第37話 王子様系モデルの甘い休日(7)
頬に頬がくっつく。互いの鼓動が聞こえる。柔らかい。ふわりと、大人っぽい香りが広がる。香水だろうか。それから、トロピカルな匂いがほんの一瞬だけ、通り過ぎていく。
僕は抱きしめ返すことができなくて、両手をさまよわせた。
「……玲音が、怒ります。ルール違反だって」
そんな言葉が出てきた。
「む。見ていないから、いいのだ。だいたい、いいか、姫ちゃん。今日は私の番なのだぞ?」
ぎゅう、と強く抱きしめられる。
「玲音の話を、するんじゃない」
「……ごめんなさい」
「まったく、鈍い男だ。いや……」
耳元で、一輝先輩が囁く。
「姫ちゃんは、鈍くないよな。鈍いには鈍いが、今に至ってはもはや、鈍いふりをしているだけだ。そうだろう? 私達の好意に気づいているよな?」
――呼吸が止まりそうになる。
どくどくと心臓の音が耳に響く。
「……あ。ええと……」
「答えなくていい。ただ、知っておいてほしいだけだ。私も――いや、私達も、この場所の心地よさを壊したくはない。でもな、姫ちゃん。私は一年経たないうちに、卒業するのだ」
少しハグが緩んで、一輝先輩の顔が正面に来る。
顔が真っ赤で、目が潤んでいる。……僕も同じかも。やけに唇に目がいく。トロピカルな香りが強くなる。
「僕なんかが、とか思っているだろう? 姫ちゃんの自己評価の低さが、どこから来ているのかは知らないけれど、それは、好き好んできみの家に通っている私達にも失礼だ。きみは、私達三人が好意を抱くに値する人間だ」
「で、でも、僕は本当に、ただちょっと料理が好きなだけで……、それが、偶然、いろんな機会と噛み合っただけで」
「些細なことで、人は人を好きになる。……違うな。ちょっとしたきっかけひとつで誰かを好きになって、何が悪いのだ? 些細な偶然? いいや、それこそが運命ってものなのだと、私は思う」
ゆっくりと、顔が……、唇が、近づいてくる。
僕は――。
僕は、思わず。
顔を逸らした。
「……すまない。急ぎすぎた。きみの気持ちを確認しなければな。私のことは、嫌いか?」
「そんなわけっ……、そんなわけないです」
「では、他に好きな人がいるのか? 玲音か? 薫? ……どちらでもない?」
僕の顔を見て、一輝先輩は微笑んだ。目尻が少し光っている。
「……そうか。やっぱりな。素敵な方だからな」
一輝先輩の両手が僕から離れ、彼女のぬくもりが遠ざかっていく。
立ち上がって、ハンガー掛けからダブルジャケットを手に取り、羽織る。
「わかるよ。でも、大人しくて控えめな私だが、こればかりは譲れない。必ずきみを振り向かせてみせる」
何も言えない僕に、一輝先輩は歩み寄った。
「今日はごちそうさま、姫ちゃん。ありがとう」
「いえ、その……」
ふいに、頬に温かくて湿ったものが触れた。
完全な不意打ちだった。
驚いて顔を上げると、悪戯っぽい表情の一輝先輩が、踵を返すところだった。
「油断大敵だぞ。気を抜いたら、次は姫ちゃんまで食べてしまうからな。それじゃ……おやすみ」
そう言って、玄関に向かった。引き戸を開ける音。閉める音。
帰っていったのだ。きっと、真っ赤な顔のまま。
「……どうしよう」
呟いても答えは出ず。
僕は一時間くらいソファで呆然としてから、キッチンに向かった。とにかく片付けと掃除をしよう。没頭しよう。他の何も気にならなくなるまで。
うん、そうしよう。
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