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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第一話 山の悪霊
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Ⅰ



 落ちていく。悲鳴が聞こえる。これは俺の声だろうか。

 視界が滲み、迫りくる地面を見たのを最後に、俺の意識は途絶えてしまった。


 暗闇。上下の感覚がない。落ちているのか、浮いているのか、止まっているのか分からない。遠くに感じる混乱の他に、何も感じない。

 身動きが取れず、俺は呻く。意識がはっきりしてくるにつれ、それは背中に地面があるせいだと気付く。何となく柔らかく、ひんやりとしている。瞼を押し上げてみても、ほとんど暗闇のまま変わりない。僅かに淡くなった闇の中に、何かが動いている。動物のように意思を持った動きではなく、風に吹かれてざわめいている。

 俺は慌てて起き上がった。途端に目が回る。

 地面は平坦ではなかった。凹凸があり、馴染みのない湿った匂いがする。土と草の青臭さがある。


「──……」


 眩暈が俺をより混乱させた。頭を強く殴られた後のようだった。記憶を手繰り寄せられるようになるまで、しばらくかかった。

 徐々に、中学校の屋上に立ったことを思い出す。飛び降りようとしたことも。そこに至るまでの十五年分の人生も。しかし今置かれている状況だけが、切り離されて宙に浮いている。

 ここはどこだろう。 

 俺はゆっくりと首を伸ばし、注意深く辺りを観察する。暗闇は立体感を欠いていた。大小の樹々が、背景に仄暗くぼやけて浮かんでいる。人影のように錯覚し、ぎょっとする。

 息を吸い込めば、やはり土の匂いがした。寒い。だが、耐えられないほどではない。地面は苔のようなもので覆われているらしく、雑草が疎らに生えている。

 視野の利く限り人工物は一切見えない。森の中──いや、山の中と言った方が正しいか。

 冷たい風が頬に触れる。俺は徐々に湧き上がる畏怖や混乱を押し殺し、じっと五感を研いだ。

 とにかく状況を把握しなくては。

 立ち上がろうとしたとき、俺ははたと止まる。傍らにある低い灌木の茂みの下に、靴が見えた。サイズ二十センチほどの、擦れたような疵のある子どもの靴だ。裏側に刻印された金色のロゴは、半ば削れているものの僅かに光を放っている。

 俺はそれを以前見たことがあった。今朝家を出たとき、玄関に同じものがあったはずだ。嫌な予感がした。しかし、確かめない訳にもいかない。

 靴の持ち主は横向きに倒れていた。灌木の数歩後ろで、ぐったりとしている。意識を失っているようだが、一定の呼吸は聞こえる。俺は愕然とした。


「光(ひかり)……?」


 横たわっている光の姿は、普段よりも人形らしく見えた。

 顔も手足もまだ幼く、奇妙に丸いところと、奇妙にひょろりとしたところが共存している。白い丸襟のワンピースが、その起伏のない身体を上品に飾っている。

 どうして、光がここに。

 俺は、必死に呼吸を落ち着かせた。そうしなければ訳も分からず叫び出してしまいそうだった。肩を揺さぶって光を起こすべきかも分からなかった。仮に光が目を覚ましたとして、この状態が悪化することこそあれ好転するとは全く思えなかった。

 光は、四歳下の妹である。

 状況を整理しよう、と俺は努める。まずここは一体どこなのか、見当もつかない。恐らく俺は自殺をしたのだから、ここは死後の世界と考えるのが妥当か。俺は首を横に振る。そんな場所が実在するのか俺は知らないし、考えたくもなかった。仮に死後の世界だとしても、何故光がここで寝ているのかということはもっと考えたくなかった。

 脳裏に、最悪の可能性がちらつき始めている。

 俺が受験した高等学校の合格発表は午前に行われ、光の小学校は春休みだった。不合格を言い渡された俺は自宅に帰ることなく屋上へ向かった。

 もしも光が俺の何か勘付いて、俺の後ろをつけ回していたのだとしたら──?

 意外なことではなかった。というより、充分に有り得る話だった。俺ともつれるように屋上から落下する光の姿がありありと浮かぶ。それが俺の妄想なのか、実際に起こったことなのか果たして分からない。だが、この妹ならやりかねない。

 光は傑作、俺は失敗作。父方の親戚に言わせてみれば、俺たちはそういう兄妹だった。生まれつき奇形奇病を患っていた俺を両親は忌み、“普通”の光を溺愛した。

 成長するにつれ、光は信じ始めた。兄の性格や人間的な欠点や、学業上の幾つかの問題点は兄の努力不足の表れである、と。単なる怠慢である、と。そうして恐らく、自分には失敗作の兄を更正する義務のようなものがあるとも信じていた。

 それは半分当たりで、もう半分は的外れである。 


「ん……」


 うつ伏せの光が微かに身じろいだ。小さな呻きの後、頭が動く。その目がゆっくりと開かれ、虚ろに暗闇を映した。やがてその視線が俺を捉えた。暗闇の中で、薄い硝子片が煌めいたようだった。

「皓輝兄貴……?」

 知らず、身体に力が入る。途端に光の顔にもさっと表情が戻った。そのまま素早く上体を起こす。


「ここ、どこ?」


「……」


 辺りを見回し一通り混乱した後、光は俺を睨んだ。「お父さんに似ている」と周囲から褒めそやされるくっきりした目鼻立ちは、見る度に俺を鬱屈とさせた。


「兄貴、これはどういうこと? ここはどこ?」


「知るか」


 そうとしか答えようがない。俺だってそれを知りたいのだから。しかし自分の声は思ったよりも頼りなく、萎んで消えてしまいそうだ。

 不意に、誰かのため息のような強い風が吹いた。木々のざわめきが鎮まるまで、俺たち兄妹はしばらく口を閉ざす。俺も光も、こんなに人工物のない場所にいるのは初めてだった。

 光はこめかみに指を当てる。


「……確か、飛び降りちゃったんだよね。兄貴と一緒に」


「そうだったか」


「え、覚えてない?」


 まあ、と俺は曖昧に頷く。光の反応を見る限り、やはり俺は自殺したらしい。


「兄貴本当に覚えてないの? 屋上から飛び降りたんでしょ」


 さっき夕飯食べたでしょ、みたいな口調だ。

 生憎、それをはっきり確信できるだけの記憶が残っていなかった。錆びついた屋上に立ったのは覚えている。いざ飛び降りようとしたとき、背後から誰かの声が聞こえたのも。恐らくあれは光の声だったんだろう。その先のことは上手く思い出せなかった。


「で、お前はそんな俺に付いてきたのか? 一緒に落ちたのか?」


「あたしは……」


 光は一瞬口籠ると、急かされるように何故か早口で告げる。


「兄貴が帰ってこないから、どうせ受験は落ちたんだろうなって思って。嫌な予感がして探しに行ったら、屋上に立って自殺しようとしていて」


 ひとつ、咳払いをして光は続ける。


「あたしが止めようとしたら、兄貴すごい怒って飛び降りたんじゃない。本当に覚えてない?」


「……」


 覚えていなかった。俺は怒ったのだろうか。あのとき、後ろまで来ていたであろう光に対してそれをする猶予があったのだろうか。しかし確かに、その怒りを想起するのは容易かった。根本を辿れば、俺を自殺に追いやったのはこの光だ。

 極端に感情が昂ぶったせいか、自殺という異常な状況でパニックを起こしたのだろうか。俺の記憶と光の言い分がちぐはぐでも、少なくとも今は嘘を疑う理由がない。


「それで、お前も飛び降りたんだな?」


 念を押すように問えば、光はゆっくり俯いた。恐らく頷いたのだろう。「止めようとして……気づいたら」と蚊の鳴くように言う。

 俺は怒るよりも先に呆れる。光は、落ちるつもりなどなかったのだろう。自分なら兄を止められるという自信があったに違いない。事故にしては不幸というか間抜けというか、本末転倒である。

 何のために、俺が飛び降りたと思っている。

 沈黙があった。互いに目も合わせず、あまりに遣る瀬無い顛末に光は沈み、俺は舌打ちをする。

 やがて控えめに、光が訊いてきた。


「ここはどこ……?」


「死後の世界じゃないのか」


 俺は面倒臭くなる。実際問題、ここがどこかなんて今の俺にはそれほど重要なものではなかった。本当に死後の世界が存在するのか、光と議論する気も起きない。

 少なくとも、およそ世間で言うところの天国ではなさそうだが、天国と地獄の二択ならば間違いなく後者に落ちる自信があり、それはそれで考えたくない。


「でも、本当に死んじゃったの……?」


「四階建ての校舎から人間が落ちて、助かるなら生きているんだろうさ」


 再度、舌打ちをする。いつになく戸惑った様子の光に俺は苛立つ。光の手は青白く、震えていた。泣いたり笑ったりすれば何かが解決すると考えている、光のそういう幼稚なところが嫌いだった。

 数分が経った。外気に晒された身体が冷たくなり始めたとき、俯いていた光が息を吐いた。


「兄貴、どうして死のうとしたの」


 光は、横目で俺をじっと見つめていた。赤くなった目の端に涙が滲んでいるが、語気は強い。


「どうして?」


 俺は訊き返す。光が本気で訊いているか分からなかった。いや、光が俺に説明を求めるわけがない。ただ遠回しに、こんな状況になったのはお前のせいだと言いたいだけなのだ。

 光はこちらを睨む。


「そもそも、受験に落ちたのだって勉強しなかった兄貴が悪いんでしょ。自業自得じゃん。死んで解決することなんて何もないのに、自分だけ一人で自由になろうなんて、そんなのただの怠慢だよ」


「黙れ」


 己の口から声が漏れた。唸りのようであった。

 お前に何が分かる。恵まれた環境でぬくぬくと育ったお前に、そんなお前の陰にいなくてはならなかった俺の、何が分かる。

 ふざけるなよ、と。

 気が付けば俺は立ち上がっていた。「何?」と光が目を見開いて問う。その瞳は薄い涙の膜で光っている。「あたし何か間違ったこと言っている?」


 俺は睨み返す。光の表情の奥に、僅かな揺らぎが見える。俺は何も言わない。拳を握り、踵を返す。樹木が生い茂る森の方へと歩き出す。


「ちょっと、皓輝兄貴どこ行くの!?」


 慌てた様子の声も無視し、薄暗い陰影に足を踏み入れる。

 道らしいものはない。木の根が地面を張り巡り、一歩ごとに地面は沈む。或いは不意を突くように何か固いものを踏む。その度に、湿って腐敗した植物の匂いが撒き散らされた。

 どこへ行くのか、己がどこにいるのかも考えていない。ただ俺はでたらめに、太い茎の笹藪を脚で掻き分けて進んだ。

 特徴のない樹木の群れとなだらかな苔。仄白い夜霧の帯は延々と続いている。まるで人生のようだ。暗くて出口がなくて、救いもない。

 奇妙な話だが、俺の目は暗闇をよく見通せる。生まれつきの病気は俺の目を夜行性の動物のようにした。慣れさえすれば夜目が利く。ここがどこかなんて、どこに行くのかなんてこの際どうでも良かった。俺は足を動かし続けた。

 ふと、鼻先に水の流れを感じた。歩みを緩める。近づくにつれ、淀んでいた空気が僅かに軽くなった。地面の勾配に沿って黒く茂る草藪の向こう、囁くようなせせらぎの音がした。河が近いらしい。

 好都合だ。河川は山歩きの道標になる。水も飲める。そこまで考えて俺は首を捻った。そんなことをする必要があるのだろうかと。今の俺に必要なのは三途の川だろうに。

 光は懲りずに追いついてきた。一瞥もくれず、俺は首を伸ばして茂みの遠くにある黒々とした流れを覗き込む。さして大きな河ではない。手前の淵が濁っているので、深さはあるのだろう。

 ゆったりと湛えられた河水はうねり、僅かな光を弾き、岩に裂かれて再び下流で合流する。特に変わったところはない。が、その淀みに不吉を覚えた俺は、姿勢を戻した。


「兄貴、闇雲に歩いたら迷子になるよ?」


「既に迷子けどな」


 俺は舌打ちする。光と迷子になるなら一人で迷子になる方が余程ましに思えた。更に川の上流へと遡ろうとすると、光の手に服の裾を掴まれた。


「目印か何か置いた方がいいんじゃないの。せめて、来た道だけでも分かるように」


「目印って何」


「……パンとか、白い小石とか?」


「それはグリム童話」俺は脱力感に襲われる。「この状況はヘンゼルとグレーテルより危機的だろうが」


 小学校五年生らしい発想ではあるがあまりにも緊張感に欠け、真面目に怒るのも阿保らしくなる。

 どうでもいいが、ヘンゼルとグレーテルもこんなに仲の悪い兄妹じゃなかったと思うぜ。


「兄貴、何か持ってないの」


「ない。何もない」


 財布もスマートフォンも家に置いてきた。せいぜい腕時計がひとつ。どう見ても狂っているので使い物にならない。スマートフォンのひとつでもあればどこかと連絡がついたかもしれないが、電波が通じているとは思えない。外部との連絡手段がないことより、三途の川の渡し賃がないことを心配すべきかもしれない。

 この期に及んで、光は腕組みをして考え込んでいる。光はいつも、努力をすれば大抵のことはどうにかなると考えている。対する俺は天を仰いだ。妹を前にすると、ますます捨て鉢な態度を取りたくなるのだった。

 地上に比べ、空は水墨画の背景のように仄かに明るく感じられる。目が慣れると、ここは完全な闇ではないことに気づく。風にたなびく雲が、真上の月を翳らせている。果たして死後の世界にある天体を月と呼べるのか、考えたくない。


「──ん?」


 不意に、上流からの風に乗って、生温かな異臭を感じた。空気が急にむっと濃く、温度を帯びたようでもあった。その小さな不快さに、思わず眉が寄る。


「皓輝兄貴? どうしたの?」


「……」


 何かが近付いて来ていた。何か、得体の知れないものが。そんな予感がした。森の奥から、空の上から、ゆるりゆるりと。その匂いは徐々に濃密さを増し、俺の心を不安げに揺らした。

 確実に、こちらへ向かっている。異臭は濃くなっている。そっと風上に目を凝らし、耳を澄ました。不意にぞくりと広がる悪寒。首筋に鳥肌が立つ。

 光は怪訝そうにこちらを見上げた。


「兄貴、どうしたの?」


 どうすべきか判断つかぬまま、光、と俺は呼んだ。逃げた方がいいかもしれない。そう伝えようと振り返ったとき、そこにいたはずの妹は忽然と姿を消していた。



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