す場所を決めるのは、指揮を執る者の役目だ」
「……はっきりおっしゃいますね」
「君がそう教えた。誤りは認めて、次を言え、と」
(言いました。たしかに言いました)
自分の教えた文句が、この頃やたらと私に返ってくる。返ってくるたび、少しずつ角度が悪くなっている気がする。
「では、次を言います。明日から公開の場は使いません。名前を伺えないなら、伺えないなりの——」
「ヴィオレッタ」
テオドールが窓のほうへ半歩よけた。灯りのない回廊で、声だけがすぐそばにある。
「私は、渡す相手を間違えていない」
「……意味が分かりません」
「渡したい相手は、隣にいる」
回廊の端で、風がどこかの扉を鳴らした。
私は自分の指が肩掛けの端を握りしめているのに気づいた。離そうとする。うまく離れない。
胸のあたりが熱いのに、頭のほうは妙に速く回っている。回りながら、いつもの引き出しを開けにいく。この台詞をどこで聞いたか。誰が教えたか。
「……それ、私が教えた言い方です」
「知っている」
「相手のことを一つ、具体的に言えと申し上げました。隣にいる、では具体的ではありません。0点です」
「そうか」
「その一言で終わらせないでください」
声が裏返った。指導者としてこれ以上ないくらい、みっともない裏返り方だった。
「殿下。ひとつだけ伺います。今日の花は、稽古のつもりでしたか」
「稽古のつもりなら、半日も持って歩かん」
(それを、ここで言いますか)
「私、今日いちばん恥ずかしい失敗をしました」
「どれのことだ」
「……いくつもありましたか」
「君は、私が渡したものを人前で稽古と呼んだ。恥をかいたのは私だ。それなのに君は、私に恥をかかせた自分のほうを数えている」
言い返せなかった。殿下はときどき、こちらが用意していない角度から入ってくる。
殿下は何も言わなかった。手の中の薔薇を、窓台の上へ置いただけだった。
置いて、行ってしまった。
私は手を伸ばした。指が花の茎に届く手前で、そこから先へ進まなくなる。伸ばした手を、私はゆっくり引いた。
窓台の上で、切り口の白いところがまだ濡れている。




