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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第一話 山の悪霊
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Ⅲ


 

 次に目を醒ましたとき、俺はまだ森の中にいた。


 背中に当たる窪みの中に、固い木の根の形を感じる。身体の感覚はぼんやりして、目を開いても白く滲むばかりで焦点が合わない。俺の心は、曖昧な領域を漂っていた。そこには、よく見慣れたがらんと広いばかりの自宅のリビングがある。淡い模様が浮かぶクロス張りの白い天井、分厚い硝子を凝った形に加工した、吊り下げのペンダントライト──全てが妙に眩しく、明るく感じた。リビングあるはずの家具も、いるべき人も、全ての輪郭が溶けて、眩い光に侵されていた。


 不意に鋭い痛みが指に走る。動かそうとした瞬間、呻く。土の匂いと、何かが燃える酷い悪臭を感じる。目の前は眩すぎるほど明るかった。あの暗い森の中にいる自分の存在を意識の端で思い出しながら、俺の魂は幻想を漂っている。どちらが現実なのか、思考が定まらない。

 辺りを見ようとしたが、首が動かなかった。それは無造作に顔を掴まれているせいだと遅れて気付いた。


「生きている」


 不意に人の声が聞こえた。俺にも理解の出来る言葉だった。ただ、それが日本語であったかといえば自信がない。奇妙な発音だった。生温かい息遣いが顔に懸かる。誰かが俺の顔を覗き込んでいる。ぼんやりと瞬きをしたが、それは焦点を合わせるためでなく、ただ明かりに対して反射的にそうしただけだった。

 周囲はまだ暗いままだった。気を失ってから然程時間が経っていないのだろう。悪臭のする炎を顔に近付けられていた。恐らくこの唐突な明るさによって意識が揺り動かされた違いない。

 顎を掴まれていて、身じろぎが出来なかった。差し向けられているのは木の棒に布と松脂を沁み込ませた松明だったが、馴染みがないためその名称は意識に上らなかった。周囲を取り囲む何者かの姿をようやく目に留める。幾つかの声がぼそぼそと暗闇を震わせていた。幽霊か何かに囲まれているように思えた。

 顔面も髪も煙で煤け、汗で汚れ、炎を反射してやけに目がぎらついている。決して清潔とは言えない衣服はそれぞれ自前のものなのか、集団でいる割にはいまいち統制を感じられない。


「行き倒れか?」


「さあな。悪霊にでも襲われたんだろう」


「気を付けろ、毒に触るな」


 会話は聞こえるが、意味が留まらないまま通り過ぎてゆく。男たちの顔のひとつひとつは判然としないものの、俺は外国人を前にしたような居心地の悪さを覚える。

 いや、もしかすると彼らにとっては俺の方が外国人なのだろうか。

 俺の顎を掴む男が訊ねてくる。


「お前はネクロ・エグロか」


 はっきり聞き取れず、精一杯に眉を顰める。


「皇国のネクロ・エグロだろう」


 今度は確信的な口調だった。俺は当然答えようがない。初めて聞く単語だった。

 反応を示さない俺に、男は「まあいい」とだけ呟く。そしてちらりと横目で隣の男に目配せをする。どこか事務的で、情動が感じられない。

 顎を離され、代わりに別の男の手が俺に伸びる。ぐったりとした俺の耳に、およそ予想もしていなかった言葉が飛び込んできた。


「若い男のネクロ・エグロは上等だ。高く売り捌ける」と。


「痩せているが歯が全部ある」


「七百陌は固い」


 顔を松明に晒されて値踏みされる俺は、苦しい体勢のまま動けない。身体のあちこちが軋むように痛く、半覚醒の幻想はようやく消え去りつつあったが、いずれにせよ目の前のやり取りが現実であるとも思えなかった。相手の言葉が理解出来るだけに、己が何かの演劇に紛れ込んでしまったようにすら錯覚する。

 ここは一体どこで、何なのか。彼らに訊ねてみるという選択肢が過るも、馬鹿正直に質問したところでまともに答えが返ってくるとは思えない。男が、縄のような長いものを取り出したのが見えた。


「ま……て」


 俺は声を絞り出す。その瞬間、痛みと苦しみで、内臓が口から出そうになる。声が届いている手応えが薄い。


「待て……!」


 渾身の力で声を張り上げる。男たちの手が一瞬止まる。冷や汗が額を伝い、首筋を濡らした。とにかく、今ここで何か言わなければいけないことは分かった。


「俺は……病気だ」


 囁き声程度のものだが、今度は確実に届いた感触があった。男たちが油断のない目付きで目配せし合う。間髪入れず俺は「近づくな」と息絶え絶えに言う。


「移れば死ぬぞ。死にたくなければ離れろ」


「はあ?」


 人身売買の男たちは、歯を剥き出しにして笑った。俺は一瞬の内に色々なことを考えた。こんなことをして何の意味があるのか、と思った。もう命なんて惜しくないはずだ。誰にくれてやっても構いはしないのではないか。

 いや、まだだ。すぐ思い直す。壮絶な痛みのお陰で、理性が戻ってきていた。この場所に他の人がいるのは分かったが、必ずしも安全とは呼べない。先ほどどこかへ行ったはずの光が無事でいるところを見届けるまで、死ぬ訳にはいかない。痛覚や死の恐怖が残っているというのは、まだ生きている証拠なのだ、恐らく。


「信じないなら、これを見ろ」


 俺は苦労して袖を捲る。松明の火に照らされ、腕が剥き出しになる。心臓は早鐘のように脈打っていたが、俺の声は取り繕った表面上の落ち着きを取り戻していた。火に晒された俺の腕は、皮膚が鱗のように細かくひび割れ、固くなっていた。


「これは致死性の皮膚病で、接触すると人に感染する。俺ももうすぐ死ぬ。だから近づくな。放っておけ」


 視線が腕に集まっているのを感じる。多少気を引く程度の効果はあっただろうか。俺を普通から切り離したこの奇妙な病気を、今の俺は生き延びるための活路として利用している。そんなことが過る。

 突如として、目の前が真っ赤に染まった。

 息つく暇もない。背後から固いもので横薙ぎに殴られたのだと分かったのは、しばらくしてからだ。余韻が鈍痛となり、数秒あまり、意識が飛んだ。無造作に腹を蹴り飛ばされる。ごろり、仰向けに地面に転がされた俺は、「これでもまだ、その出鱈目を続けるつもりか?」とせせら笑う声を聞いた。

 間髪入れず二撃目が降ってくる。俺の身体は実に呆気なく地面に転がる。どうして、と思う。こんなにも簡単に嘘が見破られた理由が分からなかった。目の前が暗くなってゆくのを感じる。あまり売り物を傷つけるな、と宥める声すらも嗜虐的な笑いを含んでいた。

 断わりもなく腋の下に手を入れられ、俺は荷物の如く引き摺られた。ただ放心する。生暖かい液体が額を伝う。涙? 血? 脳髄? その判別もつかない。


 ところが──何の前触れもなく、辺りの空気は凍りついた。不明瞭な悪臭が迫ってきている。男たちの口々から、困惑にも似た吐息が漏れる。徐々に、彼らの影が離れていく気配がした。

 喘ぐように肩で息をする俺は、もう指一本動かせない。何が起こったか気に掛ける余裕もない。俯せで肩を激しく上下させる。咳き込む。

 ぼたり。不意に、粘着質な液体が雫となって頬に降った。樹上から。酷い腐臭がする。


 これは一体何だろう。


「よ、蜮(ヨク)だ!」


 後退りしながら、賊の一人が顔を引き攣らせる。そこに浮かんだ恐怖の相に、俺はようやく様子がおかしいと気付いた。男たちは、先程まで俺に振るっていた威勢の良さなど嘘のように、情けなく後退り、逃げ惑い始めている。

 彼らの視線は、頭上に集中していた。そこに何かがいる。腐液を滴らせ、葉陰に身を顰めたものの息遣いを感じる。


 ──あの獣だ。


 刹那、真っ黒い毛並みを靡かせ、あの悪夢のような獣が暗がりに躍り出た。

 そして、ギイとかギャアとか、とにかく文字では言い表しがたい軋んだ鳴き声を上げ、闇を滑空するモモンガの如く、そのしなやかな体躯を目一杯に伸ばして飛び掛かったのだ。

 悲鳴じみたどよめきが森閑を乱す。餌食になったのは賊の一味だった。

 頭部に噛み付かれた男が狂ったように引き剥がそうと暴れるも、その努力は空しい。仲間の一人が曲がった刃物のようなものを振るい、獣の尾先を散らす。

 威嚇の絶叫が鼓膜を劈いた。転がるように地面に着地した尖り耳の獣は、怒りと興奮を剥き出しにして猛々しく吼えたてる。その口腔からねばついた毒がほとばしり、男たちは滑稽なほど叫んで転ぶ。

 俺は混乱していた。これを好機と見なすべきか、はたまた更なる不運と呼ぶべきか判然としない。

 あの野獣がこちらを助けに来てくれるほどの理性と思いやりを持っているとは到底思えなかった。むしろ、そいつは俺が先に見つけたのだと言わんばかりに、獲物を渡すまいと彼らに牙を剥いているようだった。

 何にせよ痛めつけられた身体では、逃げるという選択肢すら喪失していた。敵が増えたところで窮地に追い詰められていることに変わりない。枯れ草が踏み荒らされる音が聞こえる。怒号と喧騒が飛び交う。


 そのときだった。地面に蹲る俺の耳が、突如ひとつの声を捉える。これだけの騒ぎの中にいながら気が付けたのは、唯一耳に馴染んだものだったからだ


「兄貴!」


 まるで暗闇を切り裂くよう、その声はどこからか俺を呼んでいた。



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