第78話:代わりを、立てる
「だめ」
もう一度、私は言った。
カイルが眉を寄せた。
「行かなきゃ、婆さんが死ぬぞ」
「行く。誰かが行く」
私は言った。
「あなたが、行き続けるのがだめなの」
◇
板の間の空気が、動かなくなった。
私は自分の手が震えているのを見た。
握って、止めた。
「聞いて」
私は言った。
「いま、この村でいちばん動ける人は、たぶんカイルよ。道を知ってる。雪を知ってる。集落の全部に顔が利く。……だから、みんな、彼に行ってほしいと思ってる」
誰も否定しなかった。
「私も、そう思った」
私は言った。
「一瞬、思った。……彼が行けば、たぶん、いちばん早い」
私は息を吸った。
「でも、いちばん早い形は、いちばん先に切れる形なの」
◇
私は板の間の真ん中へ出た。
地図を、みんなのほうへ回した。
「三月です」
私は言った。
「冬は、あと三月あります。……その三月、彼は雪の中を歩き続けることになります」
「そりゃ、統治官様なら」
誰かが言った。
「できるだろ」
「できます」
私は言った。
「できるから、危ないんです」
私は顔を上げた。
「できる人が一人いると、みんな、その人に頼みます。頼んでも回るからです。……回っているあいだ、誰も別のやり方を考えません」
私は言った。
「そして、その人が倒れた日に、村は、何も持っていません」
◇
私は、王都の話をした。
一年、たった一人でこの国の穴を押さえていた人の話を。
休め、と何度も言われたこと。
誰も、代わりを立てなかったこと。
――倒れて十日で、代わりの形ができたこと。
「一年やらなかったことが、十日でできました」
私は言った。
「その一年は、要らなかった一年です」
板の間の隅で、セレナが目を伏せていた。
誰も、彼女のほうを見なかった。
私は、それがありがたかった。
◇
「じゃあ」
と、水番の老人が言った。
「どうしろって言うんだ、姉さん」
私は地図を指した。
「番にします」
「番」
「水と同じです」
私は言った。
「毎日、誰かが必ず歩く。順番で。一人が三日続けて歩かない。……歩いた人は、見たことを板に書く。次の人は、それを読んでから出る」
「そんな、素人が雪の山際なんぞ」
「素人は、行かせません」
私は言った。
「山際へは、道を知っている人が行きます。……でも、本村と川沿いの三つなら、行ける人は何人もいます」
私は指を折った。
「トマス。水番の見習いが四人。若い衆が七人。……セレナは薬を持って川沿いを回れます。ミリアは字が書けます」
私は言った。
「私も、一人分、歩きます」
◇
「あんた」
老人が言った。
「一人分か」
「一人分です」
「そりゃ、少なくないか」
老人は言った。
「あんた、あの力があるだろう。水を動かす。……あれ使えば、道の雪くらい」
板の間の目が、私に集まった。
何人かは、期待の目だった。
私は、その目を見返した。
――これだ、と思った。
これが、いちばん楽な道だ。
私が力を使えば、今日の問題は片づく。
明日の問題も、たぶん片づく。
そして三月後、村は。
――雪の道を、自分で歩けなくなっている。
「使いません」
私は言った。
「なんでだ」
「私も、一点だからです」
私は言った。
「私が雪をどけたら、この村の冬は、私がいないと越せなくなります。……私は、来年ここにいません」
私は言った。
「私は、いなくなる人です。……いなくなる人に、冬を預けないでください」
◇
老人は、しばらく私を睨んでいた。
それから、鼻を鳴らして、笑った。
「――ああ、そうだ」
彼は言った。
「あんた、そういう人だったな」
彼は膝を叩いて立ち上がった。
「わしは川沿いなら行ける。目は悪いが道は知っとる」
「うちも行く」
テアが言った。
「うち、朝の水番のあと、上まで行ける」
「テアは、ばあちゃんのそばにいなさい」
「やだ」
テアは首を振った。
「ばあちゃんのそばにいるだけだと、うち、たぶん、おかしくなる」
私は、その言葉に何も返せなかった。
十三の子が、それを知っていた。
◇
その夜のうちに、板ができた。
六つの集落の名前が縦に並んで、横に日が並んでいる。
名前が埋まっていった。
三日で埋まった。
三月分ではない。
――十日分だけ埋めて、あとは十日ごとに書き足すことにした。
先まで全部決めると、決めた人がいなくなったときに止まるからだ。
カイルは、その板をずっと見ていた。
名前の並びを、上から下まで、二度読んだ。
彼の名前は、一つだけ入っていた。
山際の、いちばん難しい回だけ。
三月のうちの、六日ぶん。
「……六日か」
カイルは言った。
「六日です」
私は言った。
「あとは、みんなが歩きます」
◇
薬は、三日目に届いた。
届けたのはトマスと若い衆の二人だった。
ハンナの熱は、その日の夜に下がった。
テアはハンナの手を握ったまま、板の間で眠ってしまった。
私はその子に上着を掛けた。
掛けながら、思った。
――私は、何もしていない。
薬を運んだのは私ではない。
熱を下げたのはセレナの薬だ。
道を開けたのは若い衆だ。
私がしたのは、順番を書いた板を一枚、壁に打っただけだ。
それでよかった。
初めて、心の底から、それでよかったと思えた。
◇
外へ出ると、雪はやんでいた。
月が出ていた。
雪の面が、青く光っている。
カイルが、詰所の前で薪を割っていた。
こんな時刻に。
こんな月の下で。
私は、その背中に声をかけた。
「カイル」
「なんだ」
私は、言うべき言葉を四日かけて探していた。
探して、まだ見つかっていなかった。
だから、いちばん短いものを言った。
「――行っていいよ」
斧が止まった。
◇
「あの辞令」
私は言った。
「受けていい」
カイルは、こちらを向かなかった。
「……理由を聞こうか」
「あなたが要る場所は、私だけじゃないから」
私は言った。
声が、思ったよりしっかり出た。
「回る領が六つあって、そこに水と人の割り振りを組み直せる人がいない。……あなたにはそれができる。あなたにしかできない、じゃなくて、あなたにはできる」
私は言った。
「それから」
私は雪を踏んだ。
きしむ音がした。
「私が要る場所も。……あなただけじゃ、なくなった」
カイルが、ゆっくりと振り向いた。
「あの板に、私の名前が入ってるの」
私は言った。
「一人分だけ。……でも、入ってる」
私は言った。
「私、四か月ぶりに、順番のうちの一人になったの」
◇
カイルは、斧を雪に突き立てた。
そして、こちらへ二歩歩いてきて、止まった。
月の光で、彼の顔がよく見えた。
いつもの無愛想な顔だった。
その無愛想が、少しだけ、崩れていた。
「……おい」
カイルは言った。
「お前、俺を追い出す気か」
リシェルが止めたのは「カイルが行くこと」ではなく、「カイルが行き続けること」でした。
いちばん早い形は、いちばん先に切れる形。
できる人が一人いると、みんなその人に頼みます。頼んでも回るからです。
――そして、その人が倒れた日に、村は何も持っていません。
答えは、番でした。水と同じように、順番で歩く。一人が三日続けて歩かない。
先まで全部は決めず、十日分だけ埋めて書き足していく。決めた人がいなくなっても止まらないように。
力を使えという声も、リシェルは断ります。
理由は、自分もまた一点だからです。――いなくなる人に、冬を預けてはいけない。
板に並んだ名前の中に、カイルの名は六日ぶんだけ入りました。
そしてリシェル自身の名も、一人分だけ入りました。
そのうえでリシェルは、カイルに行っていいと言いました。
それが彼女なりの「代わりを立てる」だったのですが、言われた側は、まったく別の意味に受け取ったようです。




