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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第一話 山の悪霊
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「皓輝兄貴……?」


 名を呼ばれ、思わず身構える。とたんに光の顔にもさっと表情が戻り、そのまま素早く上体を起こした。とりわけ警戒心の強い肉食獣のように。


「何……え? ここどこ?」


「……」


 きょろきょろと辺りを見回し一通り混乱した後、光は睨んでいると言っても差し支えのない鋭い視線で俺を射抜いた。父親譲りのはっきりとした目鼻立ちは、光自身の気の強さにきりりと際立った。

 まるで、全てはお前のせいだと詰るような面持ちである。


「兄貴、これはどういうこと? ここはどこ?」


「知るか」


 そうとしか答えようがなかった。俺だってそれを知りたいのだから。しかし、自分の声は思ったよりも頼りない。

 誰かのため息のような強い風が吹く。不気味に揺れる木々は嘲るようで、不安感を煽られた俺たち兄妹はしばらく口を閉ざした。

 身震いを堪え、黒い木立の群れを睨みつける。ちらり横目で窺えば、妹はこめかみに指を当て、状況を飲み込もうとしていた。


「……確か、飛び降りちゃったんだよね。兄貴と一緒に」


「そうだったか」


「え、覚えてない?」


 声を裏返させる光に、俺はまあ、と曖昧に頷く。光の反応を見る限り、やはり俺は自殺したらしい。


「兄貴本当に覚えてないの? 屋上から飛び降りたんでしょ」


 さっき夕飯食べたでしょ、みたいな口調だ。

 生憎、記憶が残っていなかった。錆びついた屋上に立ったのは覚えている。いざ飛び降りようとしたとき、背後から誰かの声が聞こえたのも。恐らくあれは光の声だったんだろう。何故その先を忘れているのか。


「で、お前はそんな俺に付いてきたのか? 一緒に落ちたのか?」


「あたしは……」


 光は一瞬口籠ると、急かされるように何故か早口で告げる。


「兄貴が合格発表から帰ってこないから、どうせ落ちたんだろうなって思って……嫌な予感がして探しに行ったら屋上に上って自殺しようとしていて」


 ひとつ、咳払いをして光は続ける。


「止めようとしたら、兄貴すごい怒って飛び降りたんじゃない。本当に覚えてない?」


「……」


 覚えていなかった。俺は怒っただろうか。確かに、その怒りを想起するのは容易かった。何せ根本を辿れば、俺を自殺に追いやったのはこの光なのだから。

 人は極端に感情が昂ぶると意識や記憶が飛んだりするものだ。自殺という状況でパニックを起こしたとしても不思議ではない。

 光は細い眉を寄せて、真っ直ぐに俺のことを見据えている。少なくとも、今のこいつが嘘を言っているようには見えなかった。


「それで、お前も飛び降りたんだな?」


 念を押すように問えば、光はばつが悪そうにゆっくり俯いた。恐らく頷いたのだろう。「止めようとして……気づいたら」と蚊の鳴くような声が聞こえる。

 俺は呆れる。光は、落ちるつもりなどなかったのだろう。自分なら兄を止められるという自信があったに違いない。事故にしては不幸というか間抜けというか。

 本末転倒である。何のために俺が飛び降りたと思っているんだ。余計なことを。

 何とも言い難い微妙な間が流れた。お互い目も合わせず、あまりに遣る瀬無い顛末に光は沈み、俺は呆れ返って舌打ちをする。

 やがて、控えめな声音で光が訊いてきた。


「ここはどこ……?」


「死後の世界じゃないのか」


 面倒臭くて、適当に口走る。実際問題、ここがどこかなんて今の俺にはそれほど重要なものではなかった。本当に死後の世界が存在するのか、光と議論する気も起きない。

 少なくとも、およそ世間で言うところの天国ではなさそうだが、天国と地獄の二択ならば間違いなく後者に落ちる自信があり、それはそれで考えたくない。

 とにかく俺は、これ以上苛立ちが募る前に妹から離れたいという衝動に駆られている。


「でも、本当に死んじゃったの……?」


「四階建ての校舎から人間が落ちて、助かるなら生きているんだろうさ」


 再度、舌打ち。いつになく戸惑った様子の光に妙に苛立つ。ようやく実感が湧いたのか、スカートの裾を握る手は震えていた。

 徐々に思考力が鈍った俺の脳は、沸騰しているかのようだ。ふつふつと音を立てて頭蓋で震えている。泣きたいのはこちらの方だ。

 各々、物思いに耽ること数分。俯いていた光が、張り詰めた糸を緩めるように息を吐いた。


「兄貴、どうして自殺なんかしたの?」


「は?」


「受験に落ちたから屋上からも落ちるって、洒落か何かなの」


 別に、面白さを求めて自殺した訳ではない。受験に落ちたことだけが自殺のきっかけでもない。心の中でそう答えるが、妹とやり合うのも億劫で声には出さなかった。

 ただ遠回しに、こんな状況になったのはお前のせいだと罵られたようだった。


「だいたい、受験に落ちたのだって勉強してこなかった兄貴が悪いんでしょ。自業自得じゃん。死んで解決することなんて何もないのに、自分だけ一人で自由になろうなんて、そんなのただの怠慢だよ。思考の放棄だよ」


「黙れ」


 己の口から押し殺した声が漏れた。唸りのようであった。

 お前に何が分かる。恵まれた環境でぬくぬくと育ったお前に、そんなお前の陰にいなくてはならなかった俺の、何が分かる。

 ふざけるなよ、と。

 気が付けば俺は、光に背を向け立ち上がっていた。さすがに理性が右手を制止する。しかし母さんの精神的な影響が遠く薄れた今、これ以上こいつと一緒にいると手が上がってしまいそうだった。

 拳を握り、どうにか込み上げてきたものを腹に収める。そして俺は、樹木が生い茂る陰鬱な森の方へと歩き出した。


「ちょっと、皓輝兄貴どこ行くの!?」


 慌てた様子の声も聞こえない振りをして、ずんずんと薄暗い陰影に足を踏み入れる。

 道らしいものはない。木の根が地面を張り巡り、足場の悪さが煩わしさを煽った。一歩ごとに地面は沈み、或いは不意を突くように何か固いものを踏む。その度に、湿って腐敗した植物の匂いが撒き散らされた。

 どこへ行くのか、己がどこにいるのかも考えていない。ただこの胸糞の悪さを発散したくて、やたらと引っ掛かる太い茎の笹藪を脚で掻き分け、でたらめに進む。

 幸い──というより、奇妙なことに──俺の目は暗い場所に強い。生まれつきの病気は俺の目を夜行性の動物のようにした。慣れさえすれば夜目が利く。

 ここがどこかなんて、どこに行くのかなんてこの際どうでも良かった。衝動的な自暴自棄が俺の足を動かし続けた。

 特徴のない樹木の群れとなだらかな苔。仄白い夜霧の帯は延々と続いている。まるで人生のようだ。暗くて出口がなくて、救いもない。


 ふと鼻先に水の流れを感じ、足を止める。暗澹と沈んだ樹々と草藪の向こう、囁くようなせせらぎの音がした。河が近いらしい。

 好都合だ。河川は山歩きの道標になる。水も飲める。そこまで考えて俺は首を捻った。そんなことをする必要があるのだろうかと。今の俺に必要なのは三途の川だろうに。

 懲りずに追いついてきた光に一瞥もくれず、俺は首を伸ばして茂みの遠くにある黒々とした流れを覗き込む。さほど大きな河ではない。手前の淵が濁っているので、深さはあるのだろう。

 ゆったりと湛えられた河水はうねり、僅かな光を弾き、岩に裂かれて再び下流で合流する。何の変哲もない。が、その底の見えぬ淀みに何やら不吉なものを覚えた俺は、姿勢を戻した。


「兄貴、闇雲に歩いたら迷子になるよ?」


「既に迷子けどな」


 俺は舌打ちする。光と迷子になるなら一人で迷子になる方が余程ましに思えた。

 そんな悪辣な言葉を吐き捨て、更に川の上流へと遡ろうとするが、光の小さな手に服の裾を掴まれた。


「目印か何か置いた方がいいんじゃないの。せめて、来た道だけでも分かるように」


「目印って何」


「……パンとか、白い小石とか?」


「それはグリム童話」俺は得も言われぬ脱力感に襲われる。「この状況はヘンゼルとグレーテルより危機的だろうが」


 小学校五年生らしい発想ではあるがあまりにも緊張感に欠け、真面目に怒るのも阿保らしくなる。

 どうでもいいが、ヘンゼルとグレーテルもこんなに仲の悪い兄妹じゃなかったと思うぜ。


「兄貴、何か持ってないの」


「ない。何もない」


 財布もスマートフォンも全部家に置いてきた。せいぜい腕時計がひとつ。どう見ても狂っているので使い物にならない。

 スマートフォンのひとつでもあればどこかと連絡がついたかもしれないが、多分ここは圏外だろう。外部との連絡手段がないことよりも、三途の川の渡し賃がないことを心配すべきかもしれない。

 全くの打つ手なしに光は腕組みをして考え込んでいる。この状況に解決策を見出そうとするその前向きな姿勢はさすがだった。光はいつも、努力をすれば大抵のことはどうにかなると考えている。

 俺はどうしようもなく天を仰いだ。

 水墨画のように薄明るい夜空が、重なる梢の間を埋めていた。目が慣れ、完全な闇という訳でもないと気づく。風にたなびく雲が、真上の月を仄白く翳らせている。死後の世界に天体があるというのも妙な話だ。


「──ん?」


 そのときだった。不意に風に乗ってきた異臭が鼻を刺激する。漂ってきた、というよりは、ずっと前からあった空気が急にむっと濃くなった感じだった。

 思わず眉が寄る。俺は右手で鼻を押さえたまま、周囲の様子を探る。


「皓輝兄貴? どうしたの?」


「……」


 何かが近付いて来ていた。何か、得体の知れないものが。そんな予感がする。森の奥から、空の上から、ゆるりゆるりと。その匂いは徐々に濃密さを増し、俺の心を不安げに揺らした。

 確実に、こちらへ向かっている。そっと風上の方向に目を凝らし、耳を澄ました。不意にぞくりと広がる悪寒。首筋に鳥肌が立つ。


 やや前屈みに異臭の元へと意識を尖らせれば、光は怪訝そうにこちらを見上げた。「兄貴、どうしたの?」


 妙だ。

 どうすべきか判断つかぬまま、冷や汗だけが背を伝う。光、と俺は呼んだ。逃げた方がいいかもしれない。そう伝えようと振り返ったとき、そこにいたはずの妹は忽然と姿を消していた。




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